尚香と凌統に守られながら、は劉備の前にかしずいた。
 呉に残ると報告する為である。
 劉備の驚きは、言葉に直せぬほどのものだった。
 そっと伺う先に、いつもと変わらず冷静な顔をした趙雲がいる。
 趙雲は、いつもの決定をあるがままに受け入れる。
 細かなところではわがままを押し通すが、が本気でそうしようと決めたことには口を出さない。
 趙雲の屋敷を出る時もそうだったし、馬超に抱かれた時もそうだった。
 無関心だからだとは思わない。
 趙雲は、を好きだと言った。を自分の物だと言った。
 あの、趙雲が。
 だから、には傷つく理由はない。
 趙雲は、趙雲の出来うる限りの最大でを想ってくれている。そう信じていいだけの根拠を、言葉と行動で示してくれた。
 傷ついているのは、むしろ趙雲だろう。
 だから、胸が痛い。
 逆に、姜維の動揺ぶりは滑稽なほどだった。
 目を見開き、口をぽかんと開け、血の気を失って青褪めた皮膚が細かに震えている。
 滑稽すぎて、胸が痛い。
 姜維は、の許しを己の枷として奔走していたのだろう。ここ数日はに仕事を命じることもなく、呉や蜀の臣らと綿密な話し合いをしていたようだった。何となれば、を蜀に帰す手立てを講じていたのだろう。
 姜維の努力を無にするのは気が引けたが、それらの努力がほとんど実を結ぶ気配を見せていないのも感じていた。
 結局、一番楽で簡単な方法が、唯一無二の方法だったと知らしめられる。
 姜維にとって、これほど情けないことはなかろう。
 残るの方が、よっぽど気が楽だといえた。
 だから、には傷つく理由はない。
 傷ついていない、だから平気なのだと、察してくれればいい。
 は、努めて笑みを浮かべ、どうかこの選択で傷つく人がいませんようにと願っていた。
 それはむしろ、願望というよりは希うと言った方が相応しい、強い強い願いだった。

 劉備への報告を終え、散会した場の中から姜維の姿を探す。
 さして手間もなく姜維は見つかった。姜維もまた、を見つめて呆然と突っ立っていたからだ。
 凌統に、しばらく室に居てくれと頼むと、は姜維と共に何処かへ去った。
 胸の奥底に何かむずがゆい物を感じながらも、凌統はの室へと足を向ける。
 春花が扉を開けてくれるかどうか、少し自信がなかった。

「どうしてです」
 姜維は、を振り返らずにまっすぐ前を見て歩く。
 には答えられない。
「どうして、私に一言仰っていただけなかったのです」
 姜維の声には苛立ちと不満が満ちていたが、根底には深い悲しみがあるのを感じて、は胸が締め付けられる思いだった。
「……決めたのは、ついさっきなのね。気持ちが変わらない内に、殿に申し上げようと思って」
「変えればいい!」
 姜維の怒鳴り声を、は初めて聞いた気がする。
 いつも穏やかに微笑む白皙が、怒りに歪んでいる。
 怖い、とは怯えた。
 けれど、説得しなければと肩に力を篭めた。
 姜維に従って室に入ると、姜維は扉にかんぬきをかけた。
 の手を取り、奥に進むと、長椅子にを座らせる。
「……取り消して下さい」
 出来ない相談だ。
 間近にある姜維の目が、爛々と狂った光を灯す。
「取り消して下さい、蜀に戻りたいと、本当のことを仰って下さい。そうしたら、私はどんな手を使ってでも……」
「駄目だよ、姜維」
 それは、間違っている。
 も姜維も蜀の臣なのだ。劉備を奉じ、蜀の民を守る為に全力を尽くさねばならない。
 二人とも、元々蜀の出身ではない。
 自分の明確な意志の元で、蜀の臣たれと選んだ道なのだ。それに背くことは、ある意味極刑に値する罪だ。
「私はどうなろうと構いません。私は、貴女が居て下さったら」
 は、首を振って姜維を拒絶する。
「駄目だよ、姜維。ホントは分かってるでしょう」
殿!」
 絶望を含む声音に、だがは全身に力を篭めて耐える。
 逃げ出せたらどんなに楽かと思う。けれど、姜維を説得できるのはしか居ない。これも、の選択故の対決なのだ。
「……取り消して下さい」
 姜維の顔が、緊張で引き攣っている。
「で、なければ」
 姜維の手に力が篭り、を横倒しに倒した。
「私は」
 肩に置かれた手が、の襟を左右に引き裂く。合わせ目が解け、白い胸元が現れた。
 姜維の目が、眩い物を見るかのように細められる。
「……どうか……!」
 の手が、姜維の頬を包んだ。
「そうしたいなら、別に構わないよ」
 姜維の、重苦しい声がぴたりとせき止められる。
「私、伯約だったらたぶん平気だと思う。そうしたいなら、いいよ。でも、私は気持ち、変えないからね」
 だからこれは、何でもない、ただの情交だよ、とは続けた。
 傷一つも残せないと言い含められたのだ。虚無感と脱力感が姜維を襲う。
 姜維は、の襟から手を離し、ぱたぱたと涙を落とした。
「……どうして、です……」
 行かないで欲しい、ただそれだけの願いが、どうして聞き届けられないのか。
 蜀に帰りたいと泣いたはずだ。
 懐かしい優しい人達に会いたいと思いを馳せていたはずだ。
 それなのに、何故。
「貴女ではない、私が、この姜伯約がそうしたいと言うだけです。貴女が悪いわけではない、貴女を責める資格など誰にもない、すべての罪科は私が背負うと言っているのです。それでも、駄目なのですか。願いを、お聞き届けいただけませんか。それだけでいい、共に蜀に帰って下されば、それきり私は貴女を諦めてもいい、それでも、それでも駄目なのですか!」
 は、苦く笑った。
「駄目だよ」
 唇が触れるのを嫌って、姜維は顔を背けた。
 に丸め込まれるのが厭だった。
「ならば手段は選びませぬ! どうあっても、貴女には蜀に帰っていただく!」
 握り締めた拳の内側に爪が食い込み、ぷつりと音を立てて裂けた。
 姜維は気にも留めず、身の内に沸き起こる嵐をひたすら耐えた。
「それで」
 ぽつりと、降り始めの雨が大地に染み入るように、が言葉を漏らす。
「どうなるの?」
 時すら止まる。
 の目は、何の色も浮かべず、姜維を映す鏡のようだった。
 姜維は、の目の中の自分を見つめた。驚いている。間抜けな顔だと思った。
「私、蜀に帰って。それで、どうなるの? 帰りたいよ、それは。だって、蜀は私の第二の故郷だって……ううん、もう、唯一の故郷だと思ってる。でも、私が帰ってどうなるの? 蜀の民は幸せになるの? 豊かになるの? 戦は終わるの? 何にも変わらないよ。私は、私のできることをしなかったって後悔するよ。後悔して、自分が嫌いになった私を、姜維は好きでいられる? 伯約が、私に好きだって言ってくれても、私は私が嫌いなんだよ? 私、そうしたら伯約のことも嫌いになるかもしれない。だって、私の嫌いな私を好きだって言ってくれたって、そんなの全然嬉しくないよ。私は、私を誇れる私でいたい。そんな私を好きになってもらいたい。これって、普通でしょ? 全然変なことじゃないよね? ねぇ、そうでしょ?」
「詭弁です」
 姜維の涙は、静かに頬を伝う。
「そんなのは、全部、詭弁です……私は、貴女と蜀に帰りたい。蜀で、貴女が笑って下されば、それでいい。それを見られれば満足です。それだけです……それだけなんです……」
 離れたら、もう、二度と会えなくなる気がする。
 女々しいと詰って下さっても結構です、けれど、私は貴女が行ってしまうのが、こんなにも厭なのだ。
 姜維の言葉は、一つ一つがの胸に刺さる。
 難しいな、とは苦笑した。
 お互いが相手のことを思っているのに、お互いの言葉に決して納得できずにいる。
 は、じっと姜維を見つめた。
 泣いている。私のせいだ。でも。
「私、もう決めたから。気持ち、変えないよ」
 姜維の顔が強張る。
「でも、辛くないわけじゃないよ。ホントに私でこんなことできるのかな、とか、怖いな、とか思うよ。伯約が、帰ろう、帰ろうって言うの、泣きたくなるくらいそうしたくなる。でも、これで気持ち変えたら、私、駄目なんだよ。だから、逃げ道作らないで。お願いだから、私のしたいようにさせて。自信、なくさせないで。根拠なんか、なんにもないの。詭弁って、ホントにそう。分かってるの。だから、お願いだから」
 お互いに抱き締めあう。
 他人の熱が伝わって、迷子だった子供が自分の家を探し当てたかのようにほっとした。
「……大丈夫って、言って、伯約。私なら、大丈夫って。待ってるからって、言って。ずっと、ずっと待ってるからって」
 蜀に居た頃、そう言ってくれた。あの言葉を、もう一度言って。
「……惨いことを、仰る……」
 姜維の腕に力が篭る。
 置いていくと誓え、とは言っているのだ。置き去りにして、戻らないかもしれない人を心安く待っていろと言われて、待てるものか。
 でも、とは続けた。
「お願いだから、言って……お願い、伯約」
 姜維の体が、を抱いたまま長椅子に沈む。
 唇が触れ、互いの眼に互いを映す。
「……殿を、お待ちします。例えこの身が裂かれようと、ずっと、ずっとずっとお待ちしております」
 これで、貴女は満足か。
 姜維の眼から、温い水が零れ落ちていく。
「うん」
 その水を頬に受けながら、は姜維を力いっぱい抱き締めた。
「……うん」
 抱き締め返され、苦しくて息ができなくなる。
 けれど、今はその苦しさがひたすら心地よく、嬉しかった。
 姜維が自分を好きでいてくれることが、ただ純粋に嬉しい。
 今なら、姜維が望むことに何でも答えてしまうかもしれないとさえ思えた。
 例えそれが、蜀に帰ろうということだとしても。
 だがしかし、姜維はいつまでも黙りこくったまま、その熱を確かめるようにしっかりとを抱き締めるだけだった。

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