昼前になり、凌統が自分の副将と護衛の任を交代すると、護衛対象のは呑気に茶など啜っていた。
 やや表情が強張って見えたが、昨夜の表情に比べればずっとマシだった。
 凌統を見るなり、は孫堅の元に行くと言って席を立つ。少し気になった。
 これだけの騒ぎの後で孫堅自身も忙しかろうし、何よりがいつも憂鬱そうに孫堅の元を訪れているのを知っていたので、が自ら孫堅の元に向かおうとするのに違和感を感じたのだ。
 は、行ってきますと春花に笑って手を振る。
 ぎこちない笑みだが、笑おうとする元気が出たと取ったか、春花はにっこりと微笑んで頭を下げた。
 見張りをつけるかと尋ねると、はやはり微笑んで首を振った。
 ただでさえ自分が世話になっているのに、これ以上呉の世話になるわけにはいかないと言う。
 ならば、他の蜀の臣と共にあった方がいいのではないかと思うのだが、一日仕事が停滞しただけで、もうずいぶんと不都合がでているらしい。春花がいても邪魔になるだろうと言う。
 やはり、違和感がある。
 侍女の春花を、は目に入れても痛くないといった態で可愛がっており、その春花を『邪魔』と言い切るとは思わなかった。
 無言の思索に陥る凌統に、は困ったように笑み、自分か馬良、趙雲か姜維が来た時以外は扉を開けない約束になっているから大丈夫だと告げた。
 凌統は、大丈夫な面子に自分の名が入っていないことに少しの不満を覚えた。
 別にたいしたことじゃない、自分は呉の臣なのだから名前が入っていなくても仕方ないではないかと思いつつ、一方での護衛たる自分の名が入っていないのは、やはり何か面白くなかった。

 孫堅の執務室に着くと、意外にも孫堅は中に居た。
 てっきり軍議の間だと思い込んでいた凌統は、意表を突かれて思わず眉を顰めた。
 孫堅は一人きりで、卓に腰掛けて何かの書き付けを読んでいるところだった。
 凌統にの護衛の任を命じた時と、姿勢から表情まで何もかもが一緒だった。
 突然時が巻き戻ったような感覚に襲われ、凌統は軽く頭を振った。
 が居る。
 あの時とは違う、と凌統は自分を叱咤した。
「凌統殿」
 が、薄く微笑む。
 何か重大な決意を秘めたその顔に、凌統は胸を衝かれた。
 どくん、と心の臓が跳ねる。
 やばい、と思った。
 ろくでもないことを考えている顔だ。昨日の言葉と重なって、凌統は脂汗が額にじわりと浮かび上がるのを感じた。
――私も。
――笑って、死んでいって。
――ああいう風に。
――死にたい。
 何で。
 と孫堅が相対死にしようとしているわけでもあるまい。そんなことをしても、何にもならないのだから。
「しばらく、孫堅様と二人にさせていただけませんか」
 笑って凌統を見上げるの顔を、こんなに美しい女だったかと、凌統は一瞬見惚れた。
 顔の造形がどうというわけではない。身の内、内面から何か毅然とした美しさを感じる。同時に、これはとても脆いものだ、儚いから美しく見えるのだと直感的に感じていた。
「だ……」
 駄目だ、と言おうとしたのだが、舌が痺れたように動かない。
「凌統」
 孫堅が先に扉を指して退室を促し、凌統は逆らえぬまま、唇を噛み締め扉の外へと消えた。
「それで?」
 孫堅はの傍らに立つと、瞳を覗き込むようにしての言葉を促した。
 常ならば顔を赤くして急ぎ逸らすものを、今日に限っては落ち着き払って見つめ返してくる。
「劉備様を、蜀に帰して下さい」
 目の輝きと同じく、口調も落ち着き払っていた。
「劉備を、な」
 突然の申し出に慌てることもなく、孫堅は噛み締めるようにの言葉を繰り返した。
「それで、」
 一度切り、続ける言葉に重みを持たせる。
「俺には、何の得がある?」
 孫堅がそんな風に返してくるだろうことは、には予想の範囲内だった。
 劉備を蜀に帰したところで、孫堅にはさして得になることはない。帰さないからといって、目に見えて得なことなどなさそうだったが、要求しているのはであり、孫堅は当然の権利として見返りの条件を求めているだけだ。
「私に出来ることでしたら」
 声が震えるのを、はようやく堪えた。
 孫堅が何を要求してくるかは分からない。けれど、一人で出来ることなら、それは何でもない。
 何でもない、と決めたのだ。
 には、あまりに手札がない。交換条件とするにもお粗末だが、持ち合わせは自分自身しかない。出し惜しみをしている場合ではないのだと、愚かにもようやく昨日気付くことが出来た。
 遅いかもしれないが、遅過ぎるということはない。
 何処かで聞いたフレーズが、頭の中でぐるぐるしていた。
「そうか」
 孫堅は、何事か考えているようだった。
 ひょい、との体を抱き上げ、続きの間へと向かう。
 やっぱりか。
 やっぱり、それしかないのか。
 心臓が爆発しそうで、目から熱いものがこみ上げてくる衝動を感じ、は慌てて顔を覆った。
 何でもない、こんなことは何でもない。
 お呪いのように何度も何度も頭の中で繰り返す。
 趙雲や馬超、姜維や孫策の面影が脳裏を過ぎるが、意識して暗いところへと沈めてゆく。
 お願いだから、今は私をほっといて。
 墨を含んだ筆先で、浮かび上がる彼らの顔を塗り潰す。
 そうやってイメージして、ただひたすら何でもないを繰り返す。
 笑って死んでいった錦帆賊の男の顔が浮かぶ。
 あの人に比べたら、ホントに何でもない。あの人は、死んでしまったのだから。何もかも失くしてしまうというのに、笑って、良かった、と言って死んでいった。
 私なんて、ちょっと目を瞑って我慢すれば済む話で、犬に噛まれたと思えば済む話で、だからこんなこと何でもない。
 宙に浮いていた体が下降する。
 ふわり、と湧き立つ風が冷たく、はぎゅっと目を瞑った。
 下ろされた先は、柔らかな寝台でも長椅子でもなく、硬い木で出来た椅子の上だった。
 意表を突かれて左右を見渡すを、孫堅は行儀悪く卓に腰掛けて見下ろした。
 孫堅が手を二つ叩くと、奥から大きな盆を掲げて家人が進み出てきた。
 盆ごと卓に下ろすと、黙礼して立ち去っていく。
 孫堅は、卓に腰掛けたまま椀を手に取ると、匙ですくっての口元に寄せてくる。
 意味が分からない。
 呆然と孫堅を見上げる。孫堅は、の口に匙をぐいっと押し当てた。
「何でもするのだろう」
 温いスープを口に含むと、戸惑いながら嚥下する。ほのかに酸味が効いた、温くても味を損なわないスープだった。
 孫堅は再びスープをすくい、の口元に押し当てる。
 何をしたいのだろうと思いつつ、黙って嚥下する。
 孫堅が匙を差し出す。がそれを飲む。
「どうせ、ろくに食べておらぬのだろう?」
 確かに、昨晩から物を口にした覚えはない。
 朝とて、孫堅との会食では必ず食べるからと春花を説き伏せ、せめてと請われて熱い茶を啜っただけだった。
 まったく食欲がなかったのだ。
 孫堅を説得し、何が何でも劉備を蜀に帰さねばと意気込んでいた。
 明け透けに言えば、垂らしこむつもりでここに来たのだ。
 肩透かしを食らって、ついでに拍子抜けした。
 孫堅の運ぶままにスープを飲んでいると、今度は豆を混ぜ込んだ粥になった。
 匙ですくっては、せっせとの口元に運んでくる。
 楽しいのだろうか。
 口を動かしながら孫堅の顔を伺うが、別段楽しそうにも見えない。
 匙が置かれて、今度は彩りよく焼かれた玉子焼きのようなものを箸で運んでくる。
「あの」
「ん?」
「これ、何か意味あるんですか」
 玉子焼きが唇の前に差し出され、は口を開けてそれを受け止める。
 少し大きめの玉子焼きは、孫堅の箸からの口に移り、は器用に唇を動かし、零すことなく口内に納めた。
 あぎあぎと咀嚼していると、孫堅の顔が初めて緩んだ。
「戦で得た女なら、抱きもしようし気も使わぬ。だが、お前はそうではないからな」
 が玉子焼きを咀嚼し続けているのを見て、孫堅は一切れの玉子焼きを半分に割る。
 玉子焼きが嚥下されるのに合わせ、半分の大きさになった玉子焼きが差し出された。
「それに、これはこれでなかなか楽しい」
 そうは見えないけどなぁ、と思いつつ、玉子焼きにかぶりつく。
 すいていないつもりの腹だったが、実はかなりすいていたらしい。食べている内に感覚が戻ったものか、もっと食べたいと体が要求しているのを感じた。
「あの」
「ん?」
「……一人で、食べられます」
 血迷っていたのが醒めてきたのか、孫堅の手ずから食事を食べさせられるのが恥ずかしくなってきた。
 差し出したの手を、孫堅は卓の上に下ろさせてしまう。
「駄目だ」
 言外に、俺が食べさせると主張され、はおろおろとうろたえる。
 口元に再び粥の乗った匙が差し出され、逡巡しつつも小さく口を開けて口に含むと、突然孫堅が笑い出した。
「策や権の幼い頃を思い出すな」
 孫堅はただ昔を思い出して口にしただけなのだろうが、の脳裏にはろくでもない単語が浮かび上がった。
 幼児プレイ。
 がくんと項垂れた拍子に、額をごつんと卓にぶつける。
 痛みにうめくのだが、孫堅はお構いなしだ。匙に粥をすくって、差し出してくる。
「何でもするのだろう、早く食え」
 孫堅の笑みが、もう意地悪くにしか見えない。
 は唸り声を上げつつ、孫堅の差し出す匙に歯を立てた。

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