甘寧は乗ってきた馬にそのまま跨って出て行ったらしい。
凌統が急かすと、厩番は手下に使っている年若の男達に檄を飛ばし、急ぎ馬の支度をさせた。
「馬、乗れますよね」
疑いもせず、ただ確認のように凌統が尋ねると、馬良は、しがみ付いてでも、と毅然として頷いた。
どうも、あまり乗馬は得意でないようだ。
「申し訳ないですが、いざとなったら俺は一人でも行きます。付いてきて下さい」
一人にするわけにはいかないとは思いつつ、凌統は念押しして言った。
どうしても、立ち会わなければいけない気がするのだ。
馬良は、自分を振り返りもせず険しい顔をしている凌統の横顔を見て、恐らく凌統もまた、自分と同じ気持ちでいるのだと確信した。
悪い予感がする。
甘寧の馬は、を乗せているとは思えぬほど乱暴に駆ける。
大抵は乗り手の前に乗せられていたが、今日は甘寧の後ろで、その腰にしがみつくようにして乗っている。
振り落とされないよう、そうしろと言われてのことだ。
に否やはない。
走って走って、どれほど経ったのか、突然馬の足が緩まった。
街の入口に着いたのだ。
さすがに、ここで馬を全力疾走させるわけにも行かない。馬の足に子供でも引っ掛けようものなら、大惨事となる。
甘寧も、そこまで我を失ってはいなかった。
だが、馬の足が緩まったにも関わらず、は甘寧にしがみつく手から力を抜かなかった。
手が、かすかに震えている。
その手をそっと包むと、背後のがぴくりと跳ねた。
よほど緊張しているらしい、手は冷たく、にも関わらず汗をかいていた。
甘寧はに掛ける言葉が見つからず、ただ冷たい手を包み込み、温めるようにした。
いつもの酒場に甘寧とが姿を見せると、さすがに常の陽気な歓待はなく、張り詰めた緊張感が空気をぴりぴりとしたものに変えていた。
「しゃべったか」
甘寧の短い応えに、進み出てきた副長格の男は黙って首を横に振る。
「会わせて下さい」
固まって、上手く回らない舌では叫んだ。小さく、舌っ足らずなその声が、が如何に緊張しているかを物語っているようでもあった。
「お願いします、会わせて下さい」
甘寧が顎をしゃくると、副長格の男は軽く頷き、奥へと進む。
狭い廊下に出て、樽が積み重なったのを幾つか退かすと、壁と同色の扉と思しき物が現れた。
以前に出入りした時にはまったく気付かなかった。
が驚き息を呑むが、甘寧も副長格の男も、さっさと中に入っていく。も慌てて後を追った。
階段を下りると、地下室のようになっていた。
饐えた空気と、誇りっぽい熱が肺に侵入し、陰鬱な気分にさせる。は無意識に袖で口を覆った。
更に扉を開けると、蝋燭の火がゆらゆらと揺れる中、男達が数人立っている。
その奥、蝋燭の真下に近い位置に、一人だけ寝転がされている男がいた。
「伯堆!」
王埜の字を叫ぶと、力なく寝転がっていた男がびくりと震えた。
上げた顔は、頬が腫れ上がって酷いものだった。
の目に涙が浮かぶ。
突然の乱入者がだと知るや否や、男達はさっと二つに分かれ、の通る道を作る。
甘寧はその様を見て苦笑したが、は気付かぬまま王埜の元に走り寄った。
後ろ手に縛られ、足は足首の辺りで縛られている。どおりで起き上がらないはずだ。は、王埜の体を抱き起こそうとした。
「やめてくれ!」
悲鳴のような制止の声が上がり、は弾かれたように手を離した。
「は……伯堆……」
が顔を覗き込もうとすると、王埜はそれを嫌って顔を背ける。
「どうして連れてきた! 頼む、もう、何でも話す、あんた達が望むように話を作ってやってもいい、だからこいつを何処かに連れてってくれ!」
これ以上はない拒絶の言葉に、は顔を青褪めさせ、呆然と王埜を見下ろす。
王埜の喉からすすり泣くような嗚咽が漏れるのを、ただ遠くの出来事のように聞いていた。
「」
甘寧が肩を叩いて寄越すのを振り仰いで見上げるが、の目は何故、どうしてと疑問が渦を巻いているようだった。
すがりついて温情を頼むか、吐き捨てるように不満を述べるものだと思い込んでいただけに、王埜の哀しげな悲鳴は、の中で木霊のように繰り返されては、抉るように心を傷つけた。
「」
分かっているから、甘寧は更にを促した。
立とうとしないを無理やり引き摺り起こし、副長格の男に託す。
「……お頭」
ここに居たい、というの希望は敢えて無視した。
王埜が、『にだけは見られたくない』と言う以上、を置いてはおけないのだ。
「分かんだろ」
甘寧は一言しか口にしなかったが、は項垂れておとなしくなった。
促されて外へと連れ出される時、如何にも心細そうに小さく『伯堆』と王埜の字を呼んだのが、暗い室の中に響き渡った。
王埜は唇を噛む。
断られたらしいが、どうやらに惚れていたらしい男だ。周りが思うより想いは深かったようだが、恋敵があの色男や姜維たら言う小僧、挙句に呉の嫡男である孫策では、どうにも分が悪かろう。
「……さて、話してもらおうか? てめぇ、誰の命でこんな真似仕出かした」
王埜は、甘寧を見上げると、言いにくそうに口篭った。
「言うって言ったろうが。あの女、もっかいここに連れてくるか?」
途端、王埜の顔がざっと青褪めた。唇が震え、喉仏がぐっと揺れる。
「……お、俺も、良くは知らない……ただ、周瑜殿の名前は、聞いた」
甘寧の手に小刀が渡され、王埜の喉元に突きつけられた。
「嘘じゃない、ほ、本当に聞いたんだ! あいつらが俺に近付いてきたのは、俺が馬良様の言い付けで張紘殿の元に向かう途中のことだった。見たこともない連中で、言うことを聞かなければ、お前の大事な人間を殺す、と言われて…」
「か」
甘寧の上げた名に、王埜の言葉は途切れた。
突然頭を床に叩きつけ、煩悶の雄たけびを上げる。額が割れ、血が噴出しても尚、王埜は頭を叩きつけるのを止めなかった。
女一人に、国の大事を左右する。
愚かというより他ないことではあったが、甘寧は王埜を蔑む気にはなれなかった。
甘寧の目配せで、手下が王埜の体を拘束した。
「周瑜殿の名が出たってのは、どういうことだ」
涙と血でぐしゃぐしゃになった顔で、王埜は甘寧を見据えた。
「……船を、沈めるから、案内をしろと言われて……そ、それは、それだけはどうしても出来ないと、断ったんだ……けれど、周瑜殿が背後に付いている、お前達を……を、無事に帰してやるからやれと言われて……俺も、周瑜殿は蜀嫌いと聞いてはいたが、を追い出したがっているという話は聞いていたから、それならと思ったんだ。は、蜀に帰りたがっている。帰してやれれば、俺も一緒に帰れれば、も……そう、思ったから、俺は、俺は浅ましい! 己可愛さの為に、こんな……こんな!」
そんなことはとっくに分かっている。
人間なんて奴は、誰も彼もが浅ましいんだ。国の大事をほっぽって、女一人に執着するなんざ、まだましな方だろうがよ。
口には出さない。
これ以上は聞き出すのもムダと踏んで、甘寧は立ち上がった。
王埜が見たこともないというなら、相手は高官ではなくむしろ下層の武官、文官と見るべきだろう。高官ならば、一度は宴で顔を見合わせているからだ。
背後に周瑜が居るというのも胡散臭いが、今の時点ではどうとも取れない。周瑜が背後に居れば、それは血気盛んな青臭い連中にとっては、口に出して誇りたくなってもおかしくない魅力的な事柄であろうし、逆に周瑜を貶める罠かもしれない。半々といったところだろうか。
手下に、王埜の傷の手当てと自害させぬよう見張りを言いつけると、甘寧は今度こそ呂蒙に報告しようと踵を返した。
悲鳴と、怒号が響いてきた。
甘寧ですら、一瞬ぎょっとするような突然さだった。
階段を駆け上がり、酒場に飛び込むとそこは血生臭い匂いがぷんと鼻をつく、小さな戦場と変貌していた。
何人かの手下が床に転がり、びくびくと痙攣している者も居れば失くした腕に悲鳴を上げてのた打ち回っている者もいる。
「姐さぁん、逃げてくれぇっ!」
血まみれになった手下が、剣を腹に突き立てられながらも相手を取り押さえ、叫ぶ。
。
甘寧は、床に転がった剣を拾い上げつつ、瞬時に辺りを見回した。甘寧の立つ側から一番離れた角、机や椅子が乱雑に打ち倒された所に、剣を大きく振り被った男が立っている。
甘寧がすかさず剣を投げると、過たず男の背に突き立った。
苦悶の呻き声を上げて男が倒れると、の悲鳴が響き渡る。
「!」
間髪入れずに別の男がに飛び掛る。
剣は、もうない。
「やだぁっ!」
の泣き叫ぶ悲鳴が響く。
甘寧の体は、意思に反して恐ろしいほど鈍かった。
実際は、瞬間の出来事である。
間に合わない。
手を伸ばしても、とても間に合わない。
甘寧の目が、細く険しく歪んだ、瞬の一瞬。
「だりゃぁっ!」
格子窓を蹴り破って中に飛び込んできた凌統が、怒濤を振りかざして凶刃を弾く。
そのまま回し蹴りを男の側頭部に叩き込むと、男は吹っ飛び、壁にぶち当たって動かなくなった。
動ける賊は皆、凌統の襲来に浮き足立った。
引き上げ時と見たのか、出口に殺到する。
「逃しません」
馬良が立ち塞がる。たかが文官如き、と侮って飛び掛るが、馬良は身の内に溜めた気の力を、惜しむことなく解放した。
呉の将に比べれば脆弱な無双の技も、相手がただの武官であれば脅威に他ならない。
命を奪うには至らずとも、それぞれが後方に飛ばされ、逃げる機を逸した。
「……ぶっ殺す!」
覇海を手にした甘寧が、手下の非業の死に憤り殺気を放つ。
負の波動に衝撃を受け、心の臓が縮み上がる。
「馬鹿か、殺してどうすんだよ、生け捕れよ」
飛び込んできた時の余裕のなさが嘘のように、凌統は軽口を叩きつつふっと息を吐いた。
背後のを伺うと、倒れ伏した錦帆賊に飛びついている。
「やっ、やだっ、しっかり、しっかりして!」
腹の中を抉られ、到底助からぬだろうと見られる男に、は泣きながらしっかり、しっかりと喚き続ける。
男は、笑みを浮かべての頬に触れようとして、手を止めた。
その男の指が、三本欠けているのを凌統は見た。咎を受けた者らしい。
は男の手を取り、自らの頬に当てる。手に付いた血が、の頬をべちゃりと赤く染めた。
「……無事で、良かった……」
それきり男は言葉を発するのを止めた。息も、眼の光も、すべて消え失せた。
の号泣が響き渡る。
凌統は、耳をつんざく哀しい悲鳴から目を逸らした。