趙雲がやって来たのは、夜遅くだった。
 明日は出航の日だったから、最後の打ち合わせや荷物の整理などがあったのだろう。
 やや疲れたような顔をしている。実際、疲れてもいただろう。
 凌統は、の室の扉を見つめた。
 護衛としては、如何な相手も通せない。先日など、孫堅の入室でさえ阻んだのだ。
 もう一度、趙雲を見遣る。
 拱手の礼を取った後、趙雲は無言でそこに立ち尽くしている。凌統が帰れと言えば、本当に帰ってしまいそうだった。
「……何してんだよ、あんた」
 つい、と顎での室を指す。
 礼儀知らずにも程がある、と我ながら思った。
 だが、趙雲は深々と頭を下げると、凌統の目の前で室の中に消えた。
 中でこれから何が行われるか分かっていて、大概俺も人がいいよな。
 凌統は、なるべく声が聞こえないようにと廊下から中庭に降り、生温い風に流れる雲を見上げた。

 は、まだ起きていた。
 牀に横たわってはいたから、趙雲の気配で目を覚ましたのかと思ったのだが、寝汚いが気配如きで目を覚ます道理はない。
 趙雲の指摘に、は足を蹴り上げてきた。無論、趙雲は軽々と避けた。
「……迷いが、なくなったようだな」
 は、しばらく目を丸くして趙雲を見上げていたが、こくり、と小さく頷いた。
「馬良殿が嘆かれるな。己の手腕に自信をなくされるかもしれない」
 うぇ、と頓狂な声を上げ、は牀の上に起き上がる。
「それ、困る」
「私とて、困る。馬良殿は優秀な文官だ。あれでいて、武芸の方にもそこそこ通じておられる。その馬良殿が、外交手腕に疑念を抱かれるようでは、蜀にとっては大きな損害だ」
 だから、一緒に帰ろうと趙雲は笑った。
「……もー、またそんなこと言って」
 が殴りかかる真似をすると、趙雲は大袈裟に頭を庇った。
 笑って、じゃれあって牀に転がる。
 趙雲の顔が近い。
 笑うと、涼やかな顔に柔らかさが加わって、一層綺麗だった。
「お前が迷っているなら、攫ってでも連れて帰ろうと思っていた」
 長い睫が伏せられ、趙雲の顔が一瞬暗く沈んだように見えた。そのまま目を閉じた趙雲は、穏やかで優しげな顔をしている。
 気のせいだったのかと思っていると、趙雲の腕がを抱き寄せ、その胸の中に押し込められた。
 ぐいぐいと力強く巻き締められ、痛みに思わず眉を顰める。
「早く戻って来い。でなければ、お前の感触を忘れてしまいそうだ」
「じゃあ、子龍が迎えに来ればいいんだよ。そしたら、一番早く会えるよ」
 できるわけがない。
 それでも、互いに我がままを言い合うのは、何故だか楽しかった。
「馬超が喚きそうだな」
 ふと、趙雲が蜀でを待ち焦がれているだろう男の名を呟いた。
「奴のことだ、何故連れて帰って来なかったと私に当り散らすぞ。呉に、単騎で突入してくるかもしれん」
 ぞっとしないことを平気で口にする。趙雲の言うとおり、馬超ならやりかねない気がした。
「うわぁ、子龍、お願いだから孟起なだめておいてよ」
 私は絶対帰るから、と呟く。
 絶対なんて、本当は有り得ない。結果、叶うことがあっても、それは約束されたものではない。
 分かっていながら口にする。
 分かっていながらそれを聞く。
 言葉が続かなくなって、誤魔化すように唇を寄せた。
 今夜は、騙されていよう。
 絶対という言葉は本当にあるのだと、無言の了承を取り付ける。
 の耳殻に趙雲の指が触れ、緩やかな曲線をなぞるように蠢く。
 細かに体が震えるのを、趙雲は愉悦の笑みを浮かべて見つめた。
 抱こうかどうしようか。
 室に来た時は、抱こうと思ってやって来た。
 凌統が居るのも知っていたし、それでも構わぬと思っていたのも事実だ。
 思いがけずあっさりと入室を許され、更にはいつも憎まれ口ばかりのが、あまりにもおとなしくて拍子抜けしたこともある。
 抱くことで、あたかも最後の逢瀬を演出するのも癪に障った。
 の眉間に皺が寄っているのを、ふと気が付いて唇で解きほぐすようにすると、は柔らかく熱い吐息を漏らした。
 頑なな心の女が、溶けるような淫猥な体を持っている。
 どうにも矛盾しているが、それが趙雲のみならず、『男』というものを煽り立てているのは間違いはない。
 自分はそれだけではないと思いつつ、それだけでもいいと言う男も世の中にはいるだろう。嬲るには、それ以上の条件は必要ない。
 頑ななくせに無警戒なこの女は、目を離した途端に何をしだすか分からない。暴れるなら暴れるでいい、せめて自分の手の中でというのは許されない願望だろうか。
 あれほど、何かあったらまず自分の所に来いと言っておいたのに、けろりと忘れていることも思い出した。
 結局、何に付け趙雲が面倒を見てやらねば、愚痴一つまともに吐けぬ女なのだ。
 段々、腹が立ってきた。
 の帯に手を掛けると、が慌てて趙雲の手を押さえつける。
「ちょ、何」
 何もくそもない。に関わることで迷うのは馬鹿馬鹿しいのだと、改めて確認しただけの話だ。
 抱きたいと思ったのだから、抱くだけだと思った。
「馬鹿っ、外に、凌統殿がいるって」
 うるさいので、唇は塞いでしまう。凌統とは先程顔を合わせた。先方も、承知の上で通してくれたに違いないのだ。遠慮する必要はない。
 下腹のまた下に指を這わせれば、濡れた感触でぬるりと滑った。
 これが意志の上でないというなら、趙雲が蜀に戻ってからのの乱行ぶりは、想像するだに頭が痛い。
 子でも宿せば、少しはおとなしくなるだろうか。
 だが、これまでのことを考えれば、誰の子かは定かでなくとも、子の一人や二人とっくに生していてもおかしくない。子が宿りにくい体なのかもしれない。
 今宵一夜で何とかできるものとも思えず、結果、趙雲にを縛り付ける手立てがないことを明かした。
「……あぁ、まったく。ろくでもないな、お前は」
 何がだ、と喚くのを見下ろしながら、肩にの足を抱え上げる。
 の顔に、怯えともつかぬ緊張が浮かぶ。
 いつまで経っても慣れない。
 可笑しさがこみ上げ、同時に愛しさを覚え、趙雲はを優しく貫いた。

 船が、時や良しとばかりに波に揺れている。いつでも出航できる、と誇らしげであるように見えた。
 風も良い。よく晴れて、青の濃い空が何処までも広がっていた。
 姜維は、遂にに声を掛けなかった。
 人ごみに紛れ、肩に力の入った背中がちらりと見えただけだ。
 泣くのが嫌だったのかもしれない。同盟を結んでいるとは言え、他国の将達の前で涙を零すなど、姜維には耐え難い屈辱に違いないのだ。
 が残ることになって、複雑に思っているのはむしろ呉の将達かもしれなかった。血気盛んな彼らは、その分単純というか直情的なところがあって、が蜀に望郷の念を抱いているのを知っていたから、同情する向きが強い。
 孫堅の手前、表立って同情の意を表す者はいなかったが、その代わりに概ね和やかな空気が生まれていた。無用の諍いで、や蜀の者を刺激せぬようにしているようだ。着いた時とは、雲泥の差である。
 孫策は、朝から街に下りて、何やら買い込んで戻ってきた。
 尚香に餞別の品といって、ごっそりと甘味を手渡している。
 食べきれないわよ、と尚香が悲鳴を上げるのを、周りの者はどっと笑って、いやいや、尚香様なら食べきれるに違いないと囃したてた。
 孫策は、春花にも餞別の品を渡していた。母親に、と反物を渡すと、春花はずいぶん強固に辞退していたが、押し切られて頭を下げた。
 小喬が春花の元に駆けてきて、の面倒は必ず自分と姉が保障するから、と約束を交わした。
 春花が泣き崩れ、小喬も釣られて泣き出してしまい、やはり涙目の大喬と三人で抱き合っていた。
 孫策は趙雲とも話をしていた。
 趙雲が拱手の礼を取り、孫策は力強く頷いている。何か通じ合うところがある二人らしかったが、性格はまったくの正反対といっていい。
 だからこそ通じるのかもしれないが、傍から見てもおかしな組み合わせである。は笑い出しそうになるのを堪えた。
 馬良は、最後までの意志を翻せなかった悔恨で力なかったが、が惜別の情を込めて馬良の手を握ると、飛び上がって驚いた。無闇に異性に触れるものではないと、説教を零す。
 は、にこにこと笑っていた。
 劉備や尚香に、無事のご帰還をと頭を下げ、馬良とは職務の最終打ち合わせを兼ねた雑談を交わし、蜀に引き渡された王埜の身を案じつつ、早々に船に乗り込んだ姜維を想って胸を痛めた。
 いよいよ船が出る、という段になり、趙雲がの前に進み出た。
「お前のことは、孫策殿に良く頼んでおいた」
 うん、と頷くと、趙雲も頷き返し、話を続けた。
「お前は、すぐ暴走して人の言うことを聞かなくなるが、今度こそ私と約束をしろ。決して、無茶はしない。何かあれば、孫策殿に相談をしろ。体を厭え。病をしてはならない。酒に酔って、悪ふざけはするな。日々、精進して過ごせ。食事は、必ず摂ること。職務は、溜め込むな。こちらのしきたりも覚えておけ」
「覚えきれないよ」
 が苦笑いすると、趙雲は笑みを深くした。
 綺麗な人だ。
 改めて、実感する。
 何て、綺麗な人だろう。

 名前を呼ばれて、無性に泣きたくなった。切なくなるというのは、こういうことかと思った。胸の中に薄荷のように冷たい、それでいて熱いものが滲みこんで行く。
 この人に名を呼ばれることは、何て嬉しいんだろう。
 自分の名前が、こんなに美しい旋律を伴って聞こえたことはない。
「では、これだけでいい。必ず、私の所に戻って来い。必ず…必ずだ」
 蜀、ではなく、趙雲のいる所。
 帰れるだろうか。
 いや、帰りたい。
 帰ろうと思った。
「うん」
 言葉に直すと、返事はとても短くなってしまった。けれど、それ以上はどうしても紡げなかった。
 大事な時に、言葉を思いつけないのは悪い癖だ。
 何か言わなければ。
 何か。
「……姜維、に、ごめんねって」
 趙雲は、黙って頷く。
「孟起に、あんまり、怒らないでって」
 頷く。
「……劉備様や、尚香様のこと、よろしくね」
 頷く。
 趙雲に、何か言わねばと思うのだが、何を言っていいか分からなくなる。
 元気で、怪我しないで、無理しないで、待ってて、色々な言葉が一度に湧き上がって、いったいどれから言っていいのか分からなくなる。全部、言いたかった。
「忘れないで」
 真っ先に飛び出たのは、思いがけない言葉だった。
「私のこと、忘れないで」
 おかしなことを言っている、と思った。けれど、それきり口が重く、まるで鍵を掛けられてしまったかのように開かなくなってしまった。
「忘れない」
 趙雲は、しかし微笑んでくれた。
「武人としての私は、蜀の、劉備様の為にある。けれど、この心はお前に捧げよう」
 すごい、何て気障な台詞だ。
 笑って、また馬鹿なこと言って、と突っ込みたかったのだ。
 出来なかった。
 情けないことに、生きてきた中で一番感動してしまった。好きだ、と告げられるより、何億倍も愛されていると実感した。
 言葉は、虚ろだと思っていた。
 なのに、これほど感動している自分がいる。
「いいの?」
 私で、私なんかに捧げちゃって、いいの?
「お前がいい」
 趙雲の指が、頬を滑って離れていく。
 くるりと向けられた背中は、拒絶ではなく再会を約定しているようだ。
 一度も振り返ることなく、趙雲は船に乗り込んでいった。
 船員が後から乗り込んで行き、岸と船を繋ぐ梯子が外された。
 ゆっくりと離れていっているのだろうが、にはフィルムを早回ししているものを見ているとしか思えないぐらい、現実味のない素早さを感じた。
 早過ぎる。
 恐怖を感じた。
 ゆっくりでいいのに、どうしてそんなに急いで行ってしまうのか。
 もう少し、せめて名残惜しいと感傷に浸る時間を作ってくれてもいいではないか。
 待って、とは呟いた。
 待って、お願いだから、もう少しだけ、待って。
「伯符、馬」
 孫策の乗ってきた馬に跨ると、は突然勢い良く馬の腹を蹴った。
 無茶苦茶だ。止める間もない。
 の進行方向から、悲鳴が飛ぶ。皆が皆、飛び退って避けるので、逆に誰もを止められなかった。
「あの、馬鹿!」
 凌統は、己の馬を馬番に託したことを後悔した。馬のいる所に戻っていては、到底に追いつけない。
 孫策が偶々時間に遅れ、偶々直接馬を乗り入れていたのが災いした。しかし、それも孫策のせいではあるまい。が一人で馬に乗れることを、誰も知らなかったのだから。
「いいんだよ、そんなことはどうでも!」
 焦りから、余計なことを考える自分を叱咤する。何とかしてに追いつかなくては、今はまだ、危ないのだ。
「任せろ」
 凛とした声に、ざぁっと血の気が引き、青褪める。
 周瑜が、愛馬に騎乗していた。
 何故貴方が、いやそんなことはどうでもいい、それもどうせ『偶々』なんだろう、だが、貴方がを追ってはいけないんだ、貴方こそが、あの女の命を狙う首謀者だと思われているってのに…!
 掛け声も勇ましく、周瑜はを追って馬を走らせていく。
 もし、周瑜が本当に首謀者として。
 の命はないだろう。周瑜の腕は確かだ。あのとろくさい女が敵うわけもない。証拠も残さず、綺麗に片付けてしまうに違いなかった。
 もし、周瑜が本当に無実だったとして。
 が命を落とせば、疑惑は黒い染みとして呉を犯し続けるだろう。あの女は、呉の人間から好かれ過ぎている。誰が命を奪ったのか、噂は到底静まるまい。
 周瑜が無事にを連れ戻す、その可能性はとても低く思えた。
 賊にとって、これ以上はない絶好の機だからだ。
「馬だ!」
 間に合わないと覚りつつ、凌統は部下に怒鳴った。
「俺の馬連れて、追っかけて来な! 俺は……」
 走ったって間に合わないだろうよ、と己自身に怒り狂う声が鼓膜に響く。
 間に合わなくても、行かざるを得ない。
 千分の一、万分の一の可能性であっても、間に合うかもしれないのならばそうするしかないのだ。
 凌統の足は、ただひたすら駆けた。

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