闇の中、一人ぼっちで道に迷った時に、感じるのは心細さではなく恐怖だと思う。
 灯りが見えた。泣きたいくらいにほっとする。けれど、あの灯りは本当に私が行くべき標なのだろうか?
 ……少し考えさせて欲しい。



 が趙雲を迎えに行くと、趙雲は既に着替え終えていた。
 だが、その隣には先ほどの女性が立っている。
 は空いているベンチに腰掛け、ぼんやりと二人を見詰めていた。
 胸の中にもやもやとしたものを感じる。けれど、それだけではなくて、何処か作り物めいた空々しさを感じる。
 まるで、大好きな漫画の中で大好きだったキャラに突然お相手が出来た時のような感じだ。
 理由は分かっている。
 不意に、趙雲がこちらを向いた。
 一言二言話していたかと思うと、突然こちらに向かって走ってきた。

 の手前で足を止めた趙雲が、を見詰めている。
 趙雲の目に映る自分を見上げる。
 ああ、きっともうすぐだ。
 もうすぐというのが何かは分からなかったが、悪い予感は何故か当たる。
「あの」
 趙雲の隣に、あの女性が立っている。
「良ければ、あの、本当に良ければですけど、これから」
「ごめんなさい」
 言いかけた内容は分かっていたが、敢えて遮った。
「もう、帰りますから」
 趙雲の手を取る。
「ごめんなさい」
 そのまま、方向を変える。趙雲は、逆らうこともなくに着いて来た。
 まだ見ている。たぶん、でもきっと。でも。
 彼女の視線を感じながら、は一度も振り向かなかった。

 趙雲を連れて歩く。
 彼女の視線を感じなくなっても、他の視線を感じても、手を繋いだまま歩く。
 趙雲の手は暖かい。では、趙雲の心は冷たいのだろうか。
 冷たい方がいい。

 急に趙雲が重くなって、足が止まる。振り返ると、趙雲と目が合った。
「どうしたんだ」
 頭の中がすーっと冷たくなっていく。代わりに、胸の奥がどろどろになっていった。
「あー……」
 首を傾げる。
「何だろ。やきもち、かな?」
 一瞬呆気にとられた趙雲の顔が、すぐに戻って薄く笑みを浮かべた。
「何だ、それは」
 趙雲が一歩前に出る。との距離が一歩縮まる。
 は手を離した。
「うぅん、違うね。何か、頑張って餌付けした犬が、赤の他人に尻尾振って媚売っているのを見た感じ。気分悪」
 余りと言えば余りな形容に、趙雲の眉が顰められる。の中に、残酷な喜びが沸いた。気分が悪いのに、気分がいい。逆かもしれない。とにかく、趙雲を傷つけたかった。不思議な気持ちだった。
「戻って、行ってもいいよ。私は帰るけど」
 カートを引いて歩き出す。足が重い。後戻りの出来ない迷路に踏み込んだような気がして、途端に心細くなる。
 でも、と唇を噛む。
 どうせいなくなってしまうんだから、好きになってもしょうがない。
 別れるなら嫌いになって別れた方がいい。
 趙雲とは出会いからして滅茶苦茶で、告白もなしにいきなり犯されて、しかもバックバージン奪われて、キスはしたけどずっと後だったし、どういうつもりか分からないし、今だってまだ好きなのかどうかも聞いてないし言ってない。
 何だか腹が立ってきた。
 ぐるりと後ろを向く。
 趙雲は、未だそこに立ち尽くしていた。
 だかだかと足を踏み鳴らして戻る。
「何、立ってんの」
 趙雲は無表情にを見下ろす。だが、いつもの威圧感がない。の心臓が、どくん、と跳ね上がった。
 傷ついた、のだろうか。
 まさか。
「……あ……あの……子龍……?」
 突然、趙雲の手がの胸倉を掴む。勢いで息が詰まった。
 趙雲の目から、色が消えた。ぞっとする。怖かった。
 顔が、目が近付く。鳥肌が立った。
 唇が触れた。
 はい?
 趙雲の手が離れる。
 呆然としているに向けて、趙雲が侮蔑の笑みを浮かべる。
 みし。
 奥歯が鳴った。
 悔しくて、涙が出そうだ。ちょっと出ている気もする。握り締めた手がぶるぶると震える。
 こんな使い古されたネタでびびってしまった自分が憎い。思わず血の涙が出てきそうだ。
「……っ、し……」
 怒鳴りかけて、はっと気が付く。
 辺りには未だ、帰途に着くイベント参加者でいっぱいなのだ。集中する様々な好奇心の篭った視線に、ざーっと血の気が引く。
 先生、は今まさに穢れました!
 どの先生に向けてかは知らないが、胸の内で叫び上げる。気持ちとしては血の涙を流しつつ、はカートを引いて足早に歩き出した。
 趙雲など、時の百万里彼方にぶっ飛んでしまえばいい。
 かなり本気で、は呪詛を唱えた。
 どんなに急いで歩いても、本の詰まったカートを引くと着替えを肩に軽く下げた趙雲とでは距離に差が出ようはずもない。その必然を呪う。
 元々足の長さとて違うのだ。憎い。呪う。
 改札を通る時、朝のうち趙雲にプリペイドカードを渡していたことを呪う。
 いつもと変わらぬ無表情の趙雲が、何処か機嫌良さそうに見えることを、呪う。
 世界が、むしろ趙雲が敵です、先生!
「バカップルだ、絶対バカップルだと思われた……」
 ショックで顔が上げられない。痛くないなら電車に飛び込んだって構わない。
 気が付かないうちに、本当に黄色い警告ブロックを踏み越えてしまい、派手に警笛を鳴らされる。
 後ろから引っ張られる。背中に、覚えのある感触がぶち当たった。
「何をしているんだ」
 趙雲の胸板だ。相変わらず固い。厚いと言うのだろうか。
 困る。
 は無言で趙雲の腕の中から抜け出し、電車に乗り込んだ。趙雲も後に続く。
 扉が閉まり、流れるアナウンスには驚愕した。
 逆方向だった。

 行きよりずいぶん遠回りをして帰る。乗り継ぎの回数が増えていることに、趙雲は気付いてしまっただろうか。
 逆方向に乗っちゃったから次で降りて、とはどうしても言えなかった。
 は何も言わないし、趙雲も何もしゃべらない。
 傍から見たら、単に乗り合わせた赤の他人に見えたに違いない。
 意識が全部趙雲に向くものだから、また乗り換えし損ねてしまった。
「あ」
 扉が閉まって、見慣れた駅のホームが足早に過ぎ去っていくのを見てしまった。
「今のところで降りるはずだったのか」
 問うわけでもなく趙雲が呟く。
 そうなの、と軽口を叩ければどんなに楽だろうか。
「……違うよ、ちょっと」
 何がどう違うのか。趙雲は、『ふぅん』と軽く相槌を打っただけだった。
 は、趙雲に対して再びもやもやとした感情が生まれるのを感じていた。
 1800年も未来に来て、初めて見るものだらけのはずなのに、どうしてもっと驚いたり、脅えたりしないんだろう。
 朝の内には物珍しげに見ていた電車も、『もう飽きた』と言わんばかりでちらとも見ようとしない。電車の中で疲れた顔をして立っている中年たちや、夢中になってサッカーの話をしている学生たちと違和感なく紛れている。
 そんなのってアリだろうか。趙雲は趙雲なんだから、もっと……こう、違う何かでなくてはいけないはずだ。
 車内アナウンスが流れた。
「子龍、次で降りるからね」
 趙雲は、頑ななの横顔をじっと見て、ただ頷いた。

 広いエレベーターに乗ったのは、5,6人と言うところだろうか。
 予想よりも人がいないのかもしれない。人が多いほうが、恥ずかしくていいのに、などとは考えていた。
 高速エレベーターは、と子龍を乗せてあっという間に最上階の展望台に着いた。
 着く直前の、体が浮くような何とも言えない感覚に、は唇を引き結ぶ。だが、趙雲もまた、眉間に皺を刻んでいたのを見て、は心密かに喜びを覚えた。
 薄暗い展望台は、人影もまばらだ。昼間だったら、親子連れが押し寄せているのだろうが、食事時とも言える今は、むしろ大人ばかりだ。
 趙雲を怖がらせてやろうと連れてきたのに、趙雲は一瞬目を見張っただけで、後はただ興味深げに窓に映る幾多のネオンを眺めているだけだった。
 まるきり普通の人と変わらない反応に、はつまらなくなっていた。
 例えば、そう、孫策だったらどうだろう。が困るほどはしゃいで、手がつけられなくなっていたかもしれない。曹操だったら、何とかしてこの技術を持ち帰れないか思考に耽るのだろうか。惇兄辺りなら、内心の動揺を必死に押し隠しても、額からだらだらと脂汗が流れていて……。

 突然、趙雲がの耳元にひそと話しかける。
「な、何」
 動揺して汗が浮き出したに、趙雲は顎をしゃくって指し示す。
 大きなガラス窓が太い鉄材に仕切られて、張り出した枠がちょうど幅広のベンチのようになっている。
 その一つ一つに、恋人同士と思しきカップルが座り込み、本番直前もさるやという熱い抱擁を交わしていた。
「げ」
 デザインを重視した結果なのか、まさかこれを狙ったとも思えないが、ちょうど幅広の枠が壁の代わりになって、隣同士は見えないようになっていたのだ。もちろん、隣同士が見えないだけでたちからはまる見えになるのだが、ネオンを美しく見せるために照明は落とされていて、ちょっと見には顔の判別はつかなかった。
「……ラブホに行く金もないのか……」
 見たくもないのにあてつけられて、は毒舌を吐いた。

 あん? と振り仰いだに、趙雲が口付けを落とす。
「………ばっ!」
 一メートルは飛び退っただろうか、人にぶつからなくて良かったと一瞬気が逸れるが、は顔を赤くして口をごしごしと拭った。
「バカ!」
 小声で怒鳴りつけるが、趙雲は逆にを睨めつける。の手を取り、ぐいぐいと歩き出した。
「ちょ、ちょっと、子龍!」
 立ち止まろうにも、趙雲の方が断然力が強かった。が踏み止まろうと足に力を篭めても、ずるずると引っ張られてしまい、手が痛くなるだけだ。
「……空いてないな」
 趙雲の呟きに、こいつ今度はこのバカップル共に馴染む気か、と青冷める。
 本番やらかしかねないと、は腕をばたばた振り回して抵抗を始めた。
「……、人に迷惑だろう」
 迷惑なのはお前だ。
 無言でツッコミを入れる。趙雲に届いたのか、歩みが止まった。

 壁際に寄ると、趙雲はを壁に押し付ける。
 少女漫画なら、垂涎のポーズだな。
 シリアスな空気についていけないは、頭の中で自分の状況を茶化す。
は……私がいると、嫌なのか」
 思いがけず、と言うべきなのだろうか。趙雲の声は暗く沈んで、覆い被さるように立つ趙雲は、照明の暗さがそうさせるのか、酷く覇気がない。
「迷惑なら……」
 迷惑なら、どうすると言うのか。の中に、また残酷な衝動が生まれたが、無理やり押さえ込んだ。
「……子龍は、帰った方がいいよ」
 予想外の言葉だったのか、趙雲が息を飲むのが分かった。
「帰らないと駄目だよ。子龍は、蜀の武将なんだから。劉備様の、大事な部下でしょう。だから」
 は、趙雲の胸に額をつけた。心臓の音は聞こえなかったが、趙雲の体温と体臭を身近に感じた。ここにいるんだな、と実感した。
「帰らないと、駄目だよ」
 突然、趙雲の腕がをきつく締め上げた。固い胸板と強い腕の力で、の頬がぐいぐいと押し潰される。
 痛いな、と思った。しかし、やめてくれとは言いたくなかった。

 私、聞き分けのいい、いい子でしょう。
 だから。
 安心して帰っていいよ。
 でも、行かないで。

 相反する感情がある。自分が、本当はどうしたいのかも分かっていない。
 でも、趙雲は帰った方がいい。これだけは分かる。
 帰りに、コンドーム買っておこうかな。
 半泣きで笑いながら、は趙雲にしがみついた。

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