歌って、踊って、笑って、最後のフレーズを口ずさむと、は道化師のように恭しく頭を下げた。
 ああ、馬鹿みたい。
 頭の芯に鉄のような塊がある。冷たく冷えて固まって、脊髄にきぃんと響いていた。
 馬鹿みたい。
 上げた顔が、へらへらと緩んでいるのが分かる。周りが拍手喝采するのが、誰か違う人に向けての賛辞に聞こえて仕方がなかった。
 馬鹿だ。
 そのまま廊下へ出ようとすると、背後から声が掛かった。

 凛と通る声は、孫堅のものだった。足を止めて振り返ると、にこにこと笑う孫堅が手招きをしている。トイレに行きたいのと、その笑顔がどうも穏当なものに思えなくて、は一瞬戸惑った。が、孫堅に呼ばれて行かないわけにはいかない。慌てて小走りして戻る。
「もう一回」
 指差されて後ろを向くが、無論そこには誰も居ない。
 首を傾げて自分を指差すと、孫堅はにこりと笑って頷いた。
 何が、もう一回?
 が戸惑っていると、繰り返し『もう一回』と孫堅が催促してきた。
 と、の顔が凍る。それを面白げに見つめながら、孫堅はただ微笑を浮かべた。
「今のを、もう一回」
 ひぃ。
 自棄になって酔っ払っていたから出来た真似であって、今はすっかり我に返っている。もう一回やれと言われても、できることではない。
 ちらりと趙雲を盗み見ると、にっこり笑って突き放された。
 やれ。
 目が物語っている。
 ……子龍のばかーっ!
 は視線を孫堅に戻した。やはりにっこりと笑みで返される。
 隣に座っていた時は、歌手ではないからとか歌の意義がこちらと違うからとか、実は甘寧との遣り取りそのままのことを繰り返していたのだ。孫堅は、またの機会にとやんわり釘を刺しつつ大人しく引いてくれたのだが、甘寧には歌ったのが気に入らなかったのだろう。今度は有無を言わさず『やれ』と命じている。
 首の辺りに、ちりちりと視線が当たっている気がした。顔を向けこそしないが、見ている者は恐らく分かっている。
 少し悲しいような気持ちになったが、振り払うように顔を上げ、『ではっ』と気合を入れた。

 歌い、おどけるように踊るを、孫策は頬杖をつきながら見ていた。周瑜が心配したように時折視線を送ってくるが、応える気になれなかった。
 周瑜にのことを話した時、やはり周瑜は心配そうに孫策を見た。噂に聞いて、色々と調べたと言って、の話をしてくれた。
 得体の知れない女。
 出自の不確かな女。
「怪しの類ではないかと言う者もいる。さすがにこれは眉唾だが……しかし身持ちの固い将を騙し、蜀に乗り込んできたという話もある。君の妻としては如何なものか」
 君には、既にこの上もない理想の妻がいるだろう。
 止めと言わんばかりに大喬の名を上げられても、孫策は椅子の上で行儀悪く胡坐をかいていた。 周瑜の言っていることはどうでも良かった。本当だろうが嘘だろうが、孫策にとっては何の興味も引かないことだ。
 と会ったのは自分で、見て、触れたのも自分で、それがすべてだった。
「あいつは、俺が守る。そう決めたんだ。悪ぃが引けねぇぜ、周瑜」
 守る、と言って、泣かせてしまった。
 何でだよ。
 泣きたいような気持ちになって、孫策は杯を煽った。

 何かあったのは確かだ。
 趙雲は確信を持った。
 は、ある意味心配ない。落ち込んではいるが、まだ手の施しようがある。あれほど言ったのに、相談にも来ないのは後で何なりしてやるとして、問題は孫策だ。単純明快なだけに、常に前向きの男がこうも態度を露に落ち込むというのは尋常ではない。
 に拒絶されたのだろうか。
 当たらずとも遠からずだろう。の拒絶の仕方は、人の神経を逆撫でする。
 趙雲などは、逆にが嫌がることをし続けることで、に妥協させるのが常だ。わざとやっているわけではなく、そうした方がいいのだと長年の経験から察知している。自分からは神経をささくれ立たせるような真似をして、周囲から手を回す。のような単純な女には、その方が効果的だ。変に従属の気質があるというか、本人は無意識かもしれないが引っ張りまわされたいようなところがあるので、趙雲も下手に出ようにも出られない。そのくせ独立独歩を好むところもあるので、いちいち気が抜けない。
 面倒な女なのだ。
 孫策が弁えているならいい。だが、恐らくそうではない。ならば、何時かはぶつかり、離れていくことになるだろう。
 趙雲にとっては有難いことだ。やはり趙雲も男だから、好いた女を独占したいという気持ちは並の男程度には持ち合わせている。優先順位を繰り下げる程度の芸当は、趙雲には朝飯前のことなので、傍目にはそうは思われないかもしれないが。
 それはともかく、ここは呉だ。孫策の気持ち一つで、例え指示が出なくても勝手に気を回してを害そうという輩が出てこないとも限らない。そして、趙雲がそれを防げるかと言えば微妙なのだ。趙雲に与えられたのは劉備を守るという大役だ。も理解しているから、趙雲のそばには滅多に近付いてこない。時折投げかけられる微笑が、かつてが家の中で独りで過ごしていた時の悲しげな微笑に通じて、趙雲は胸に痛みを覚える。
 ただの付き添いだったら、こうも遠くに感じはしないのだろうか。
 ほんの少しの短い逢瀬を、願うことも許されたのだろうか。
 筋違いと分かっていながら、諸葛亮を恨みたい気になった。

 歌が終わって、頭を下げる。
 孫堅はご満悦といった態で、にこにことを見ていた。
 この笑顔が曲者なんだ……!
 口に出すのは憚られるが、孫堅は吐息一つで女を妊娠させてしまいかねない色気があって、隣に座るのが大変辛い。声がいい。低く、落ち着いた渋みのある声で、耳元に囁きかける。時々わざとやっているのではないかと思うが、やめてくれとも言いづらい。
 では、とぎこちなく笑って、トイレに向かう。孫堅も察しているので、早く戻れと言うのみで許してくれた。
 もう少しで扉、というところで、突然声がかかる。
 何ですと、と振り返って驚いた。
 大喬だった。
 思わず尿意も消え失せるというものだ。この美少女を前に、そんなテイゾクな衝動を持っていろと言うのが無理だ。
 は、美少女ジャンルにも理解ある、根っこからのオタクだった。
「あの……わ、私にも、何か歌っていただけませんか……?」
 愕然とする。
 美少女のお願いなら、何とか聞き届けたいが、これはしかし……。
 大喬は元より、妹の小喬も姉妹揃って芸事は達者なはずだ。それを、にわざわざ『歌え』とは、何かあるのだろうか。
 ……あるわけないか。
 大喬の性格は、素直で大人しい、芯の強い大和撫子気質だったはずだ。だから、これはを陥れようという類のものではなく、と話をするきっかけが欲しくての声掛けだろう。
 自分の愛する男が気に掛ける女と、何を話すんだろう。
 は、自分が大喬だったら、声どころか視界に入れるのも嫌だろうな、と思った。
 それができるだけ、このひとはとても強い人なんだな、とも思った。
 フレーズは、自然に口から溢れた。
 優しい歌。リズムも、歌詞も、大喬にあっている。歌ったのは、そんな優しい歌だった。
 高音が伸びて、静かに響き渡る。
 目を瞑って歌っていたから、大喬がどんな表情をしているか分からない。
 大丈夫だよ、とは心を込めて歌う。
 私は、孫策のものにはならない。だから、あなたの敵にはならないよ。大丈夫だよ。
 最後のフレーズが終わり、目を開けたは、大喬が美しい頬をほんのりと朱に染めて、胸に手を当てている様を見た。
 表情からは、大喬がどう思ったかまでは分からない。
 は一礼すると、廊下に出た。

 夜になると、昼間の暑いくらいの陽気が嘘のように涼しい。
 けれど、きっともうすぐ夏なんだな、と思った。
 確かこっちの方、と廊下を行く。と、暗がりから腕が伸びてきての腕を取った。ぎょっとする間もない。口を塞がれそうになって、慌てて身を翻す。腕を外させようともがくが、万力のようにがっちりと捕らえられていて、敵わない。
「頼む、こちらに来てくれ」
 静かな声は、聞き覚えがあった。
「太史慈……殿?」
 暗がりの男が頷く。は、昼間の痴態を思い出し、顔を朱に染めた。太史慈に見られてしまった。どう思ったのか、考えるといたたまれない。昼から、しかもあんな場所で体を許す、破廉恥な女だと思われたのではないか。
「わ、私」
 それはともかく、今はトイレが先だ。甘寧に孫堅、大喬にまで引き留められて、我慢の限界が近い。
「ちょっと、今は……後で……」
「後では困る」
 すぐですから、と言い募るが、太史慈も引かない。
 トイレと言って通じるわけでなし、この場合は何と説明すればいいのやら。ただでさえ引け目を感じるのに、これ以上恥の上塗りはしたくない。は、額にじっとりと脂汗が浮かぶのを感じた。
「いや、ホントに、すぐ、すぐ戻りますから……!」
「こちらの用もすぐ終わる」
 分かってないな!
 事は一刻を争うところまで来ているのだ。は必死になって太史慈の指を引き剥がそうとするのだが、逆に力を篭められてしまい、骨が嫌な感じにきしんだ。
「……手荒な真似はしたくない。頼む、大人しくしてくれ」
 十分手荒です、有難うございます!
 が半泣きになって、もう駄目だ、恥ずかしながら正直に申告しようとした時、背後から鋭い声が掛かった。
「何してやがんだ」
 孫策だった。太史慈の手が緩み、が後ろによろめくのを受け止める。
「……子義、どういうことだ」
「孫策殿……」
 気まずそうに俯き、孫策の厳しい視線を避ける。
 沈黙が落ちた。
 孫策は、腕の中のに目を向けた。
「……、悪かっ……」
「悪いと思うならさっさと離さんかーっ!」
 意表を突かれて孫策の腕は呆気なく振り解かれた。太史慈の顔色がさっと変わる。
 は、物凄い勢いで駆け出しながら、半ぺそかいて怒鳴り散らした。
「この年でお漏らししたら、お前らのせいだーっ!!」
 うわぁん、馬鹿共がーと泣きながら走っていく。一つ角を曲がったところにある、突き当りの扉(ここが便所のわけだが)が派手な音を立てて閉まった。
 呆然とする男二人は、言い合わせたように目を合わせた。
 孫策は盛大に噴き出し、太史慈の肩に捕まりながら、体を震わせて笑っている。太史慈は主に肩を貸しながら、困惑したように眉を顰めて何とも言えない顔をしていた。
「あ、ああいう奴なんだよな」
 面白ぇだろ、な、と振られても、太史慈には何と答えていいものか分からない。はい、と言っても角が立つし、いいえと言っても失礼だろう。
 孫策の顔が、急に『男』のそれに変わる。
「……惚れてんだ。ここ数ヶ月、俺がどれだけ待ったと思ってるよ」
 絶対、手に入れる。
 揺れていた主の目が、太史慈が敬愛するいつものそれに戻った。子供のように無邪気で、それでいて力強い眼差しだ。
 主が望むのなら、是非もない。
 太史慈は、自分が孫策の力になるのだ、と心を決めた。

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