船が沈んだとの報を受け、呉の屋敷は半ばパニックと化していた。
 自身も落ち着いていたわけではなかったが、あまりの出来事に茫然自失一歩手前で、何処か他人事のように目の前の騒ぎを見つめていた。
 血迷った呉の家臣が、こうなればいっそと劉備の命を狙いに来る可能性も捨てきれず、趙雲も朝からずっとぴりぴりとしていた。
 は、室の片隅で直接床に腰をぺたんと下ろし、言葉も発さずにじっとしていた。
 傍らには怯えたような春花が、主に習って口を噤んでいた。が、その手はの袖口を固く握り締め、口元は強張って神経質に辺りを見回していた。
 その反対側には姜維が立っており、心配そうにを見下ろしている。
 執務どころの騒ぎでなく、蜀の家臣は皆この広間に集まってきていた。
 噂を集めようにも他国の中のこと、思うようには動けず、敵(と言っていいのかどうか)の狙いも未だ明らかにされていないとあっては、下手に動くよりは集まっていた方が事なきを得る可能性が高
かった。
 文官を中心とした集団であり、戦闘力は正直期待できない。中には無双の技を心得ている者も
あったが、それとて呉の将達に比べればひ弱と言わざるを得なかった。
 蜀の家臣から離れ、凌統が戸口のところに立っている。
 姜維は、蜀の家臣の中に凌統が混じることを嫌がったが、凌統も孫堅の命令ゆえと決して引こうとしなかった。
「うちとあんたらの同盟がナシってことになれば、俺も喜んでここを出てくよ。けど、そうじゃあないだろ?」
 凌統の言い様は癇に障るものだったが、正論だったので姜維は押し黙った。
 劉備のとりなしで、結局凌統は所在を許されたものの、居心地の悪さを感じてか一人離れて戸口のそばに立っている。
 と、戸口の外から誰かが声を掛けてくる。
「入っても、かまわねぇか」
 甘寧だ。
 凌統は軽く舌打ちをし、劉備を振り返った。
 趙雲、姜維、尚香は武器を握り直し、劉備を見る。
 劉備が頷くと、凌統は扉をわずかに開けた。
 甘寧は一人だった。覇海すら携えていない。
「……何、何か用?」
 さっさと帰れと言わんばかりの凌統に、甘寧は鋭い眼差しを送る。
「とうに話は聞いてんだよ……おっさんからな。入れろ、劉備の旦那に大事な話があんだ」
 横柄な態度に凌統の表情が歪む。
 けれど、背後から劉備が甘寧を招き入れる声が掛かっては、凌統に甘寧を追い返す権利はない。
 渋々半身をずらすと、甘寧は肩をそびやかして中に入ってきた。
「船、沈めた奴見つけたぜ」
 開口一番の言葉がこれだった。
 周囲が一瞬どよめく。
 馬良が進み出、甘寧と対峙する。その顔には、何処か心痛を抱えた苦しげな表情が浮かんでいた。
「王埜、ですか」
 は、思わず辺りを見回した。王埜というのは、の同僚である青年の名である。そう言えば、見当たらない。
「名前までは知らねぇ、けど、と一緒に宴に出てた奴だ」
 捕まえて、閉じ込めてあると甘寧は嘯いた。
 そんな馬鹿な、とは呆然とした。王埜には年老いた母がいるはずである。その母の顔を潰すような真似をする男ではなかったはずだ。
 だが、馬良はとは逆に、深く納得したように首を項垂れた。
「ここのところ、様子がおかしいと思っていたのです…用を言いつけても、なかなか戻ってまいりませんし……今思えば、あれほど使いやすい駒はなかったのでしょうね。呉の文官を尋ねるという名目で、呉の屋敷内も自由に動け、蜀の動向も呉の動向もそれとなく聞き取り報告が出来る。取り込もうと目をつけられて、当然の立場でした」
 重臣が名を連ねる宴に出られたことが、きっと王埜の驕心を生み、驕心は慢心を招きいれたのだろう。
 馬良はそう言って嘆いた。
 は、呆然と馬良の言葉を反芻した。
 元はと言えば、を引っ張り出す為に王埜も引っ張り出されたのだ。であれば、すべての元凶はにあると言っていいのではないか。
 愕然として、は肩を落とした。
 姜維が屈み込み、の肩を抱く。
「……違います、殿のせいではありませんよ。ご自分をお責め下さいますな」
 臣としての誇りがあれば、如何なる讒言にも惑わされずにいられるはずだ。
 姜維はそう慰めてくれるが、の考えは違う。
 人間の心は惑いやすい。王埜は、揺さぶられて落ちたのだ。揺さぶられる原因は自分にあった。見た目は平凡で取り得のない女が、異様なまでちやほやされているのを見て、王埜は面白くなかったに違いない。
「ごめん、伯約……私、落ち込んでた方が気が楽なの」
 姜維は哀しそうにを見たが、黙って立ち上がった。
「……しかし、王埜が街に下りていたとして、それが即船を沈めたという証にはなるまい。何か、証拠でも?」
 劉備のもっともらしい言葉に、甘寧は頷いた。
「俺の手下が、そいつが朝方前に、誰だか分からん連中と一緒に船の周りをうろついていたのを見てる。王埜とかいうのは、こっちに戻れって言われてたらしいが、怖くなって戻らなかったらしいな。娼館に潜り込んでたのを見つけて、捕まえたってわけだ」
「その、連中というのは?」
 趙雲が口を挟む。甘寧の言葉に偽りなしと見たのだろう。
「まだ分かんねぇ。さんざ脅されたらしくって、なかなか口を割らねぇし、こっちも蜀の文官さまが相手じゃあんまり痛い目みせるってわけにもいかねぇからな。とりあえず、あんたらの意向を聞いておくかってことで、俺が出張ってきた」
「ちょ、ちょっと待ちなよ。ってことは、あんた、呂蒙殿や殿に何の報告もなしでこっちに来ちまったってことか!?」
 何が悪い、と居直る甘寧に、凌統は頭を抱えた。
 客として世話をしている者の船が沈められたのだ。呉として、面前に泥を塗ったくられたに等しい。何としても名誉挽回するべくしゃかりきになっている時に、何を勝手なことをぬかしているのだ。
 蜀の文官が犯人の一味ということで、話はさらにややこしくなった。
 甘寧の単純な頭で理解しろというのが無理なのだろうか。
「……もう、いい、俺が報告しておく。あんたは、そいつが死なないように護衛でも何でも、とにかく絶対に口を閉ざさせるな」
「何でお前に命令されなきゃなんねーんだよ」
 甘寧が噛み付き、凌統と口喧嘩が始まってしまった。
「お頭」
 いつの間に近付いてきたのか、が甘寧の肘の辺りを掴む。
「何だ、止めんなよ!」
「そうじゃなくて……王埜に会えない?」
 突然の申し出に、甘寧も凌統も面食らって口を噤んだ。
「……悪いけど、いくら蜀の臣だからって、引き渡すことは出来ないぜ」
 凌統が念押しするが、は首を振った。
「分かってる、もし、本当に王埜が犯人なら……許されないことを、したよね……でも、ひょっとしたら巻き込まれただけかもしれない。脅されて、連れて行かれただけかもしれない」
 分かってないじゃないかと凌統は悪態を吐いた。
 犯人と思しき一団の中にいて、ただ巻き込まれたとは考えにくい。一人で娼館に隠れていたのなら、脅されて連れて行かれただけとは考えられない。
 王埜が犯人だということは、誰の目にも明らかではないか。
「……でも、……でもおかしいじゃない、帰ってろって言われて街に一人で残しておくなんて、だって王埜は蜀の文官なんだから、街から城までどうやって戻ってくるの! それに、門だって一人じゃ通れないでしょ!」
「それは……」
 それも、そうか。
 何故、犯人達は王埜を一人置いて帰ったのだろう。
「馬良様、王埜は何処の出身ですか」
「……王埜は、生まれも育ちも蜀のはずですが」
 ほらご覧、とは勢いを得たように胸を張る。
「訊かなきゃ、分からないことだってあるんだから。王埜に会わせて。ホントのこと、知りたいの」
 だがしかし、と凌統は元より、甘寧も渋り顔だ。
 もし本当に犯人だとしたら、下手な人物には会わせられない。
 が黒幕などという間抜けたことはさすがに考えないが、を人質に取ることは十分考えられる。何せ、話にならないくらい弱いのだ。それでなくても情にもろいに、自分は無実だ、はめられたと泣いて訴える可能性も高い。が揺れれば、呉の重臣も揺れてぱっきりと二つに割れる可能性が高い。
 内乱になったらと考え、それがあながち冗談にならないことに凌統は戦々恐々とした。
「……じゃあせめて、あんたじゃない奴にしてくれよ」
「駄目!」
 馬良が名乗りを上げようとするのを、は鋭い声で制した。
「何で。その、王埜とかいう奴の上司なんだろう、馬良殿は。ちょうどいいじゃないか」
 だが、は頑なに首を振った。
「貴方達は、すぐ、腕を切るとか、命を奪うとか、酷いことをするから」
 甘寧が、ぴくりと反応してを見る。は、視線を合わせようとはしなかった。
 が過日の件を異様に気にしているのを、甘寧は改めて思い知る。
 苦い思いを噛み締めながら、顔を逸らした。
「来いよ」
 の手を取り、室を出る。
さま!」
 背後から、春花が悲鳴じみた声を上げる。は、大丈夫だからと手を振った。
「おい、甘寧! 勝手なことすんな、まず呂蒙殿に……」
「うるせぇ、捕まえたのは俺の手下だ、指図すんじゃねぇよ!」
 凌統の制止を振り切って、甘寧は足音も高く廊下を行く。
 言葉では止まらないと見て、凌統は舌打ちした。
「あの、馬鹿!」
 馬良が進み出、凌統に頭を下げる。
「どうぞ、私もお連れ下さいませんか。王埜が何を仕出かしたにせよ、上役である私にも責はあります」
「頼めぬだろうか、凌統殿。責の所在は、私も同じ。孫堅殿にも、私から詫びを入れよう」
 劉備までもが頭を下げて寄越し、凌統は奥歯をきりっと噛み締めた。
「……あぁ、もう、分かりましたよ! 馬良殿、あの馬鹿は街の中でも目立つ方だが、いざとなれば街の連中がこぞって隠しちまうでしょう。馬鹿だから、持ってる金もそこらによく落としていく上玉なんですよ。行くって言うなら、早くしてもらえますか」
 無論、このままで結構、と勢い良く応じる馬良に、凌統は上等だと笑ってみせた。
「それじゃあ、こちらへ。なるったけ早い馬を用意させますから」
「凌統、を守ってちょうだいね!」
 出し抜けに尚香が叫ぶ。
 何か言おうと口を開けかけた趙雲も姜維も、思わず言葉を呑んだ。
に何かあったら、私が許さないから!」
 呆気に取られた凌統も、我に返っておざなりに返事をする。
 男だけならまだしも、女である尚香までもがこの様だ。
 己はこうはなるまい、と凌統は固く誓った。
 背後から未だに続く尚香からの激励(?)を聞き流しつつ、凌統は馬良を連れて廊下を駆けた。

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