凌統が広間に入ってきたのを見て、が嬉しそうな表情を浮かべる。
 甘寧は、それを偶々見ており、逆に不機嫌になった。
 凌統はを嫌っているようだったし、も凌統を苦手としているようだったのだが、水練の為にしばらく留守にしていた間、何か変化でもあったのだろうか。
 頑なに見えて、親切にされると誰とでもすぐに打ち解ける。
 前はそこもの美点と思っていたが、あの凌統にまで打ち解けてしまったのかと思うと、何だか腹立たしくなったのだ。
 ところが、当の凌統は甘寧の前でぴたりと足を止め、突然喧嘩をふっかけてきた。
「何、睨んでんだよ」
「……あ? 誰がお前ぇなんざ睨むか。絡んでんじゃねぇ」
 ただでさえ苛ついていた甘寧は、剥き出しの棘を感じる凌統の声に嫌悪感を露にした。
「絡んでんのはあんただろ。しばらく静かで良かったのに、まぁたそんな賑々しいお姿拝見するのかと思うと、ぞっとするね」
「何だと、コラァ!」
 甘寧が掴みかかるより早く、凌統の拳が甘寧を殴りつけた。
 実際に手が出るのは珍しい。初めてと言っても良かった。
 頭に血が上った甘寧が、凌統目掛けて飛び掛る。
 突然の乱闘騒ぎに、蜀の陣営は呆然として声を失った。
「お、お頭!」
 は慌てて飛び出すが、あまりの剣幕に手を出しかねておろおろとしている。
 呂蒙と陸遜が二人を引き剥がそうとするが、凌統は陸遜の手を振り解いて甘寧に飛び掛ろうとする。
 凌統が伸ばす腕から甘寧を庇いつつもその甘寧を抑えねばならず、呂蒙は四苦八苦した。隙をついてが甘寧に飛びつき、腕にしがみ付いて必死に留めようとする。
 甘寧の意識がに向いたのを切っ掛けに、呂蒙は凌統を取り押さえる方に回った。
「離せ、離せよ!」
 凌統は尚も暴れ、仕方なく呂蒙は広間に向けて軽く頭を下げ、凌統を取り押さえたまま広間を辞した。

「離せ、離せって……って、もうここら辺でいいかな」
 広間から呂蒙の執務室に戻ると、凌統はそれまで荒げていた声を平静のものに戻した。
 呂蒙が驚き目を見張っているのを尻目に、凌統は素早く外に目を凝らし、扉を閉めた。
「いやぁ、陸遜殿が俺の方に回って来た時は、これは失敗したかなと思ったんですがね……上手く呂蒙殿に連れ出していただけて、良かった」
 へらへらと、薄笑みすら浮かべている。
 いったい何のことかと首を傾げると、凌統は呂蒙の手を引き、内緒話だと耳に口を寄せる。
 の侍女、春花が居なくなった件を端折って話し、の室に一度戻ったと説明した。
「……そこでね、殿の部屋から出てきたの、いったい誰だと思います?」
 呂蒙は、嫌な物を見るように凌統を睨めつける。
「えぇい、焦らさずにさっさと話せ。いったい、誰を見たというのだ」
 一瞬、凌統の顔に逡巡する色が過ぎった。
 呂蒙は、その一瞬から嫌な考えに囚われた。
「……まさか」
「そう、そのまさかですよ。我等の周公瑾都督が、殿の室から出ておいでになったんですよ……!」
 凌統の言葉は、苛立ちに満ちていた。
 どうして自分がこんな馬鹿なことを言わなくてはならないのか、腹を立てているようにも見えた。
 言われてみれば確かに、周瑜は凌統が広間に来る少し前にやって来て、執務がどうとか孫策と話していたのを呂蒙は漏れ聞いていた。
 特に何とも思わなかったのだが、陸遜からの相談のこともあって、何となく耳をそばだててしまっていたのだ。
 更に考えを詰めてみると、何に付け真面目で時間配分にも慎重な周瑜が、宴の時間に食い込むほど執務に手間取るとは考えにくく、おかしいと言えばおかしなことなのだった。
「俺が中に入ると、いなくなったはずの侍女が主の牀ですやすや寝ておられましたよ……これはいったい、どういうことなんだと思います?」
 凌統の問いは、それこそ呂蒙が問いたい事柄だった。

 が手巾を顔に押し当てるのを、甘寧は邪険に振り払った。
「こんなんたいしたことねぇよ、いいって」
 口の端がぴりっと痛む。舌で舐め取ると、かすかに血の味がした。殴られた拍子に切ったものらしい。
 の目が、不安そうに甘寧を覗き込む。
 さすがにばつが悪くなって、甘寧はの頭を軽く叩いた。
「マジで、何でもねぇって……酒で消毒すりゃ、すぐ治るって」
 飛び出してきたのをいいことに、の手を引っ張って自分の隣に据えてしまう。
 はうろたえたように姜維を振り返ったが、甘寧はその顔を無理やり自分に向けてしまう。
「何だお前ぇ、俺の相手はできねぇっていうのか?」
 からかっているような甘寧の言葉に、はどう反応していいのか分からず固まる。何にしろ、顔が近過ぎて恥ずかしい。
 姜維や趙雲はむっとしているのではないかと心配になるものの、両手で頬を固定されているものだから如何ともし難い。
「前は、ずっとこっち側に座ったんだ、いいだろうよ今日ぐらい」
 ずいずいと顔を近付けられるので、は慌てて甘寧の手を引き剥がした。
 甘寧の手は思った以上にあっさりと外れ、の膝の上におとなしく揃えて置かれた。
 目の前の甘寧の顔が、にっと無邪気に笑みを浮かべる。
「いいよな?」
 先程の喧嘩のイメージが強烈で、再び不機嫌にしてはならぬと何となく思い込んだ。
 少しなら、と言いつつ姜維に目を向け、案の定むっとしている姜維に愛想笑いを浮かべる。
 甘寧は、呂蒙が使っていた杯を取り上げると、入っていた酒を盛大に膳にぶちまけ、空にしてしまう。自分の杯をに差し出し、呂蒙のものは自分用に挿げ替えた。
 新しいものを頼めばいいのにと思いつつ、は逆らわずに甘寧の呑みかけに口を付けた。
 あ、と小さな声が上がる。
 何かいけないことをしたかと辺りを見回すが、誰も何も言わないので何がいけなかったのか判断が付かない。
「……ま、いいか。呑もうぜ、酌してくれ」
 誰かが口を付けた物に口を付けるのは、それなり以上に親密の証なのだが、はそれを知らないので首を傾げている。
 甘寧は甘寧で、が知らないでやったと察していながら、思わぬ親密の証を、何となく嬉しく感じていた。
 とにかく、は甘寧の機嫌が良くなったことにほっとし、春花はどうしているのだろうかと思いに耽る。凌統のあの様子では、恐らく見つかったのだろう。思い込みかもしれないが、凌統は春花を探し出すまでのこのこと宴の広間に戻ってくる男ではないと思う。もし見つからないにしても、まずに何がしかの合図を出してくれるのではないかと思うのだ。
 やたらと苛々しているようだったから、ひょっとして何処かとんでもないところに居たのだろうか。例えば、縁の下とか軍議の間とか、入ってはいけなさそうなところに潜り込んでいたとしたら、凌統のあの苛々ぶりも納得できる。
 出来れば今すぐ確認に行きたいところだが、凌統に会いに行くのに甘寧を放り出したら、また一騒動になってしまいそうで、叶わなかった。

 宴が終わった後、は姜維への挨拶もそこそこに室に駆け戻る。
 春花は牀ですやすやと眠っていた。
 良かった、と腰が抜ける思いだ。
「もう、心配かけてー」
 春花の柔らかな頬を突付くが、春花はくすぐったそうに身動ぎしただけで、一向に起きる様子はない。
 凌統が探し出して、ここに連れてきてくれたのだろうか。
 必死になって探していたものが、どこぞでのうのうと眠りについていたとしたら、確かに腹の一つも立てるかもしれない。
 得心がいって、緊張が解けて和んだ。は無邪気な春花の寝顔を見つつ、笑みを浮かべて頬杖をつく。
 凌統にもなかなかいいところがある。あの口の悪さはいただけないけれど、明日お礼を言わなくては。
 春花の横に空いているスペースに滑り込み、寝ようとしたの耳に、かすかにカタン、という音が響いた。
 凌統だろうか、と首を傾げる。
 孫策かもしれないし、趙雲かもしれない。とにかく、ノックもしなければ声も掛けて寄越さない失礼な奴ばかりなのだ。
「誰?」
 何も考えずに声を掛ける。
 けれど、応えは何もない。
 誰であれ、が問うて答えないような者はいないはずなのだが。
 が続きの間を覗くと、突然何かを被せられ、視界が奪われる。
「にゃっ!」
 ただでさえ暗い室なのに、何の悪ふざけだと腹が立つ。慌てて覆いを外そうとするのだが、変に絡んでうまく取れない。大きな音と共に、室の扉を乱暴に押し開ける音がした。
 やっと外して、視界を取り戻す。月明りが室の中を照らしていた。
 誰もいない。
「……あれ?」
 悪戯だと思ったのだが、当の本人は何処へ消えたのだろうか。
 どういうことだと考えて、ざっと青褪める。
 凌統ではない。
 孫策でも趙雲でもない。
 もちろん姜維や甘寧、大喬でも小喬でも尚香でもない。
 誰でもない。
 室の中にが居るとは知らず、忍び込もうとした者がいるのだ。
 賊。
 相応しい単語がぽっと頭に浮かび、刻み付けられたように静止した。
 ぞっと鳥肌立ち、思わず両腕で体をしっかりと抱き込む。自分が、がたがた震えているのがよく分かった。
 扉を閉めたい、けれど閉めに行ってその影に誰かが隠れていたらと考えると、とても近付けない。
 怖い。
 月明りが眩いほどで、けれどその冷たい光に照らし出されるのすら恐ろしくて、は爪先にかかる月明りから、慌てて足を引っ込めた。

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