が呉に残ると告げた時、孫堅はそうか、と言ったきりだった。
だが、対応は目に見えて変化した。
むざむざ船を沈ませてしまった経緯に加えて、を危うい目に遭わせたということで、孫堅はほぼ全面的に呉の非を認めた。
呉の高官の中には、手引きした者の中に蜀の人間がいたことを論い、非は蜀にもあり、何も呉が平身低頭謝罪する言われはないと突っぱねる者も居たが、孫堅は独断専行を全うし、黙らせてし
まった。
お前が殺され掛かったわけではあるまいと言われれば、誰も返す言葉がなかったのだ。
船は、呉で新造の船を用意し、それをそのまま蜀に譲り渡すということになった。以前、黄蓋が修理をすると言って預かった船を返してくれればいいだけの話なのだが、諸葛亮曰く『重大な欠点のある船』に、同盟国の君主や愛娘を乗せるわけにはいかないと言われ、断ることも出来なかった。
丁度完成間近の船があり、間が良かったこともあろう。
呉が、蜀への詫びの印として、形ある物を譲渡したいというお題目もあったろう。
何も自分一人にそれだけの価値があるとも思えず、また思いたくもなく、は自室に引き篭もって世間の動きから目を逸らしていた。
「ホントに、いいのかよ」
暇に飽かせての室を訪れる孫策は、こみ上げる嬉しさと同等の尻の座りの悪い感覚に唇を尖らせていた。
が残ることは嬉しい。その為の手立てを色々考えていたし、いざとなったら引っ攫ってでも、と思いつめていたこともあるくらいだ。
けれど、そうすると決意できずにいたのは、自身に残りたいと願って欲しいという願望があったからに他ならない。
の意志で、呉に、孫策の側に残りたいと言って欲しかった。
そうではないとはっきり分かっているから、孫策は焦れる。
「いいって、何が」
孫策の胸の内を知ってか知らずか、は誤魔化すように孫策をいなしてしまう。
表情を殺したような横顔に、孫策は椅子を蹴って立ち上がり、を背中から抱き締める。
「お前がこうしたいって、ちゃんと俺に話してくれれば俺は」
切なげな告白をする孫策の腕の中で、は深々と溜息を吐く。
「……いやあの、じゃあ言うけどさ」
うん、と孫策がの顔を覗き込んでくる。その顔をぐいと捻じ曲げ、戸口の方に向けさせた。
困り顔の凌統が立っている。
「人様の前でベタベタして寄越すな、暑っ苦しい」
何だよ、と不貞腐れてぎゃあぎゃあ喚き出した孫策に、は耳日曜ー、と歌うように言いながら耳の穴を塞ぐ。
傍から見ている凌統には、の言うように暑苦しい男女のじゃれあいにしか見えなかった。元気そうに見える。しかし、孫策が気にするように、時折暗い眼差しを見せるの真意を知りたいとも思った。
言葉通り、死んだ錦帆賊なんか(甘寧憎さのせいか、どうもあの連中は好きになれずにいる)に義理立てて、呉に残ると決意したのかもしれないと思うこともあったし、蜀に帰りたくて仕方ないのに、帰らないと決意した自分に酔っているのかと鼻白むこともあった。
は、複雑過ぎてよく分からない。
こうと決めたら一直線に駆ける性格が多い呉の人間の中で、凌統は割と複雑な性格だと揶揄される。その凌統をして、何て複雑怪奇な女だと呆れさせるのがなのだ。
善である、悪であるということすら、はひたすらに悩む。
望まれて残ると決めた己の残留でさえ、本当に望まれているのだろうかと頭を抱えて悩んでいる。
どうしたいのか、と一度問うたことがある。
本当は、あんた、どうしたいんだよ。
趙雲がの室を訪れた後、衣服は整えられていたものの、睦み合っていたのだとはっきり分かる跡を首筋に見つけ、凌統が意図なく口走った言葉だ。
は、しばらく黙っていた。思いがけず、真剣に悩まれてしまった。
『皆が、一番いいようにできれば』
ようやく返ってきたのはそんな言葉だった。
そこにの意志はないのだろうか。
だったら、そんな決意は無意味だ。
『そう言えば』
凌統が口を開く前に、はぽつりと呟いた。
機先を制され、凌統は押し黙った。
『誰も、錦帆賊の人が亡くなったこと、言いませんね』
それは、当たり前のことだ。
戦場には大小があろうが、あの場もまた立派に戦場だった。戦場で兵が死ぬのは極当たり前のことで、それをどうこう言う方がおかしい。
けれど、は凌統の言葉を聞いていなかったのか、憂鬱そうに目を伏せた。
『変なの』
その声が、凌統の胸に焼き付いている。
呉の、恐らくは蜀の常識も、この女には通じない。南蛮に近い、場所も定かでない村の出身だというから仕方ないのかもしれないが、の考えは独創的で計り知れない。
だから、皆が皆、この女に夢中になるのだろうか。
胸糞悪い。
「……ほら、若殿。いい加減に執務にお戻り下さいよ。俺の目の前でこうも堂々と執務をサボられたんじゃ、俺も立場がありませんて」
にじゃれかかる孫策にお小言を垂れると、孫策は目に見えて不機嫌そうな顔をした。
「そーだそーだ、早く仕事しなさいよ」
凌統の言葉に、も尻馬に乗って孫策を責める。
二人掛かりで責められ、孫策はぶつぶつ言いながら室を出て行った。
入れ替わりに、馬良が顔を見せる。
凌統に拱手の礼を取り、しばらく室の外でお待ちいただきたいと申し入れてきた。
姜維だったら、嫌だったかもしれない。
すぐに頷き、室の外に出、廊下の欄干に腰掛けて見張りを続ける。
中では、が神妙な顔をして、馬良の言葉を注意深く聞き入っていることだろう。
自分のことなんだから、自分のしたいようにすればいいのだ。蜀の連中も、を手放したくないならさっさとそう行動すればいい。
出来ないのだろうと当たりをつけつつ、しかし八つ当たりでもそう思わないことにはやっていられない。
どうしてか、凌統は苛々としていた。
「殿が、我等が蜀に帰る日取りが決まりました」
馬良の言葉は、実体を伴わない刃と化して、の胸を貫いた。
それでも、は胸に穴が開いてしまったように呼吸が苦しくなるのを耐えて、はい、と力強く頷いた。
分かっていたことだったのに、何故こんなに衝撃を受けているのだろう。
は、我がことながら不思議な気持ちになった。
「本当に、呉に残られるのですか」
馬良の言葉に、共に帰ろうと誘う甘美さを感じた。
思い違いも甚だしい、とは苦笑した。馬良は、ただ単に確認しているに過ぎない。呉でのの活動を気にしているだけだ。今までが今までなだけに、信用がなくて当たり前。馬良は、蜀と呉の関係にヒビが入るのを心配しているのだ。
「はい」
信用して下さい、一生懸命やりますから。
そんな気持ちを篭めて、笑みを浮かべて馬良を見つめると、馬良は困惑したように眉尻を下げた。
どうして眉だけ白いんだろうなぁ、とはちらちらと馬良の眉を見る。
「……帰れなくなるかもしれないのですよ」
意を決して、というような重々しい言葉に、は首を傾げた。
馬良が何を言いたいのか分からない、と思った。
「え、でも、呉の方、皆さん良くしていただいてますし…だって、凌統殿を護衛に付けてくれたりなんかするんですよ! 私、ただの下っ端文官なのに…まぁ、諸葛亮様が私のこと、臥龍の珠とか何とか吹き込んでくれたお陰だと思いますけど」
「……丞相は、そのような嘘はおつきになりませんよ」
では、尚更だ。
「じゃあ私、蜀には私程度の文官がごろごろしているって吹き込んでおきますよ。呉の人達も無闇に戦仕掛けられないように、頑張ります。あ、私、報告書とかってどうすればいいんですかね? 呉の人達に任せたら、内容見られたりしませんかね? 気を回し過ぎですかね?」
馬良に、呉で何をすればいいのか、するべきなのかをは何度も尋ねてきた。そのたびにはぐらかされ、とにかく、呉での毎日の生活や会った人のこと、見たこと聞いたことを文章に纏めなさいとだけしか指示を出されていない。
は、これも自分の実力のなさが馬良の信頼を損なっているのだと思い、何はともあれ実績を作らねばと夜毎拳を握っている。
馬良の目が、悲し気に歪んでいるように見えた。
呉の気候は暑いが、食材は豊富で街にも活気がある。あのご馳走は舌を十二分に肥えさせたはずだ。馬良と言えども惜しいに違いない。
「……時間は、まだあります……心変わりなさることもあるでしょう。貴女はもう少し、ご自分を大切に思わなければなりません。貴女は、蜀の臣とは言え任に着いてからの日もまだ浅く……」
「私は、蜀の臣です!」
馬良の言葉を、の怒鳴り声が遮る。
驚き、顔を上げる馬良の目に、唇を白くなるまで噛み締め、小刻みに震えているの姿が映った。
そんなに帰りたいなら、どうして帰りたいと言わないのか。
頑ななの決意に、馬良は掛ける言葉が見つからずにいる。翻意を促せば促すほど、は頑なに呉への残留を口にした。どうしたら、素直に帰りたいと言わせることが出来るだろう。
「……だって、蜀は私の本当の故郷じゃないんだから、帰れなくたって平気なはずなんです」
生まれた所が故郷なのだとは限るまい。平気なはず、という言葉そのものが、が如何に蜀への帰途を望んでいるのか示している。
本当に心の底から残留を決意し、この呉で役目を果たそうと思ってくれるのならば、馬良とて引き留めはしない。の心遣いとその蜀への忠義に深く感謝し、自らも忠義を尽くすのみだ。
けれど、本当はそうではない。は、自らを騙しおおせようとしている。それが痛々しい。見るに忍びない。
このまま置いていってしまっていいのかと心が揺らぐ。
もしもを失えば、心に深い傷を残しそうだ。それを恐れている。
それが馬良だけならばまだしも、馬良以上に劉備や尚香、姜維や王埜、そして趙雲がどれだけ傷つくのか。考えただけでも恐ろしい。
何とかせねばと馬良も焦っている。
しかし、帰るにしても、帰らないにしても、まずがそうと認めなければやりようがなかった。
を魔物だと言った者が居るらしい。
あながち、間違ってはいないかもしれない。
人の心に住み着き、失ってはならぬと思わせる。人の心を奪う魔物。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、否定もできずにいる。
「また、参ります」
話を切り出す切り口が見つからず、馬良は仕方なく席を立った。
何とかしてを説得したいと思う。
説得も交渉も、不得手と思ったことはなかったのだが、その困難さを考えると、馬良は憂鬱な気にさせられた。