どかどかと荒い足音がする。
 鎧を着けた武将のそれとも違って、何というか、わざとらしい自棄っぱちな足音だった。
 甘寧は濡れた体を適当に拭きながら、音のする方を何気なく見ていた。
 廊下の角から突然、見慣れない女が飛び出してきた。
 甘寧が不躾に見つめていると、視線に気がついたのかふいと目をこちらに向け、板の廊下をひょいと飛び降り甘寧の方に突進してきた。
 何だ、と思う間もなく、女は甘寧の脇をすり抜け、井戸綱をがっしがっしと引き上げ始めた。
 やがて水を汲み上げた桶が上がってくると、よろよろと拙い手つきで引き寄せ、重みでふらつきながらも気合を入れて持ち上げ、一気に頭から被った。
「……てぇい、畜生めがーっ!!!!!!!!」
 罵声と共に桶を力いっぱい投げ捨てると、滑車がくわんと揺れる。
 いったいこの女は何をしてんだと見ていると、女がはっとして甘寧を凝視する。察するに、今の今まで気がついてなかったようだ。
「……か、かかりました?」
 それまでの威勢が嘘のように、おどおどと上目遣いに甘寧を見上げてくる。
「ん? まあ……少しな」
 かかったところで元から濡れているのだから痛くも痒くもない。甘寧もまた、つい先ほど頭から水を被ったばかりなのだ。甘寧はつい今しがた山賊退治から戻ったばかりだった。体についた汗と埃を流している時に女が飛び込んできたと言うわけだ。
 甘寧は言葉通りにまったく気にしていなかったのだが、女は妙に萎縮している。その割にはちらちらと盗み見されて、甘寧は首を傾げた。
「何か、俺の顔についてんのか?」
 口を開きかけ、すぐさま閉じた。何を言いかけたのか気になる。甘寧が足を向けると、女はうひゃあと言って飛び退った。
 おかしな女だ。
「……おめぇ、見かけねぇ面だな」
 えと、とまた口篭りかけ、恐る恐る甘寧を見上げる。見かけの年の割には仕草が幼い。
「あの……私、昨日着いたばかりで……」
 いない間に雇い入れられたとなれば、甘寧が知る由もない。
 そうか、と納得して、俺はと名を名乗ろうとして止められた。
「甘寧……殿、ですよね」
 ね、と重ねて問われて、首を傾げる。初対面のはずなのだが、と考えていると、女が先回りして答えをくれた。
「刺青が」
 分かってしまえば簡単なことで、確かに竜の刺青は甘寧の最たる特徴と言えた。
「私はといいます。よろしくお願いします」
 にっこり笑って頭を深々と下げる。初めて見た時の鬼気迫っていた表情は、すっかり消え失せていた。現金なもので、そうなると意外に可愛い女に見えた。何より、自分の名を知っていたというのがいい。
「おう、よろしくな」
 もう一度頭を下げ、立ち去る女の後姿を見送りながら、しまったどいつの手下に入ってるのか聞き忘れたと、甘寧は唸り声を上げた。更に数瞬後に、それにしたって何でまたあの女は頭から水被ったんだと首を傾げた。
 細かいことは気にしない性質なので、すぐに忘れた。

 蜀の劉備が嫁取りの挨拶に出向いてきたとかで、甘寧も宴会への出席を余儀なくされた。
 別に酒が呑めるなら構わないし、誰が相手でも気にするものでもない。ただ、甘寧には顔を合わすのが面倒だという奴が何人かいる。
 一人は周瑜。
 上司としては不満などないし、孫家の若殿と乳兄弟だけあって、見た目とは裏腹にさばさばした人物だ。だが、非の打ち所がなさ過ぎて何となく苦手だ。
 一人は陸遜。
 若いが軍略の才はピカ一で、甘寧もそれは認めるもののやや功を焦ると言うか、完璧を求めるきらいがあると言うか、もうちょっと柔らかくてもいいと思う。
 そして、凌統だ。
 凌統の父親を殺したのは甘寧だ。それは紛れもない事実であり覆せない。けれど、孫家に帰順したというのに未だに甘寧に含むところがあるらしく、何かにつけて絡んでくる。
 ガキか。
 酒の席で酔った挙句にとか金に困ってというならまだしも、戦の最中でのこと、甘寧は敵の中の一人の将を殺しただけに過ぎない。殺すか、殺されるか、条件は五分で、決して恨まれる筋合いではないと思うのだが、そこらへんはどうにもしがたいらしい。
 呂蒙辺りに宥められてはいるが、甘寧としては煩くて敵わない。
 適当に茶を濁して抜け出すか。
 手下が集まる酒屋に顔でも出そうかと算段していると、が孫家の家人に連れられてやってきた。
 昼間の、文官の装束とはまた違う、かと言って護衛官や武将のものでもない、見たこともないような服を着ていた。

 孫堅が嬉しそうに手招きする。は、いかにも困った、という風情で笑みを浮かべながら、孫堅の前へと進み膝を折った。
「体の具合が良くないそうだが、思ったより元気そうで良かった。さぁ、こちらに」
 の顔がおかしな具合に歪む。笑おうとしているのだが、顔が言うことをきいてくれないと言った感じだ。
 本当に具合が悪いんなら、休ませて遣ればいいのに、大殿も案外酷なことをする。
 甘寧がそんなことを考えている間に、孫堅の隣に椅子が運び込まれ、は家人に促されてそこに腰掛けた。
 上機嫌の孫堅とは裏腹に、は困ったな、という表情を隠さずに孫堅と何か話をしている。
 へぇ、大殿の手下だったのか、と甘寧は思ったが、それにしては様子が少しおかしい。
「よぉ、おっさん、あの女……」
 隣にいた呂蒙に話しかけると、呂蒙は眉を顰めながらも律儀に答えてくれた。
「あれは殿と言ってな、蜀から来た文官だ……尚香様や孫策様がえらくお気に召していてな……昨夜の宴から、どうも大殿もお気に召したようでな」
 困ったものだ、と呂蒙も苦い顔だ。
 甘寧は素直に驚いていた。特に美しいと言うわけでもない女なのだが、何がそんなにいいのだろうか。
 疑問を率直に言葉に直すと、呂蒙はやれやれと言いながら苦笑した。
「蜀と南蛮の中程にあった村にいたとかでな。珍しい話を知っているそうだ……それから、歌もな。なかなか、よく歌う」
 聞いたのかと尋ねると、呂蒙は何故か顔を赤らめ、重々しく頷いた。
 ふぅん、と興味もなくに目を遣る。
 孫堅が何かを強請っているようだが、変わりもせず困ったように微笑むだけで、歌いだす様子はない。
 酒がなみなみと注がれるのを、ちびちびと呑んでいるが、この手の女にしては珍しく酒呑みなのだろうか。甘寧の周りに居た女は大抵酒を呑ったが、孫呉が大きくなるにつれ、甘寧の周りにはおとなしく上品な女が増えていき、ざっくばらんに腹を割って話せるような豪快な姐御肌の女は消えていった。尚香はなかなかいい女だと思うが、いかんせん下戸だし、まだまだお嬢ちゃんにしか見えず甘寧が馴染んだ下世話な女とは程遠い。
 酒場に行けばいいものだが、甘寧が出世したせいか過剰に纏わりついてくる女ばかりで、それも手下の野郎どもが男の嫉妬モロ出しで排除にかかるものだから、甘寧は娼婦以外の女とはご無沙汰の状態なのだった。
 別にそれが悪いとは思わないが、餓鬼の時分に頭を撫でられながら、男っていうものはと胡坐をかいて説教垂れていた女達が、時折無性に懐かしくなる。ご開帳宜しく陰部を丸出しにして、隠せと怒鳴ると餓鬼のくせにとげらげら笑われた。
 抱くの抱かないのではなく、何と言うか、それは確かに母親ほどの年の離れた女を抱いたこともあるけれど、それは酒の勢いだったりその場の雰囲気の賜物であって、それらはあくまでおまけといった程度のことなのだ。
 甘寧の生まれ育った空気はいつも下品な笑いと大雑把な開放感に満ちていたものだ。閉鎖的で生臭く、呆れるほど享楽的でどうにもできないほど居心地のいい矛盾したあの空気は、あの愚かな女達あってのものだったのだと甘寧は思う。
 疲れてんだな、と甘寧は思考を無理やりぶち切った。
 今更、餓鬼に帰れるか。
 杯の酒を煽り、自分で注ぎ足す。
 呂蒙と退治した山賊の残党の話をしたり、やっぱり絡んできた凌統をあしらいながら、蜀の連中の辛気臭い顔を眺めたり、この手の婚儀には珍しいほど初々しい劉備と尚香の遣り取りを見たりしていた。
 不意に、がこちらに向けて歩いてくるのが見えた。便所にでも行くのか、無防備に歩く様に、甘寧はふと悪戯心を起こした。
「よう」
 今まさに前を通り過ぎようとしたが、前のめりにつんのめりながら止まった。甘寧に向けた顔が赤く染まっている。目がとろんと蕩けており、かなり呑まされたのだと窺わせた。あるいは、具合が悪くて酔いが回りやすくなっているのかもしれない。
「あ、どーも」
 しばらくぼんやりと甘寧を見ていたが、突然頭を下げた。あからさまに酔っている。反応の鈍さは、酒のせいだろう。
「何か歌ってくれ」
 前置きのない甘寧の言葉に、呂蒙がぎょっと目を剥くが、はぼんやりしている。甘寧の言葉が未だ理解できてないのかもしれない。
 が突然動いた。んー、と唸って腕組みをする。
「罰ですか」
 予想外の言葉が飛び出して、呂蒙は再びぎょっとする。甘寧は動じず、へらへら笑いながらそうそう、と適当な相槌を打った。
 んーんー、とが再び唸る。
「私、歌手じゃないですし」
 甘寧が黙って笑っていると、は再び唸った。何か考えているらしい。
「こちらの歌、知りませんし」
 の知っている歌でいい、何か楽しい感じの、と甘寧が即座に切り返すと、また唸り出した。
「英語……異国の言葉、混じったりしますし」
「わけがわからないかもしれないですし」
「気に入らないかもしれないですし」
 合間合間にんーんー言いながら、思いつくままに『歌わないでいい』条件を並べ立てているらしいのだが、甘寧はにやにや笑うか適当な相槌を打つだけで一向に気にしない。からかっているだけなので、別にが歌わなくても構わないのだ。
 しばらく実りのない押し問答が続き、が黙り込んだ。もう、んーとも言わなくなった。
「じゃ、歌います」
 罰ですからね! と力強く握り拳を握ると、とてとてと甘寧の座る卓の前に進み出る。
 甘寧との遣り取りから移行して、辺りの注目が に集まるのだが、酔っているのか はまったく気にしない。甘寧だけを見ている。
 ぺこり、と頭を下げると、ふんふんと鼻歌で調子を取り、突然くるりと一回転した。
 歌が始まる。の腕や足が歌にあわせて揺れる。視線の先はあくまで甘寧だが、にこにこと笑いながら歌い、そして踊っている。
 要するに、はそれだけ酔っ払っているのだが、趙雲及び一部を除くその場の全員は、いきなり始まった余興に大喜びだ。
 は、恐らく自分が何をしているのか分かっていない。分かっていたら、そも歌わないだろうしまず踊らない。
 趙雲は、こっそりと周囲を見渡した。
 孫策の寵愛をが受けることにより、を快く思わない者が現れるだろう。もそこそこ認識はあるはずなのだが、育った環境のせいか何処か緊張感が足りない。一度命を狙われたというのに、どうにも変わらないのがらしいとも言えるが、趙雲としては気が気ではない。なるべく目立たないようにと願っても、歌を歌うわ踊るわでは、目立たない方がおかしい。
 ふと、違和感を感じて孫策を見ると、お祭り騒ぎの好きな男が卓についたまま杯を傾けている。
 おかしい。
 孫策ならば、飛び出していってと共に踊るなり焼きもちを焼いて甘寧を蹴倒すなりが通常だろう。
 それが、まるで腑抜けのようにぼんやりとを見ている。
 否。
 目に、滾るような感情がある。名状しがたい色に、趙雲は刀身の冷ややかさを感じた。
 趙雲は、何も知らずにおどけたように踊るを見つめた。そう言えば、が人前でこれだけ馬鹿をやるのも珍しい。恥とか常識とかの類には、人一倍やかましいが、気を許したわけでもない相手にこの振る舞い。酔っている、の一言で片付けていいのだろうか。
 何だ。何が起きた。
 切羽詰ったものではない、それだけに重苦しい危機感に煽られて、趙雲は豪竜胆を握る手に力を篭めた。

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