呂蒙は珍しく激怒して甘寧を叱り、そのあまりの勢いに、他の将達は怒る隙も与えられなかった。
 敵の狙いはだったようだ。
 襲撃の手早さ、的確さから言ってまず間違いはないだろう。
 でなければ、百戦錬磨の錦帆賊が、不意を突かれたからと言ってこうも簡単に崩されるとは考えにくい。
 王埜は、恐らくないし蜀の臣を誘き寄せる餌として取り残されたのだろう。
 呉の屋敷内では兵や将が常駐しており、何かとやりにくい。
 王埜を捕らえた甘寧が、もしも劉備に注進に走らなくとも、噂話あるいは投げ文と、姿を現さずともそれと気付かせる方法はいくらでもあったのだ。
 手下の力を頼みにし過ぎた甘寧の迂闊を、敵はものの見事に利用してのけたと言えた。
 甘寧は、珍しくただ項垂れて呂蒙の怒りを受け止めていた。
 それはまるで、己の体を受け皿にし、呂蒙の怒りを身の内に溜め込んでいるように見えた。
 呂蒙の怒りと己の怒りを、体内で混ぜ合わせて威力の高い火薬に仕立てている、と陸遜は何とはなしに考えた。
 今回の陰謀に周瑜の名が出たと知っているのは、少なくとも呂蒙、凌統、甘寧、そして陸遜の四人となった。話は伏せてあるものの、いずれは漏れ出す話に違いない。あるいは、もう漏れているのかもしれない。
 軍議の卓に腰掛け、静かに事を見守っている周瑜の横顔を、陸遜はそっと伺った。

 凌統は、体を休める間もなくの護衛に付いていた。
 いつまでもしつこく亡骸に縋りついて離れないを引っぺがし、攫うようにして連れ帰ったのだ。あまりに暴れるもので、一度馬から落ちかけ、我慢の限界を迎えた凌統はを盛大に怒鳴りつけた。
 あの男の死を無駄にする気か。
 凌統の言葉に、は途端におとなしくなった。
 が、代わりに声もなく涙を零すので、どうにも辛気臭くて滅入った。
 、馬良を連れての帰路ではあったが、城下に居た兵士も連れての物々しさが効を奏したのか、再度の襲撃は受けずに済んだ。
 だが、城内とて安全とは言い難い。
 誰が敵か分からぬ状態なのだ。
 王埜は、らと共に城下に戻り、牢に入れられている。見張りはつけているが、その見張りが本当に信じられるかどうか自信がない。
 を襲撃した犯人は、今拷問にかけられている最中だろう。口を割るかは分からない。拷問役の人間が、味方とは限らないからだ。
 疑心暗鬼に陥って、凌統は自己嫌悪に陥った。
 誰を信じて、誰を疑えばいいのか。
 疲れているにも関わらずの護衛についたのは、だから自分を落ち着かせたかったからかもしれない。
 は、少なくともあの単純で馬鹿な女は、嘘をついていないと信じることができた。
 とは言え、そばにいることは憚られた。延々と泣いて、鬱陶しかったからだ。
 の室の前、廊下の端に腰掛けて、凌統は闇に色彩を失った木々を見つめる振りをした。
 廊下に渡された板が、みしりときしむ音がした。
 凌統は立ち上がり、音のする方を凝視する。
 孫堅だった。
「見張り、ご苦労」
 笑みを浮かべて、何気なくの室の扉に手をかける。
 凌統もまた、何気なさを装って室の扉を手で押さえた。
殿に、何か御用で?」
 努めて表情を取り繕いながら、凌統は軽く用向きを尋ねる。
「泣いているのだろう?」
 孫堅の答えはあっさりとしていた。察しろと言わんばかりの答えだ。
 そう思うのは凌統の方に非があるのやもしれない。孫堅にとっては極自然の行動なのかもしれないからだ。
 泣き濡れる女を、抱いて慰めようなどと言うことは。
「……誰も入れてくれるなと申し付けられておりますんでね」
 嘘だ。
 それは、恐ろしく淡々とした調子で、ただその目からひっきりなしに涙を零して、侍女である春花を扉から送り出した時にが呟いた言葉であっただけだ。
『今は、誰とも会いたくないの』
 ごめんね、と口で謝りながらも、は非情にも扉を閉めた。
 謝るくらいなら、春花をそばに置いてやればいいのだ。春花は、と一緒に苦しみたいのだと、そう言いたいに違いない。
 春花は、しばらく閉ざされた扉を悲痛な目で見つめていたが、凌統が一緒に見張りでもするかと声をかけると、自分の務めを果たすのだといって下がっていった。
さまの涙が止まったら、きっと喉が渇くはずです。私は、その時すぐに温かくて美味しいお茶を淹れて差し上げられるよう、鉄瓶の方を見張ります』
 この暑いのに、火の前で番をすると言う。
 健気な侍女の振る舞いに、凌統も感染させられたのだ。
 孫堅を相手に、このような態度で応じる日がこようとは、ついぞ考えたことはなかったのだから。
「泣いているのだろう?」
 同じ問い掛けを口にする。
 孫堅の力は、こういう辺りが示しているのかもしれない。
 泣こうが喚こうが、強引に包み込んで強引に癒す。憎まれようが嫌われようが構ったことではない。絶対に憎まれず、嫌われないという根拠のない自信でも持っているかのようだ。普通の神経の持ち主ならば、まずそうは思わないだろうし、そう思われもしまい。
「泣いてますけどね」
 凌統は、扉を押さえる手に力を篭めた。じんわりと汗が浮いていた。
「駄目ですよ。大殿が、俺にお命じになったんですからね。絶対に、守れ、と」
 凌統の言葉に、孫堅の頬が緩む。
「俺は、の敵ではないぞ。むしろ、これ以上はないほどの味方だ」
殿が同じように考えて下さってればいいんですけどね。そうじゃあないでしょう?」
 孫堅は、扉をじっと見つめた。
 扉の向こうで泣いているはずのを見ているのかと思った。
 そういうことが出来るような、そんな不安を感じさせる人だった。
「……思ってくれては、おらぬと思うか?」
 厭わしげに、重大な軍議の最終決断を迫られてもこんな顔はしないだろうに、孫堅は口元を手で押さえ考えに耽る。
「……何してんだよ、親父」
 孫堅の背後から、孫策が無防備にてくてくと歩いてくる。
「凌統まで。ここ、の室だぜ?」
 言いながら、当たり前のように室の扉を開けようとするので、凌統は扉を力いっぱい押さえなければならなかった。孫堅と違い、孫策は何に付け初動に無用の力を篭める。
 扉が二人の力を受けてみしりと音を立て、孫策は不機嫌に凌統を振り返る。
「……何だよ、凌統」
「中の御仁に、誰も入れてくれるなと命じられてんですよ、俺は!」
 思いつきの言い訳が、正当な理屈へと嘘の上塗りで塗り固められる。
 やや憂鬱な感慨に襲われながら、孫策に威嚇の視線を送ると、孫策はへらっと笑って返してきた。
「そりゃあ、他人に対してだろ? 俺なら大丈夫だ!」
 凌統は再び全力で扉を押さえた。手の下から、がっと力の波を感じる。えらい馬鹿力だと眩暈を感じた。自分の言葉に、一寸の疑いも抱いていないに違いない。
 ある意味、似た親子だ。
「……あのねぇ、若殿。侍女のお嬢さんですら追い出してんですよ、あの女は。お察し下さいよ」
 凌統の説明にも、孫策はむっと眉を顰めるだけだ。
 自分なら大丈夫だと、そう言いたいのだろうか。
 頭が痛かった。
「おお、権か」
 孫堅の声に、無言の攻防を繰り返していた二人も顔をそちらに向ける。
「……父上、兄上。凌統まで。な、何をなさっておられるのです」
 慌てたような素振りで、何かを後ろに隠す。
 孫策が、気軽くひょいと後ろに回りこみ、孫権が隠した物を取り上げた。
「あっ、兄上!」
 焦って上擦った声で孫権が孫策を諌める。孫策の手には、白い百合の花が握られていた。
「……に、か?」
 孫策の問いに、孫権は項垂れつつもこくりと頷く。
「返して下され。……私が、渡します」
 頬を染め手を差し出す孫権に、孫策はむっとしつつも笑みを浮かべた。
「お前、この間までは諦めるとか何とか言ってたくせに、言うじゃねぇか」
「兄上が私を焚き付けたのではないですか! いいから、お返し下さい!」
 わいわいと声を大きくしてじゃれ始めた二人を、孫堅はにこにこと見守っている。
「息子の女の趣味は、父親に似るものなのだな。なぁ、凌統」
 そんなことで同意を求められても困るのだが、何とも返事のしようがなく、凌統は『はぁ』とおざなりに返事をした。
 押さえたままだった扉が、突然揺れる。中からの動きだ。
 凌統が手を離すと、軋んだ音を立てて扉が開く。
 隙間から、が顔を覗かせた。涙は止まっていたが、腫れて酷いものだった。

 三人の男達も、突然現れた目当てに驚いて声を失う。
「呉の中心人物が、揃いも揃って何してんですか」
 の声は掠れて小さかったが、その分憤りが毒と化して丹念に刷り込まれているようだ。
「こんなとこ来てる暇、ないでしょう」
 言うなり、凌統を室に引っ張り込んで扉を閉めてしまった。
 一人で引っ込んでいくなら後を追うことも出来たのだが、自身が凌統の手を取り中に戻ったとあっては、なかなか追いかけにくい。
 孫家の三人が三人とも、まとめて袖にされてしまった。
 呆然として顔を見合わせる息子等に、孫堅は突然くつくつと笑って肩を叩いた。
「どうやら、臥龍の珠は我等に勤勉を求めておられるようだ。仕方ない、仕事をするか」
 が一番喜ぶのは、恐らくこの件の無事の解決、及び呉と蜀の同盟の存続であろうと目星をつけて、孫堅はさっさと軍議の間に向かう。
 まだ誰かしら残っているだろうと思われた。
 孫策と孫権も、互いに頷きあって父の後を追う。
 と、孫権は思いついたように戻り、の室の前に手にした百合の花を置いた。
「私達に、任せておくがいい」
 迷いつつもそれだけ声掛けて、孫権は二人の後を追い、急ぎ駆けていった。

 孫家の三人が去ると、はそっと扉を開け、百合の花を手に取った。
 『貢物』と称する見舞い品の中から、適当な壺を探すと、水差しの水を注いで百合の花を挿す。
 落ち着きなく壁にもたれる凌統に、は椅子を勧め、自らも対面に座った。
「すいません、居られるのは知ってたんですけど、なかなか踏ん切りつかなくて」
 卓の上には、濡れた手巾が置いてあった。水で濡らしたものか、涙で濡れてしまったものかは判断がつかない。
 の目は赤く腫れていたが、眼には理知的な輝きが戻っているように見えた。
「色々、ご迷惑をお掛けして」
 頭を下げるに、凌統は小さく、いや、と返した。
 何か、違和感がある。
 それが何なのか分からないのがもどかしく、凌統は居心地悪く首筋をかいた。
「……まぁ、さ……あんたみたいなの、ああいう殺し合いの場所には、慣れてないだろうしね。辛く、思うのかもしれないけどさ」
 慰めようというわけではないが、沈黙に耐えかねた凌統は、思い付きを口にした。
 あいつらは、あいつらの責務を全うしたんだ。気にするに及ばないし、あんたが気にすればするほど連中にとっては失礼だろう。
 そう続けようとして、不意にの口元がゆるりと弧を描いたのを見てしまった。
「笑って、死んでいって。……痛かったろうと、思うんですよ。あんなに血が出て、息だって、苦しそうで」
 ああ、と嘆息するように息が漏れた。
「私も、ああいう風に死にたいな」
 凌統は、全身が鳥肌立つのを感じた。
 理由は分からない。
 ただ、心の底からぞっとした。
「百合ってね」
 の言葉に、はっとして目を向けると、無機質な笑みは消えていた。代わりに、表情もすとんと落ちて、無表情な冷たい顔に、赤く腫れた目が異様だった。
「死者に手向ける花でも、あるんですよ」
 孫権が、そんな意図を持って携えてきたとは思えない。ただ、美しい花を贈り、の気を和らげようとしただけだろう。
 けれど、何故か符号のようなものを感じて、凌統はそっと額の汗を拭いた。
 蒸し暑いはずの室の中なのに、どうにも寒気が止まらない。
 怯えたような凌統の目には気付かぬまま、は室の片隅に置かれた百合の花を、じっと見つめた。

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