連日のように誰かしらがやって来て、本当にいいのかと聞いてくる。
 そのたびには彼らの言葉を一笑に付し、一蹴し、自分を貫いてきた。
 逆に、良かった、と思った。
 大丈夫かと訊かれれば、実際かなり自信がない。けれど、そうやって煽られることにより答えを変えずにいられた。
 天邪鬼なのだ。
 のこういうところを、きっと趙雲や姜維は分かっているに違いない。彼らだけが、のところに顔を見せないからだ。
 劉備ですら、こっそり顔を出した。趙雲も連れず、尚香を伴ってお忍びで来たのだ。
 びっくりして、慌てて自室に下がってもらうよう懇願したのだが、劉備の困った顔が思いがけず可愛らしかったのを思い出す。年の割に、幼い感じがするのだ。
 きっと、尚香とも上手くやっていけるだろう。
 見送りには行くから、呉から、楽しい話や面白い話を文字に直して送りますからと見送りがてら途中までお供をしたが、劉備は、が一緒に戻ってくれたらそれが一番いいのに、とぽつりと漏らした。
 その言葉だけで、もう十分報われた。
 呉に残ろう。何か、自分に出来ることを探して、蜀と呉の同盟を確固たるものにするのだ。
 荊州での戦いを起こさせなければ、関羽が生き残りさえすれば劉備が死ぬこともなかろう。
 歴史を変えることになるかもしれないが、そもそもの知る中国史には無双の技など存在しないのだから、ここは正確にはの知っている中国ではないのだ。
 ならば、いいだろう。
 三国志を愛する人達(主に女の子というか腐女子の類の人達ではあろうが)が、一度は夢に見る『争いのない三国志』を実現できるなら、それはそれで凄いことではないだろうか。
 魏は、正直まだ想像もつかないが、とりあえず蜀と呉だけでも仲良しでいさせたい。
 孫堅や孫策が存命中だし、何か年取ってないみたいだし、いったいどんな風になるのか想像はつかないが、出来る限りをやってみよう。
 そうやって毎晩、寝床の中で志を新たにするのが、の日課だった。

 馬良に告げられた出立の日が、目前に迫ってきた。
 最近は、春花が起こしに来る前に起きられるようになった。
 廊下に出ると、凌統が眠そうな目をして振り返る。
「お早うございます、凌統殿」
「……あぁ、おはよ……」
 言うなり、大口を開けて欠伸する。首を回すと、こきんと軽い音がした。
「昨晩は、凌統殿が見張りを?」
 大概は兵士が何人か詰めてくれている。凌統も、免除されているとは言え将軍としての仕事がある。代わってもらってはいるらしいが、凌統でなければ分からないこともあり、結局そちらの仕事もせざるを得ない状況だ。
「まぁね、夜間がやっぱり一番危ないわけだしね……」
 錦帆賊があれだけ簡単にやられたのを考えれば、兵士をつけておくくらいでは不安が残る。
 口に出せば、がまた思い出して鬱陶しくなるだろうから、言わずに済ませた。
「……賊の方は、まだ捕まりませんか」
 親玉さえ叩いてしまえば、凌統にこんな苦労を強いずに済む。は、どうせ魏の手先かなんかだろうと楽観視していた。
 凌統は、軽く口元を歪めてを見下ろした。
 の考えていることはだいたい読めた。
 けれど、周瑜の名が挙がっていることをは知らないでいるのだろう。
 捕まった賊は下っ端ばかりで、事情を知ってそうな奴は早々に自決してしまったと聞いている。そちらから糸を解きほぐすのは至難の技と化しつつあった。
 動向を探ろうにも、賊はあれからぴたりと動きを止めてしまっていて、影すら見せなくなった。
 こちらの気が緩むのを待っているのかもしれないが、それにしてもただ待つだけというのは辛い。
 文官の中には、これこそ諸葛亮の策略の証、劉備を帰路に着かせると宣言させて策略を成就させたからには、もう賊が現れることはないに違いないと鼻息荒く喚く者もいる。
 それも有りだろうが、それにしてもやり口が大袈裟すぎる。
 周瑜の名を出したのは、周瑜に対しての牽制なのだろうか。その割にはおおっぴらに名前が出ることもなく、効果は今一つに思えた。
 諸葛亮が、こんな甘い手を使うというのも説得力がない。
 納得できる予想がないだけに、呉の中は紛糾している。
 むしろ、これを狙ったのだという方がまだしっくり来る。
 井戸端でが顔を洗うのを見遣りながら、もしこのまま賊が捕まらなかったら、と凌統は考えた。
 俺は、この女の護衛を続けなきゃならんのかね。
 脇に避けた手ぬぐいを、手探りの指が探している。何の気なしにひょいと摘み上げ、の手に握らせてやると、手ぬぐいを顔に当てながらが笑って有難うと言う。
 何だかなぁ。
 仕事は楽だから別に構いやしないけど、と凌統は誰に向かってでもなく呟いた。
!」
 耳障りな声に白い目を向けると、甘寧がやって来るところだった。
「何だよ、あんたもう謹慎解けたのかよ」
 甘寧は、凌統の嫌味に目を剥くが、唾を吐き捨てに向き直る。構ってられるかという風情だった。
「……、あのよ……」
 に向き直った途端、顔の険が取れて如何にも申し訳なさそうな顔になる。
 凌統としては面白くない。何がと問われても、返事のしようもないが、とにかく面白くなかった。
「……お頭、お早う」
 躊躇いつつも、にっこりと笑みを浮かべるに、甘寧の目が緩む。
「あのな……あいつの墓、出来たんだ」
 甘寧の言葉に、の顔が一瞬強張る。
 凌統は、努めてあの件を思い出させないように気を使っていたものを、瞬時に台無しにする甘寧に腸が煮えくり返りそうになった。
 だが、は凌統を振り返ると、何か物言いたげにじっと見つめてくる。
 馬鹿馬鹿しくなった。
「……あぁ、ちゃんと着いてってやるから、気にしなくていいって」
 甘寧が、俺が着いてくからお前はいらねぇよ、と言うのは無視した。

 墓には、誰も居なかった。
 まだ事が解決していないので、錦帆賊は血相変えて街中を飛び回っているに違いない。
 死者を悼んでしくしく泣いている連中など、想像しただけでぞっとしない。賊がおとなしいのも、案外錦帆賊の復讐を恐れてのことかもしれないと、凌統はふと思った。
 墓は、揚子江を見下ろす小高い丘の上にあった。
 小さな土饅頭が乗せられただけの墓だ。周りは雑草だらけで、新しいにも関わらず草に埋没していて、きっとすぐに分からなくなるだろうと思わせた。
 人の死に、あまり執着してはいけないという話もある。
 死んだ者が魂となってあの世に行くのに、生きている人の想いが枷となって現世に縛り付けられてしまうのだという。
 忘れた方がいいのかもしれない。けれど、しばらくは忘れられそうにもない。
 は土饅頭の前に腰を下ろし、じっと墓を見つめる。
 笑って死ぬということは、物凄いことだ。
 死ぬ、ということを考えるだけで、の足は情けなく震え出す。死ぬというのは、大変なことなのだ。
 笑って、その上誰かの為に死んでいく。後悔はなかったのだろうか。
 甘寧や孫堅の為に死んでいったならまだ分かる。この男は、の為に死んだのだ。無事で良かった、と安心して、笑って死んでいった。
 そのことが、を戸惑わせる。
 何故、自分の為なんかに。
「……そいつ、お前に惚れてたからな」
 の疑念を晴らすように、甘寧がぽつりと呟いた。
 はっとして驚き振り返るに、甘寧は苦い笑みを浮かべながら、知らなかったのか、しょうがねぇなぁとの頭を撫でた。
「……私、そんなじゃないよ……」
 呆然として、やっと出たのはそんな言葉だった。
 自分は、そんな、命を掛けて惚れられるような人間じゃない。
 想いを寄せられ、ふらふらと揺れるような、尻の軽い情けない女なのだ。
「お前ぇがどんな女かとか、そういうのは関係ねぇんだよ」
 ただ、こいつが本気で惚れこんで、腸えぐられてもお前ぇを守らなくっちゃいけねぇって、そんだけ男気見せたってことは、認めてやれ。
 甘寧の言葉は、淡々としていながら重く痛かった。
 の目から涙が溢れる。
「……駄目だよ、そんなの……認められないよ。死んじゃ、駄目なんだよ」
 自分の為に誰かが死ぬなんて、許せなかった。
「お前ぇの気持ちなんか、関係ねぇよ」
 甘寧は、けらけら笑っての頭をぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「奴が、勝手に命掛けたんだ。誰に命掛けるかなんざ、そいつの勝手なんだよ。死ぬなっつったって勝手に死んでいくわな。だったら、そいつの死に様くらいそいつに決めさせてやれ。お前ぇが四の五の言えることじゃ、ねぇんだよ」
 だから、と甘寧は続けた。
「お前ぇが蜀に帰りてぇってんなら、俺が帰らせてやる。ホントのこと言え、お前ぇ、ホントはどうしたい」
 も、凌統もはっとして甘寧を見た。
 甘寧の目は、柔らかな笑みを浮かべていた。
 手の掛かる、しかし骨の髄まで惚れこんだ情婦の我がままを、しかたねぇなと聞いてやっている風でもある。
「……私……」
 の答えが、何時もと違うように聞こえた。
 孫策にも、馬良にも、他の誰にもこんな迷った顔は見せていなかった。
 にとって、甘寧は特別な存在だとでも言うのだろうか。
 凌統は、無意識に噛み締めた唇の痛みに我に返り、己の無様な醜態を見せまいと、何気なさを
装って背中を向けた。
「……私……、ホントは……ホントは、どうしたいのか分かんない……」
 は、土饅頭に向き直った。
「蜀に帰りたいのもホントなの……でも、ここに残って、お墓参りとか……私にできることが、ここにはありそうって思うのもホントなの、ね。蜀に帰っても、私に何が出来るだろうって、そう思うと帰れない。ここに残って、蜀と呉を繋ぐ役割を、少しでも果たせられれば……でも、そんなこと、自分に出来るのかなって、やっぱり凄く不安になるし……でも、私なら出来るって自惚れたりもして。毎晩毎晩、寝床の中で考えて。でも、出来そうってだけで、それが本当に私のやりたいことなのかって聞かれたら……私、分からない……」
 一緒に帰ってくれたらいい。
 一緒にいてさえくれたらいい。
 では、の価値とは、何なのだろう。
「そこにいてくれたら、とか、私、ホントにわかんないから……」
 ただいるだけでいいなら、は呼吸しか出来なくなってしまう。
 どうしていて欲しいのか、誰も教えてはくれないのだから。
「我がままになってるんだと、思う……だって、望まれて……一緒にいてほしいって、すごいことだと……思うんだよね……。でも、いるだけでいいわけないし、じゃあ、私はどうしたらいいんだろうって考えたら、どうしていいか分からなくなっちゃって……」
 何もしたくないのかもしれない。それを認めるのが嫌で、足掻いているのかもしれない。
 みんな迷いもなく自分の生きる道を進んでいるのに、自分一人がうろうろと迷っているのがみっともなく、恥ずかしく思えてしまうのかもしれない。それを誤魔化したくて、ただそれだけで我を張っているのかもしれない。
「……何か、小難しく考えるんだな、お前ぇは……」
 訳が分からんと眉を顰める甘寧に、は恥ずかしそうに肩をすくめた。
「お前ぇは、お前ぇのやりたいようにしてりゃいいんだよ。やりてぇことがねぇなら、歌でも歌って笑ってろ。そうすりゃ、少なくともうちの連中は喜ぶからな」
 ぐしゃぐしゃになった頭を、さらにぐしゃぐしゃにされる。
「そんで、やりたいことが出来たら、そん時ゃ俺に言え。俺が何とかしてやる。いいな?」
 何処からそんな大言壮語が出てくるのか。
 凌統は呆れ返って振り向く。と、の恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな笑顔が目に飛び込んできた。
 心配はしていたと思う。だが、結局の憂鬱を晴らしたのは、甘寧だった。
 自分ではない、ただそれだけのことのはずなのに、凌統は腹の奥底に黒いもやもやとしたものが沈殿していくのを感じた。
「……じゃあ、じゃあ歌うー」
 が立ち上がり、土饅頭に向かう。
 そう言えば、歌、聞いてもらったことなかったね。今日は、貴方の為に歌うね。下手かもしれないけど、一生懸命歌うから。
 すっと大きく息を吸い込んだ。
 ぐぅぅぅぅぅぅ。
 何か、獣が欠伸でもしたような大きな音が響き渡った。一瞬、三人共に動きが止まる。
「……う、ごめん。おなかすいた……かも」
 腹を押さえ、顔を赤くしてが振り返る。
 甘寧の爆笑が響き渡り、凌統は何と言ったものかと頭を掻いた。
「おなかがすいた、だからご飯食べる!」
 やりたいことができたと甘寧を押し退け、顔を真っ赤にしたはずんずんと丘を下り始めた。
 凌統が慌てて追い掛け、突然立ち止まったにぶち当たり、勢いで抱きついてしまった。
 は気にもせず、土饅頭に向け勢い良く手を振る。
「また今度ね!」
 そうして、は凌統の手を取り再び丘を下り始めた。

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