凌統は落ち着きなく辺りを見回しながら、の戻りを待っていた。
 孫堅の室の前で待っているのはあまりに無粋で、自分が情けない。なので、執務室の扉がかろうじて見える程度に離れ、が出てくるのを待つことにした。
――くそ、何やってんだろうな、俺。
 孫堅に体を貢ぎに行った女を待つ。正直、馬鹿馬鹿しくてやりきれなかった。
 何気なく扉に目を向けると、ちょうどが出てくるところだった。
 柱に預けた背を上げるには、微妙にタイミングがずれた。
 どうしたものかと逡巡していると、きょろきょろしていたがこちらを見、とてとてと駆けて来た。
――鈍い走り方するね、まったく。
 戦場に出たら真っ先に狙われるな、などと憎まれ口を叩く。無論、腹の内でだが。
「お待たせしました」
 へこりと頭を下げるは、いつもの何処か抜けた空気を纏っていた。別れる前のぴりぴりしたものを感じない。
 おや、と訝しくを見遣ると、は恥ずかしそうに頭をかいた。
「……相手にもされませんでしたよ」
 ははは、と乾いた笑いを漏らす。
 何故かほっとしている自分を見つけ、凌統ははっと我に返った。
 馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「……じゃあ、さっさと室に戻んなよ。こっちは、あんたのせいで立ちっぱだっつの」
 顔が熱い。
 きっと赤く染まっているのを見られまいと、凌統はに背を向けて歩き出した。

 いつものお話会は、の室で行われていた。
 どうしようかと思って、凌統に頼んで三人に繋ぎをつけてもらったのだが、が訪れるなら、三人がの室に行くということで話が着いた。
 可愛い、美しいとは言っても、尚香も二喬も立派な武将である。生半な手勢には負けることはないし、何より三人ともがの安否を気遣っていた。がいいなら是非会いたい、でもが移動している時に襲われたら大変だと、わざわざ使いを往復させて来訪の段取りを取り付けたのだ。
 入室の際、二喬の扇はともかく、尚香が手にした圏には少々驚かされた。刃の輝きが鋭く、冷たくて、寒気がするほどだった。
 三人が持ち寄った心尽くしの茶葉や菓子の類は豪勢で種類も多く、お湯だけ用意していたは食べきれるのかと不安になった。
「でも、良かったわ。思ったより元気そうで」
 が落ち込んでいるのは知っていたが、一人になりたいと閉じこもってしまっているという話も聞いていて、胸を痛めた劉備がをそっとしておこうと言い出したので、遠慮していたのだという。
「はぁ、ご心配お掛けしました」
 春花の淹れてくれた芳しい茶を啜りながら、はへこりと頭を下げた。
 お話をする、という空気でもなくて、自然雑談が中心になっていく。
「でも、誰が大姐を狙ったりしてるんだろうね」
 小喬がぷりぷりしながら月餅を頬張る。
 あんたの旦那が怪しいんだけどね、とはさすがの凌統も言えなかった。
 それにしても、周瑜の動きは解せない。
 普段から軍師として、また呉の中枢を担う人物として、持っている情報網の広さでは誰にも引けをとらないはずだ。今回の陰謀に自分の名前が出ていることも分かっていように、未だに何の動きも見せていない。
 だがもし、敵が周瑜を嵌めようと動いているなら、もうとっくに周瑜の名が上がっていてもいいはずだ。
 これは、どう捉えたらいいのだろうか。
「大姐、これねぇ、周瑜様が大姐に是非って!」
 思考に耽っていた凌統の耳に、小喬の明るい無邪気な声が飛び込んでくる。
 ぎょっとして顔を上げると、小喬がに一口大の月餅を差し出しているところだった。
「周瑜殿が?」
「うん、何か、お店で一番人気があって、一個しか買えなかったからって。周瑜様、優しいでしょう〜!」
 大喬は涼しい顔で茶を啜っている。
 一度怒るとなかなか許せない性質らしい。小喬がちらちらと大喬を見遣るのが、何とも卑屈じみていっそ可愛らしかった。
「じゃあ、有難くご馳走に……」
 が手を伸ばす前に、月餅はひょいと宙に浮き上がった。
 あっと声を上げる間もなく、月餅は凌統の口の中に消える。
「……ふんふん、なるほど、こりゃあいけますね」
 口をもぐもぐと動かしながら、凌統は感慨深げに頷いた。赤い舌がぺろりと上唇を舐める。
 はっと我に返った小喬が、喚きながら凌統に殴りかかった。
 ぽかぽかとあまり痛くもなさそうな音と、凌統の笑みを含んだ謝罪が室を賑やかにする。
「すいませんって。でも、目の前で美味そうなもの食われて、昼飯抜きの俺としちゃ目の毒だったんですよ」
 凌統の言葉に、は慌てて立ち上がり凌統に席を勧める。
 一つ、一等上等なのをいただいたからいい、と凌統は扉前の定位置に戻った。
 は空いた茶碗になみなみと茶を注ぎこむと、凌統の元に運ぶ。背後から、小喬が茶なんか飲ませることないと喚いている。
 茶碗を受け取る凌統に、は不安気な眼差しを向けた。
 察しをつけられたか。
 凌統は、妙なところだけ鋭いなと内心舌打ちをしながら、茶を飲む振りをして敢えての視線を避けた。
「大姐、そんな奴ほっとけばいいんだよー!」
 小喬に呼ばれ、は後ろ髪をひかれるようにして席に戻る。
 代わりに春花がやって来て、凌統の顔をじっと見つめた。
 笑って誤魔化して、空になった茶碗を押し付けての元に戻らせる。春花も何か察したらしい。
 自分がばらしてどーすんだっつの。
 凌統は、周瑜の差し入れに何か毒でも入っていたらと慌てて取り上げたのだが、よくよく考えれば周瑜がそんなチンケな手を使うはずもない。
 気をつけなければと自戒した。
 卓を見遣れば、女同士の話が盛り上がっている。ふとした拍子で沈黙が横切った。
「あぁ、そう言えば」
 が何気ない風に切り出す。
「私、呉に残ることにしました」
 さっと沈黙が落ちる。
「……、今、何て……」
 衝撃を受けたように尚香がを見つめた。凌統も度肝を抜かれた気分だった。あまりに唐突で、言葉もない。
「……え、嘘でしょ? 何でが、呉に残らなきゃいけないのよ。だって、は蜀の臣じゃない」
「蜀の臣だからこそ、です」
 尚香の追求に、はきっぱりと言い返した。
「私に出来ること、少ないですけど、でも、私は蜀の臣だから、蜀の人間として呉の人達と仲良くしたい。そして、それが同盟の絆を強固にしてくれるなら、私は喜んで」
「必要ないじゃない!」
 尚香は憤り、強く卓を叩く。激しい音と共に、卓の上の茶碗や盆が揺れて耳障りな音を立てた。
「その為に私が蜀に嫁ぐんだから……私と劉備様が結婚するんだから、がそんなことしなくったって!」
「……でも、言い換えれば、それだけしかないんですよね」
 劉備が、尚香がもし亡くなりでもすれば、一瞬にして瓦解する絆だ。
 だからこそ、今の内にもっと絆を強固にしておきたいと思う。蜀の臣として、呉の臣と手を携え、この国と闘ってはならぬと信義外の信頼を植えつけたい。
「ホント言うと、あのですね、お墓参りをしたいだけなんですけどね」
「お墓参り……?」
 尚香に笑顔を向け、うんと頷く。
 の国では、死者を弔うのに墓を詣でるのだと説明した。できれば月命日、毎月その人の亡くなった日に墓参りに行きたい。蜀に戻っては、それが叶わなくなる。
 いったい誰の、と問いかけて、尚香はすぐに思い当たった。
「甘寧の手下の……」
 が頷く。
 笑って死んだあの人に、せめてもの慰めを。それが、自身の心を落ち着かせる唯一の妙案だった。
 何もかもを失くしてしまった人の代わりに、精一杯できることをしようと考えた。
 に出来そうなことは少なかったが、蜀と呉の間で争いがなくなれば、それだけでも多くの兵士や家族が安堵できるのではないかと思ったのだ。
「だから尚香様、許して下さい。私、呉で精一杯頑張りますから」
 尚香は、目を潤ませながら不貞腐れて、椅子の背もたれにもたれた。
「……駄目、なんて言えないじゃない。ずるいわよ、
 は苦笑しつつ、一生懸命わがままを堪えている尚香に頭を下げた。
「私の代わりに、春花を尚香様のところに伺わせたいんですけど、どうでしょう」
 今度は、春花が驚き口をぽかんと開けた。
 春花は、とても愛らしい。見ていても飽きないし、主へ忠義を尽くす様は、そこらの将と比べても遜色はない。
 の言葉に、春花はしかし目に涙を浮かべた。と離れるのは嫌だと言っているようだった。
「……春花は、お母さんが待ってるでしょ」
 母一人子一人なのだと聞いている。春花はまだ幼い。会いたいはずだ。
 春花は、何も言えずに俯いた。
「私は……嬉しいけど……でも、はどうするの。侍女もなしで、大丈夫なの?」
 元々、呉に来た当時は春花はいなかったのだ。元に戻るだけで、不都合ない。
「大姐のお世話は、私達がしてあげる!」
 それまで押し黙っていた小喬が、嬉しさを隠し切れないといった顔で名乗りを上げた。
 尚香に遠慮していたのだろうが、耐え切れなかったものらしい。
 むっとする尚香に、察した大喬が慌てて菓子を差し出し誤魔化そうとした。
「……が決めちゃったんなら、仕方ないけど」
 大喬の差し出す菓子皿から、一番大きな干菓子を摘まむと、行儀悪くそのまま口の中に放り込んだ。
 ばりばりと噛み締めながら、小喬を横目で睨む。
「お話は、禁止よ」
 途端、二喬の口から悲鳴が漏れる。
「何でー!」
「酷いです、尚香様、横暴です!」
 お黙んなさいっ、と尚香も負けてはいない。
「私が一番先に聞く約束なんだから! それが守れないなら、は連れて帰るからっ!」
 あと凌統、と突然尚香に矛先を向けられ、凌統はぎょっとして振り返る。
「……私が居なくなる前に犯人が捕まればいいけど、そうでなかったら、を頼むわよ。絶対、絶対守りなさい」
 いいわね、と勝手に念押しし、尚香は機嫌悪く立て続けに干菓子を貪る。
 その目から、ぽろぽろと涙が零れ出し、二喬も、凌統もはっと息を飲む。
 は立ち上がり、尚香のそばに回りこむ。
 尚香は、の顔を見上げた。
「ホントは、一人で蜀に行くみたいで、すっごく嫌だわ。心細いわ。初めて蜀に行った時は、策兄様が着いてきてくれたし、こんなに哀しくも淋しくもなかった。でも、が頑張るって言うんだから、私だって頑張らないと駄目なのよ。だって、私は伊達に弓腰姫と呼ばれているわけじゃないもの」
 そう言い募る間も、尚香の涙は止まらない。
 清い尚香の涙に、の胸はずきんと痛んだ。
 けれど、ここで言葉を翻すことはできない。尚香の決意を穢すことになる。
 だから、はただ『はい』と頷いて、不遜を覚悟で尚香を抱き締めた。
「私も頑張ります。尚香様も、どうかお元気で。病気などなさらず、また会う日まで、お健やかにお過ごし下さい。そして、蜀の民から愛される方になって下さいね」
 尚香は、の腰に手を回し、うんうんと何度も頷いた。

 今まさに別れようというかのような愁嘆ぶりに、凌統は内心呆れていた。
 しかし、二人が本気で別れを悲しみ、互いの身の末を案じているのは確かだったから、ほんの少しだけ胸が痛くなったような気がした。
 守れというなら、それは命令だろう。
 やることをやらねばならない。それは凌統も同じだ。ならば、やるだけだ。
 大袈裟なのは苦手の凌統は、だから、言葉にはせず心密かにを守ると誓った。

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