凌統が急ぎ宴の広間に戻ると、ちょうど散会した後らしかった。
ざっと見渡すが、の姿はない。
甘寧が一人杯を煽っているのを見て、慌てて詰め寄る。
「おい、あんた、はどーしたんだよ!」
あぁ? と低く威嚇するような甘寧の声は、並大抵の武官・文官なら肝を縮こまらせるものだろう。
凌統には屁でもなく、また焦っていたので気にも留めなかった。
「はどうしたって聞いてんだよ!」
凌統の表情から何か察したのか、甘寧は口の端をぐいっと捻じ曲げつつも素直に答えた。
「……何か、誰だかがどうとか行って、室に戻るっつってたけどな。何だよお前ぇ、あいつに何か用かよ」
わざと甘寧に喧嘩をふっかけたのは、呂蒙と密談する間を稼ぐ為でもあったが、甘寧ならばを上手く引き留めるだろうという目論見もあってのことだ。
喧嘩沙汰になれば、あのお人好しが飛び込んでくるのは見えていたし、実際飛び込んで来て、甘寧の方にぶら下がってくれた。
甘寧の気を宥める為にくっついていてくれるだろう、甘寧ならばそんなを見逃さず、これ幸いと抱き込むだろう。
ならばは安全だと思っていたのに、とんだ見込み違いだ。
「……ホンット、あんたって使えないよなぁ!」
「何だと、テメェ!」
凌統は、怒り、勢い立ち上がる甘寧にとっとと背を向け、の室に向け駆け出した。
使えないのは端から分かってたんだ、分かってたはずなのに使おうとした俺が馬鹿だ。
凌統は舌打ちしながら、自分の考えの甘さに苛立ち、廊下から庭に飛び降りた。
突っ切った方が早い。
背後から、誰かが追いかけてくる。
「テメェ、逃げんな!」
使えない上にしつこいと来ている。
しゃんしゃんとうるさく鳴る鈴の音に、凌統は眉間に皺を寄せた。
の室の扉が開け放されているのを見て、凌統は一瞬顔色を変えた。
勢いを殺さぬままに飛び込むと、が椅子を振りかざしてこちらを見ている。
間抜けな格好に、気負っていたものがすとんと落ちた。
「……何してんだよ、あんた……」
しかし、良く見るとは半泣きで、体も小刻みに震えている。
「どうした」
凌統が声を掛けるより先に、甘寧がずかずかと中に入って行ってしまう。
動けずにいる凌統に、はちらと視線を投げかけると、正面に陣取る甘寧に向き直る。
舌の奥が苦くなる。凌統は、視線を外に向けた。
「よ、よく分かんないんだけど、何か誰か来て……何かの布被せてきて……私がおたついている間に、どっか逃げちゃったみたい……」
誰だろう、とかたかたと震えるを、甘寧はぎゅっと抱き締める。裸の胸にの髪や柔らかな頬の感触が伝わり、ほのかな熱が伝わった。
ぽんぽんと背中を叩き、小さな子供をあやすようにすると、の震えは徐々に収まっていった。
くしゃくしゃと頭を撫でると、落ち着きを取り戻したは、顔を赤くして不貞腐れた。が、すぐに笑みを浮かべて甘寧の手を退かす。
「……子供じゃないって」
でも落ち着いた、ありがとー、と笑い、凌統のところにとことこと駆けて来る。
何だと顔を向けると、は指を揃えて口の横に添える。
耳を近付けると、小さな声で尋ねてきた。
「……春花、何処に居たんですか?」
凌統は、どうしたものか判断に悩んだ。
ここに居たのだと言えば、周瑜の話をせざるを得なくなるかもしれない。それは避けたい。
けれど、嘘の作り話をしたところで、春花が目覚めれば話に齟齬が出来かねない。の不信感を招くだろう。それも、避けたい。
「……何処に居たと思う?」
腰に手を当て、鷹揚に問うと、は腕組みして考え出した。
その頭を軽く叩き、凌統は『お嬢さんが目覚めたら、本人に聞くんだね』と軽く……あくまで軽く見えるように振る舞い、さり気なく室を出た。
甘寧が、に向けて何事か申し付けているのが背後から聞こえる。
凌統が廊下に出ると、甘寧が追って来た。
扉が閉まり、の気配が奥に引っ込んだのを確認して、二人は申し合わせたように向き合った。
「……何だ。何が起きてやがる」
甘寧の目付きは険悪そのものだった。
凌統の誤魔化しなど、欠片も許さないという気概がそこにあった。
ふん、と軽く鼻で笑うと、甘寧の眉がきりっと引き上がった。
「俺、忙しいんだよ。これから、あの女の寝ずの番勤めなくちゃいけなくなったから」
「抜かせ、立ちんぼで立ってるだけなら口は暇だろうが。言え、言わねぇと」
何だと言うのだ。
普段であれば負けん気に火がつくところだが、今宵の凌統は何故か腹の底から凍て付いてしまったかのように冷静だった。
「あの女が、狙われてるってことだよ。それぐらい、分かんないかね」
対して、甘寧は腹の奥底に炭でも熾しているのか、ただかっかといきり立った。
「そんなことぐれぇ分かってる! 誰に狙われてんだってんだよ!」
「調査中。分かってたら、番の必要なんかないだろうよ、分かんないかね、このとさか頭は」
凌統の嫌味にも関わらず、甘寧は乗ってこなかった。
くるりと背を向け、何処かへ歩き出す。
珍しいこともあるもんだと思って、ただ見送った。
翌朝。
の室から甲高い悲鳴が響き、凌統の寝不足の頭を直撃した。
何事かと飛び込んでみると、春花が床に土下座しており、寝惚けてがぼうっとしてそれを見下ろしていた。
如何でもいいのだが、の着物の襟が寝乱れて開いてしまっている。
胸の谷間など物珍しくもないが、しどけない姿は何処か淫靡で、焦点の合わない目は白痴美の様相を呈していた。
慌てて目を逸らし、床に這いつくばっている春花に目を向ける。
「おい、ちょっとあんたさ……」
凌統の声に即座に反応した春花は、ぴょんと飛び上がるように顔を上げ、今にも泣き出しそうな顔を凌統に向けた。
「わ、わ、私、如何してこんなところで寝ているんでしょうかぁっ!」
凌統に訊いて分かるわけもないだろうに、あまりの驚愕に気が動転してしまっているのだろう。
「……覚えてないわけ? 何にも?」
凌統の言葉を受け、春花は必死に記憶を辿っているようだったが、やがてがっくりと項垂れて膝を崩した。
「……駄目です、馬良様のところにお使いに行って、用事を済ませて……廊下を歩いていたと、思うんですけど……」
その後がさっぱり、と頭を抱えている。
よくよく考えれば、熟睡していたとしてもあれだけ騒いで目を覚まさないというのも変だ。
何か薬でも盛られたのかもしれない、と凌統は渋い顔をした。
春花は、何を誤解したのか、凌統の顔を見てしゅんと沈んでしまった。
「……んむー……」
が、ゆらりと動き出した。春花の元に歩み寄ると、頭をぽんぽんと叩き、突然抱え上げて再び牀に崩れ落ちた。
「きゃあっ、さまっ!?」
「うーん、むにゃむにゃ、もう食べれないよ……」
寝言ではなさそうなのだが、よく分からないことを言ってうだうだとしている。
凌統がいるのに気が付いてないのか、裾が乱れて白い足が艶かしく敷布を掻いた。
この女、とこめかみに血管が浮きそうになるのを堪え、凌統は廊下に向かう。あの様子なら問題はなさそうだが、意識がちゃんと覚醒したら、姜維とか言う蜀の将の下に送って少し仮眠を取っておこうと思った。
庭先から、何か大声で怒鳴っている声が聞こえてきた。
何事かと耳を澄まし、聞き違いかともう一度耳を澄ます。
同じことを何度も触れ回っているから間違いはなさそうだったが、凌統は、自分が寝惚けていて聞き違いをしているのではないかと、自分の頬を叩いて覚醒を促した。
やはり、伝令と思しき者の言葉は変わらない。
船が、後から来た姜維が率いてきた蜀の三隻の船が、尽く沈められたと喚いている。
誰が、とも何で、とも言わない。だが、『沈められた』というからには、まず間違いなく人為的なものが絡んでいるとの確信があってのものだろう。常であれば、『沈んだ』とのみ言うだろうから。
凌統は、今だ夢と現を呑気に彷徨っているの室を振り返る。
下手を打てば戦となりかねない事態に、凌統は胃の腑がぐっと強張り重くなるのを感じていた。