力を手にするためにはまず、勇気を試されなくてはならない。
 猛る獅子を素手で宥めよ、それが勇気の証だと。
 そんなことが出来るなら、力などなくてもいいようなものだが。



「私も行く」
 耳を疑った。振り返り、趙雲の顔を凝視すると、趙雲が再び口を開いた。
「私も行く」
 カートに詰めた荷物を確認していた時だった。忘れ物はないな、じゃあもう寝るかと腰を浮かせた瞬間、いったい何時からそこに居たのか、趙雲が恐ろしい台詞を言い放った。
「……何処へ」
 恐る恐る伺いを立てると、趙雲は軽く髪を揺らした。
「明日、が行くところへ、私も一緒に行く、と言ったのだが」
 ひいぃ、とが悲鳴を上げた。
 は、明日イベントに行くのだ。本を売るのだ。趙雲受なのだ。
 そんなところに趙雲を連れて行けるだろうか。否。断じて否だ。
「……ご勘弁下さい、アニキ」
「どうして」
 速攻で言葉が返ってくる。は、パニックを起こす脳細胞を必死に総動員して、理由をでっち上げに掛かった。
「お、お友達が来るので」
「私を紹介すると、恥をかくと言うことか」
 自慢すら出来そうです、すみません。
「……一日椅子に座って、退屈……」
「しない」
 そう言えば、趙雲はが仕事をしている間は一人でずっと家に居たはずだ。テレビをつけていることもほとんどなかった。
「人が大勢……」
「慣れている」
 大軍率いて戦争していたわけですからね。兵士に囲まれていることの方が多いですね。
「えーと……」
「………」
 言い訳ネタが品切れた。
 はっきり言ってしまえば、『空気が違う』というのが一番簡単なのだ。とても趙雲が馴染めるとは思えない。
「では、明日」
 言い捨てて、趙雲は襖を閉めた。あ、と声を上げるも、襖の向こうの足音はさっさと遠退いてしまった。
 どうしよう。
 今まで、趙雲が外に出たがらないので安心していた。油断していたと言ってもいい。
 は額に脂汗をかきながら、一人どうやって趙雲に悟られずに外に出るか考えていた。

「早いな」
 が早いと言うなら、趙雲はどれだけ早いというのだろう。
 昨夜の内に用意しておいた服に袖を通し、襖をそっと開ければ、そこに趙雲が寛いでいた。
 が顔も洗っていないと言うのに、趙雲は身支度もきっちり整えている。
 外はまだ暗い。当たり前だ。まだ三時を少し回ったばかりなのだ。
「……えー……」
「いつ出立する?」
 半ば寝ぼけているに比べ、趙雲はすっきりと目覚めているらしく、動きもしなやかだ。寝ぼけている趙雲など見たこともなかったが。
「……あー……」
 とりあえず、どうやっても趙雲を置いて出ることはできないと悟った。
「……子龍さぁ……ここに来た時の服、ある?」
 自棄になったのも確かだが、この時の自分はどうかしていたと思う。

 いつもより早めに出て、電車に乗る。
 電車を初めて見る趙雲は、控えめながら驚いた顔をしていた。
 あらかじめ説明はしておいたが、見ると聞くでは大違いというところだろうか。
 電車の扉が音をたてて閉まる。車内アナウンスが流れる。趙雲はきょろきょろしっ放しだ。
 おのぼりさんみたいだと思ったが、まだこの程度で済んで良かったと思う。
 電車はそれほど混んでない。座席はいっぱいだが、ドアの横にカートをたて、趙雲に手すりを掴ませる。
「結構、揺れるから気をつけて」
 小声で囁くと、趙雲が黙って頷いた。
 傍から見たら、どんな風に見えるのだろうか。兄弟だろうか、それとも会社の先輩後輩だろうか。間違っても彼氏彼女には見られまい。
 何となく落ち込んだ。
?」
 趙雲が、屈みこんでの耳元に囁いてかける。
 車両の反対側に立っていた女の子たちが、趙雲の背中越しに指差しているのが見えた。
 違うんだよ、ははは。
 優越感を感じるより先に、恐れ多いと思ってしまう。
 この人は、趙雲なんだってば。いつか……。
、どうかしたのか」
 何でもないよ、と笑って誤魔化した。趙雲は、不思議そうな顔をしていた。

 会場について、まず趙雲を更衣室に連れて行く。
「中に入って、係りの人にこのお金渡してね」
 ここで待っているから、と言うと、趙雲は分かったと言い残して更衣室に消えていった。
 だが、すぐに出てきてしまった。どうしたのかと思っていると、カードを手に持っている。
「何をするか書けと言われたのだが」
 首を傾げる趙雲に、は無言でカードを受け取り、『趙雲』と書き込んだ。
「私の名を書けば良かったのか?」
 趙雲が、趙雲のコスプレをする。
 うん、何も問題ないよとカードを渡すと、趙雲はやはり首を傾げながら去って行った。
 寝不足で、ぼーっとしながら趙雲を待つ。
 趙雲が、趙雲のコスプレをする。趙雲が、趙雲のコスプレをする。趙雲が……
 何も問題ない、だろうか……?
 ここに来て、は冷や汗がどっと流れ出すのを感じた。
 いや、あの、問題あるんじゃない?
「ちょ……」
 呼びかけようとして、既に趙雲の姿がないのに気がついた。既に更衣室に入ってしまったのだろう。呼び出してもらうか。
 何て言って?
 それはやはり、『趙雲さん』と……いや、でも、それは許されるのだろうか。そもそも、呼び出してもらえるものなのか?
 これが女性更衣室なら話は早い、自分で入っていけばいいのだから。しかし、男子更衣室はにとっては未知の花園同然なのだ。入れるわけがない。と言って、もちろん趙雲が携帯を持っているはずもない。
「うぉ……」
 どうするべきか、苦悩しては唸った。
 ひょっこり趙雲が出てくる。当たり前だが、あの格好をしている。目立つ。
「ちょ……」
 歩いてくる趙雲の後ろから、スタッフと思しき女性がついてくる。何だ、と思っていると、趙雲がこちらを指差した。スタッフが走ってくる。
 え、子龍なんかやらかしたのか。
 一瞬血の気が引きかけるが、スタッフは顔を真っ赤にしてファイティングポーズを取りつつ突っ込んできた。
「あの、スペースどこですか!?」
 え、と絶句すると、スタッフはその場で小躍りし始めた。
「私、無双大好きなんです! 写真撮らせていただきたいんで、後で伺っていいですか?」
 趙雲を指差しながら、きゃあきゃあとはしゃいでいる。
 ファイティングポーズではなく、胸の高鳴りを押さえていただけらしい。
 とは言え、趙雲に『やっぱり着替えて』と言うこともできなくなって、は苦い顔をした。

 がスペースに着くと、既にだいたいのサークルが準備を終えていた。
 机の上に置いてあるチラシを片付け始めると、辺りから一斉にどよどよとざわめきが起こる。
 決してのせいではなく、が連れている趙雲のせいだ。
 趙雲が不思議そうに辺りを見回すと、ざわめきは一瞬静まり、直後更に大きくなった。
 チラシを片付けながら、隣のサークルに挨拶をする。
「おはようございます、今日一日、よろしくお願いします」
 趙雲に見入っていた隣の席の売り子嬢は、ぽかんとしていた口を慌てて閉じ、顔を赤らめて頭を下げてきた。
 やはり、優越感というより、肩身が狭い気がする。胃まで痛くなってきた。
、何かすることは」
「ございませぬ」
 怪訝な顔をする趙雲に、はチラシを片付けて椅子を下ろした。
「ここに座ってて」
 が指差すと、趙雲は無言で机に手をかけ、ひょいっと飛び越えた。
 げ、とが呻くも、狭いスペースの間を、机を揺らすこともなく飛び越えられては文句もつけにくい。隣のサークルの売り子嬢など、驚いて声も出ないようだ。
 もういいや、さっさと設営を終えてしまおうと、布を広げた。
、おはよー……と?」
 いつもの同人仲間がやって来て、趙雲を見て驚いた顔をしている。
「え、あんた、彼氏できたの!?」
「……やめてくれぇ」
 思わず死にそうな声を出す。
 趙雲は怪訝そうな顔をして、とやってきた仲間を見比べている。
 興味津々な視線に、は頭痛を抑えながら趙雲を手招きした。
「『趙雲』」
 手で指し示し紹介すると、同人仲間は驚いたように目を見張った。
 が趙雲に名前を紹介している間も、趙雲の顔を見つめている。
「……はぁ、凄いね、理想の『趙雲』だね。何処で会ったの? コスパか何か?」
「いや、偶々」
 偶々庭に現れたので、嘘ではない。詳しく説明しても信じてもらえそうにないし、軽く誤魔化した。
「ふーん、まぁいいけどさ。で、やっぱり受けなの?」
 瞬間、はあらん限りの殺気を視線に篭めてその口を塞いだ。重ねて、手の平で口元を押さえられ、ようやく気付いたらしい。目で『あ、まずかった?』と問いかけてきたが、まずいに決まっている。はただ頷いた。
「違います」
 背後から声がする。
「そうだろう、?」
 にっこり笑う趙雲は、よそ行き用としか言えない極上の笑顔を浮かべていた。
 愕然として言葉もないの耳に、どこからともなく『黒趙雲だ……』という囁きが聞こえてきた。

 一見細身に見える趙雲だが、比べてみると一目瞭然でゴツい。女の体と比べるのがそも間違いなのかもしれないが、鍛えられた体はそこにいるだけで目立つ。
 と並んで座るにはスペースが足りなすぎたので、趙雲はの背後に掛けている。
 これは売り上げ見込めないな、と思っていたのだが、何故かいつも以上に売り上げがいい。趙雲を見て足を止める人が多く、結果、その人だかりにまた人が引き寄せられるという次第だ。
 客寄せパンダの自覚があるのか、趙雲はいつもにも増して寡黙で、ただ微笑んでいる。
 そうこうしているうちに昼も回った。
「……子龍、悪いんだけどちょっとお金とお釣り見ててもらっていいかな」
 が立ち上がると、並べた本の上にきっちりと布を被せた。
「どうかしたのか」
 趙雲が首を傾げると、はこともなげに『トイレ』と答える。頭の中で言葉を変換していた趙雲の顔が、僅かに曇る。言いようがあるだろうということだろうが、も朝から不躾な視線に晒されて、気が立っている。
「じゃ、ちょっと頼むね。すぐ戻るから」
 趙雲は立ち上がると布に覆われた本を見比べた。
「では、私が代わりに「せんでいい」
 趙雲の申し出を一蹴する。隣の売り子嬢がはらはらしながら見ているのが分かる。は溜息をついた。
「……しなくていいよ、お釣りとか大変だし……それよか、本の中見ないでね」
 趙雲が押し黙る。口元に微かに笑みを浮かべて、を見つめている。目の保養ではある、が。
「……見・な・い・で・ね?」
 一音一音に力を篭めると、ようやく趙雲も頷いた。
 が背中を向けて去っていくのを見送って、趙雲はの座っていた椅子に移った。
「失礼する」
 隣席の売り子嬢に声をかけると、頬を赤らめて俯きながら、小さく返事するのが聞こえた。
 それに笑いかけて、ふと机の上に目を遣る。何気なく布をまくり、一冊抜き出した。隣から、『あ』と声が上がった。
 趙雲の頭上から殺気が漂う。
「……子龍さんは、私の話を聞いてなかったんですかね?」
 出掛けたはずのが、顔を引き攣らせながら立っていた。
「まだ見ていないが」
「これから見るところだったんでしょうが」
 趙雲は顎に指をかけ、考え込む。
「そうだな」
 うん、と頷くと、の顔が更に引き攣った。
「……次やったら、ごはん抜くからね」
 取り上げた本をまた布の下に仕舞い、は足音も高らかに立ち去った。
 途端に集中する興味津々な視線も、趙雲が頭を巡らすと一瞬で散る。趙雲は、お預けを食らった犬のように、布で覆われた本を見つめていた。

 が戻ると、ちょうど今朝出会った女性がやってきた。
「あの、写真いいですか?」
 今日のイベントは、コスプレは可能だが、撮影は特定の場所に移動しなければならない。
「すいませんけど、写真撮ったらこのスペースまで送ってやってくれませんか。この人、イベント初めてなんで」
 が声を掛けると、女性は半ば上の空だったが、了承してくれた。
 いってらっしゃいと送り出すと、スペースの中にいた何人かが追いかけるように立ち上がった。
「あの、すごいですね。すごいカッコイイですね!」
 隣の売り子嬢が声を掛けてきた。言わずとも、趙雲のことだと分かる。
「あー、カッコイイですよねぇ」
 そうか、カッコイイんだよね、趙雲は。
 ぼんやりと考える。出会いが出会いだっただけに、こんな風にときめく間もなかった。奇麗な人とは思っていたが、見かけによらぬ傲慢さや押しの強さが、外見のプラス面を根こそぎマイナスに持っていってしまっている。
「良かったら」
 売り子嬢が一冊の本を差し出す。可愛い絵柄だが、表紙にこっそり『趙雲総受け』と書いてある。同志なら、とも自分の本を数冊渡そうとすると、『もう持ってますから』と恥ずかしそうに言われた。新刊がないので、渡すものがない。困っていると、売り子嬢はもし良ければ代わりにスケッチブックを描いてもらえないかと切り出してくれた。
「サイト、伺ってますよ。最近更新されないんで、もしかしたら同人辞めちゃうのかなって思ってたんですけど」
「あー……ちょっと、仕事辞めちゃったんで、ばたばたしてて」
 当たらずとも遠からずだ。ばたばたしていたのは本当だが、仕事を辞めたせいではない。
「そうなんですか……」
 言葉に納得していないものを感じるが、それ以上突っ込まれることはなかった。後は、雑談めいた話に移る。
 趙雲はなかなか戻らず、途端に買い手も寄り付かなくなって、は欠伸を噛み殺した。

 趙雲が戻ったのは、そろそろ更衣室の使用時間の締め切りが迫ってこようかという頃だった。

 お帰り、と言いかけて、背後にいる、趙雲を連れ出した女性に気がついた。視線がややきつい気がする。
 何だ、と首を傾げていると、趙雲が再び声をかけてきた。
「住んでいる所と、携帯電話の番号を教えて欲しいと言うことなのだが」
 あっと言う声が上がる。赤面して俯く女性に、ピンと来るものがある。
「写真を送ってくれるそうだ」
 写真送るのに、電話番号はいらないだろう。女性はますます居心地悪そうに肩を竦めた。
「……えと、メモ書きでいいかな」
 メモを破って渡すと、女性は少し目を赤くして受け取った。
「……すいません、私……知らなくて……」
 何と言っていいか分からず、いえ、別にと口篭った。
 あなたが私に謝る必要など何もないのだ。だって、この人は私のものではないから。
 趙雲に目を遣ると、僅かに首を傾げる。長い前髪がさらりと揺れた。
「子龍、そろそろ更衣室閉まるよ。着替えてきなよ」
 趙雲に着替えを手渡す。
「もしご迷惑でなければ、更衣室に連れて行ってやってもらえません?」
 顔に複雑な色が浮かんでいる。も、たぶん相当に複雑な顔をしているのだろう。
 趙雲が控えめに頭を下げると、女性はあからさまなほど顔を輝かせた。
「迎えに行くから、朝いたところで待ってて」
 声を掛けると、趙雲が顔だけ振り向いて頷く。趙雲と女性は、人ごみの中に消えた。
 いつもなら時間ぎりぎりまでいるのだが、今日は早仕舞いをすることにした。片付けを始めると、隣の売り子嬢が恐る恐る声を掛けてきた。
「あの……いいんですか?」
「いやぁ」
 いいんです、と笑う。別に彼氏とかじゃないんですよ、と言うと、売り子嬢はびっくりしていた。
 そう、別に恋人って訳じゃない。
 だって、趙雲はいつか自分の居たところに帰るのだから。

 けれど今、趙雲はここに居る。それだけでいいと思った。別れの日はそう遠くないような気もしたけれど。

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