「…………」
正直言うと、泣きたかった。
大半は間に合った。だが、ほんの少し間に合わなかった。
回りくどい言い方を止めれば、要するに『ちびった』ということになる。
この年で、とは便所の壁に手をついて、がっくりと項垂れた。
量こそ多くはないが、下着に密着していたジーンズは被弾を免れず、股間の部分が他の箇所より一際濃くなっている。何とも情けない気分になったが、落ち込んでいても仕方がない。
まず個室の中で下着を下ろし、一旦ジーンズを穿く。下着を手水で流し、よく絞ってからまた個室に戻って穿き直した。しっとりと濡れた布の感触が、身震いするような気色悪さを容赦なく伝えて寄越す。
歯を噛み締めながら、今度はジーンズの汚してしまった部分だけ手水で流し、よく絞ってからハンカチで叩くように拭いた。
布が厚くて固いせいか上手く絞れなかったが、ハンカチに水分を吸わせると、多少はマシになったようだ。ついでに濡れたハンカチで腿の辺りをよく拭い、気合入れついでに唇を引き結んで穿くと、意外に抵抗なく穿けた。先に濡れた下着を穿いていたので、気にならなかったのかもしれない。
ようやく大業を成し遂げて一息つく。
腰の辺りの気色悪さはどうしようもないが、我慢するしかないだろう。
問題は、まだの帰りを待っているだろう孫策と太史慈の存在だった。恥の上塗りは御免である。まして、この失態の原因の二人とあっては尚更だ。
は、こっそりと便所の戸を開けた。
庭に面した廊下は見通しがよく利くが、孫策と太史慈は曲がり角の向こうに位置しているようで、姿は見えない。
便所のすぐ脇に小さな扉が付いている。かんぬきがかかっているが、外に通じているようだ。恐らく、家人や下僕が掃除などで出入りする為に作られているのだろう。
は身を屈めると、音を立てないように慎重に扉を開けた。
宴の広間では、甘寧が退屈して酒を煽っていた。
出入り口に目をやるが、が帰って来る気配は一向にない。
戻ってきたらもう一曲頼もうと思っていたのが、当てが外れてがっかりだ。
ふと、視線を感じて振り返ると、凌統が冷たい目で甘寧を見ていた。
凌統が甘寧を睨みつけるなど、最早日常茶飯事の瑣末なことだ。だが、今宵に限ってはどうも何かが違う。
何だ、と訝しげに視線を向けると、凌統は甘寧から目を逸らしてしまった。これもまた珍しい。
思わず口を開きかけた甘寧を、耳に飛び込んできた孫堅の声が押し留めた。
「を呉にくれぬか、劉備殿」
ざわり。
一瞬にして、広間中の視線が孫堅と劉備に注がれる。
「娘の代わりとまでは言わぬ。だが、尚香がおらぬでは此処も淋しくなろう。大事に迎え入れると約束する。な、俺達にくれぬか」
異例と言って良かった。宴の最中の戯言にしても、他国に仕官をした者をくれと強請る。また、たかだか一人の、素性も明らかでない女を娘を引き合いに出してまで強請る。
どちらにしても、異常とも思える申し出だった。
劉備は、困ったように微笑み、首を傾げた。
「困りましたな……は、いけぬのです」
「何がいけぬと?」
やんわりと、しかしはっきり拒絶する劉備に、孫堅はあくまで食い下がる。そこまで気に入ったのかと、魯粛などは孫堅の顔を上目遣いに伺っていた。
劉備は、しつこく食い下がる孫堅を持て余したように、尚香を振り返った。
尚香もまた、困惑したように劉備の視線をちらと見返した。こんな父は初めて見た、まるで長年思い続けた恋人を得ようとする時のようだった……宴の後、尚香は劉備にだけこっそりと漏らした。
観念したように、劉備は孫堅に向き直り、頭を下げた。
「お許し下さい、に関しては、孔明……うちの軍師から、重ねて手放してくれるなと懇願されておりますので」
あの、諸葛亮が。
広間のざわめきは一気に大きくなる。中でも、周瑜と陸遜の目が瞬時に鋭い光を帯びた。ただ、二人の反応はまるで正反対のものだった。
周瑜の表情は固く険しいものとなり、陸遜は興奮からか頬をみるみる紅潮させ、その口元はさも嬉しげに丸みを帯びた。
「軍師が申しますには、は臥龍の……お知り置きかと存じますが、孔明の渾名です……臥龍の珠であるから、是が非でも手放してくれるなと、出立前に何度も釘を刺されておりますので……申し訳なく思いますが」
お許し下さいと続けながら、劉備は再び頭を下げた。
孫堅は、応とも否とも言わず、黙って劉備を見つめた。
しばらくして、重い空気の塊を吐き出すと、孫堅は酒瓶を取って劉備に勧める。
「……そうか、あの臥龍がそれほどまでにな」
自分の杯にも注ごうとするのを、劉備が留めて酒瓶を取り、孫堅の杯を満たした。
「それ程の者とは」
にっこりと笑う孫堅に、劉備もほっと息をつく。
仲良さげに酒を酌み交わす二人を、だが趙雲は冷静に見つめていた。
孫堅は、遂に最後までを諦めるとは言わなかった。
魚の骨が喉につかえたようなもどかしさを覚え、趙雲は知らぬ内に唇を噛み締めた。
一方、上手く中庭に抜け出すことに成功したは、ぶらぶらと夜の散歩を楽しんでいた。
完全に乾くには時間が掛かるかもしれないが、ジーンズの色合いが多少落ち着いてくれればそれで良かった。
まだ酔いが残った頭には、庭木を渡る風は何よりのご馳走に感じられた。
ふと、雲間から漏れた月の光に浮かび上がる鮮やかな色に気が付いた。近付いてみると、夜の為か花は固く閉じてしまっていたが、そこここにいくつも蕾が付いている。何より、白いものと赤いものが並んでいるのが珍しく、は飽かず風に震えるたくさんの蕾を見上げていた。
「……何をしている……」
突然の低い声に、はっと身を固くして振り返ると、周泰がその長身を僅かに沈めるようにして立っていた。手には愛用の刀が携えられている。いつでも抜刀できる体勢だった。
何時の間にこれだけ近付いていたのかという驚きと、ただ歩いていただけで威嚇される事実に怯んで、は口も聞けずに立ち竦んだ。
怯えからか、足が勝手に後退り、茂った葉を無粋に掻き鳴らした。
しばらくを見つめていた周泰が、不意に抜刀の姿勢を崩した。虚を突かれて、逆にの体はますます縮こまる。
周泰の背は二メートルある。見下ろされて、はようやく周泰の顔に困惑の色があるのに気が付いた。そして思い出す。ゲームの中の周泰は、移動の時は絶えず刀を携え、何時でも抜けるような姿勢で歩いていた。
「……き、斬ったりしません?」
馬鹿な質問だとは思ったが、聞かずにはおられなかった。の質問に、周泰はそれと分かるほど困惑した表情を浮かべた。
「……そう……思うのか……」
斬るつもりはなかったらしい。手にした刀を見下ろすと、地面に置こうとするので、慌てて止めた。
「ごめんなさい、勘違いです! ……暗いから、びっくりしちゃって、それで」
周泰の表情もまた、趙雲とは違う意味で無表情だ。ただ、趙雲とは違って僅かに眉や口元が動く。趙雲の無表情は完全に意図してのものだが、周泰のそれは不器用さの表れなのかもしれない。
「あの」
何故か取り繕わねばという気になって、はおたおたと周泰の手を取った。
「花を」
空いた手で蕾を指差せば、周泰もまた樹上を見上げる。
「……欲しいのか……」
思いがけない言葉にが慌てふためく間に、周泰は手を伸ばして枝をぱきりと手折った。
の胸元に突きつけるようにするので、思わず両手で受け取ってしまう。
いいのかな、と花と周泰を見比べると、また周泰の表情が曇る。
「……違ったか……」
声に少し悲しそうな響きを感じ取って、は首を横に大きく振った。受け取った花をしっかりと握り締めて、頭をぴょこんと下げた。
「ありがとうございます」
回らない舌で礼を言うと、周泰の顔が少し綻んだ気がする。
決して嫌われていないというのが分かって、は何だか嬉しくなった。
嫌われるよりは、好かれた方がいいに決まっている。もちろん、程度によりけりだが。
「もう、戻りますから。お花、ありがとうございました。じゃあ私、これで」
まくし立てるように言って踵を返す。
暗い所ではまだしも、のジーンズにはまだ色濃い部分が残っているはずだ。もう少し時間を置きたくて、ひょっとしたら迎えに来てくれたかもしれない周泰を置いて、はずんずんと進んだ。
「……おい……」
不意を突かれた周泰も、慌てて(かどうかは分からないが)追いかけてくる。周泰の移動速度は速い。は、振り切らねばと駆け足を始めた。
瞬間。
足元にあるはずの地面が消え、は衝撃に声もなく空に身を躍らせた。重力に引かれ、放物線を描くように落ちていく。あっという間の出来事のはずだったが、には何故か長く感じられた。
ざぱぁん、ぶくぶくぶく……
鼻の穴にも耳の穴にもどっと冷たい水が押し寄せ、は一瞬天地の境を見失った。訳も分からず四肢を滅茶苦茶に振り回すと、首根っこを掴まれてぐいっと引き寄せられた。
水が、離さないと言わんばかりに纏わりつき、自らの重みに耐えかねて割れ、戻っていく。
の周囲に新鮮な酸素がどっと押し寄せ、楽になるはずの呼吸は切り替えるタイミングを損ねての肺を苦しめた。
げふげふとみっともなくむせ続けるは、自分が誰かに抱えられていることに長いこと気付けずにいた。
「……大丈夫か……」
暴れもがき、支えにくかっただろうに、周泰は怒るでもなくしっかりとを抱きかかえていた。周泰の腿から下は水の中に沈んでおり、胸や二の腕もからの貰い水でぐっしょりと濡れていた。
「す……すいませ……」
反射的に謝るに、周泰は小さく首を振り、水を掻き分けるようにして岸へと向かった。
どうやら、庭に設えられた池に落ちたようだ。曇っていた為、池の水は暗闇と同化してしまい、草木が絶妙にカモフラージュしての目を欺いたものらしい。
「あ、花」
周泰に摘んでもらった花が、何時の間にかなくなっている。池に落ちた時、水の中に沈めてしまったのか。
喪失感に未練たらしく水面を振り返るが、周泰の起こす水波でかき消されていくのか、あの美しい赤と白の蕾は一向に見当たらなかった。
岸に上がっても、周泰はを降ろそうとはしなかった。周泰が歩くたび、マントや長靴からびしゃびしゃと耳障りな濡れた音が響き、は申し訳なさから身を竦めた。
「……寒いのか……」
寒いは寒いが、は首を振った。
「もう大丈夫ですから、降ろして下さい」
の申し出に、だが周泰は無言のまま却下を下した。
恐る恐るもう一度同じことを繰り返すと、周泰はちらりとを見て、また歩き出した。
「……また落ちては……手間だ……」
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。は気まずいまま項垂れると、身を固くして周泰の為すがままにした。
周泰は、暗闇の中でもしっかり見えているのか、危なげない足取りですたすたと歩いていく。
屋敷に続く階段を上がると、廊下が濡れるのも気にせずそのまま進む。が振り返ると、周泰が進むにつれて後から後から水溜りができていくのがよく見えた。
こんなに濡れてしまったのはのせいだ。だが、周泰は一言もを責めない。
申し訳なさと後ろめたさで、周泰の顔が見られなかった。
そうこうしている内に、は忘れていたことを思い出した。
「!」
広間に続く廊下の角でやはり待っていた孫策と太史慈が、と周泰の有様を見て驚きの声を上げる。
二人を避けようとしたのがそもそもの発端だった。情けなくなって、何もかもが嫌になった。
「何だ、どうしたんだよ」
孫策が周泰からの体を抱き受けようとする。
だが、は逆に周泰の方に体をすり寄せ、孫策の手を避けた。
傷ついたように眉を顰める孫策だったが、は顔を逸らしたまま孫策を見ようともしない。孫策がしつこく手を差し伸べようとすると、今度は周泰が孫策の手を避けた。
「……濡れてしまわれます……」
驚き、怒声を発しようとした孫策だったが、そう言われてむっつりと押し黙った。
「……湯屋にでも、連れてってやれよ。火は落ちてんだろうが、井戸水よりはマシだろ」
言うなり、孫策は太史慈を従えて広間へ戻って行った。
荒い足音が遠退くにつれ、の体から力が抜けて重くなっていくのが分かる。安寧からではなく、極度の緊張と疲労からくる重さだった。
「……降ろして下さい……」
ぽそぽそと呟くの声に、周泰は躊躇したものの、結局叶えて降ろしてやった。
「どうも、ご迷惑をかけてすみませんでした……改めて、御礼を言いに伺いますから」
足取りも重く、蜀に割り当てられた屋敷の方に向かうの手を、周泰は取った。
何事かと、しかしのろのろと振り仰ぐにかけるのに、相応しい言葉を捜そうと周泰はしばらく押し黙っていた。
「……孫策様は……強い方だ……不満なのか……」
ようやく紡いだ言葉はそんなぶっきらぼうな言葉で、はほろ苦く笑った。
「不満というんじゃなくて……ただ、私は……」
応えられないから。
小さく漏らした吐息があまりにも重く、震える唇が痛々しくて、周泰は問い詰めることを止めた。させない空気がそこにあった。
孫策に望まれること、女として生まれたからにはそれ以上の喜びはそうそうないはずだ。
嫌っているわけではない、疎い周泰にもそのくらいは分かる。何故これほど頑なに拒むのか、理解しかねる。
周泰の表情に疑問を見て、はまた苦く笑った。
「一人いれば、支えられるでしょう」
それが大喬のことを指していると気付くのに、数瞬かかった。
「……それは、二人いればもっと強く支えて上げられるのかもしれないけど……でもね」
二人の支える力がバランス崩してしまえば、みんな倒れてしまうことだってあるんです。
「私は、たぶん駄目だから」
固く閉じた瞼が震えて、泣いているのかと錯覚した。だが、開いたの眼は濡れてはいなかった。何処か焦点が合わず、重々しく苦しそうな色が浮かんでいるのみだった。
「自信、ないから」
ほぅ、と息を吐き出し、は周泰に背を向けた。逸らした顔の線がなだらかな首の曲線と相まって、不思議と美しかった。
気が抜けたように手から力が抜け、の手は周泰の指の中からするりと抜けていった。
水を含んだ服がとてつもなく重く感じられる。は暗闇に向けてよろよろと歩き出した。