運命の輪が回る。
あの輪は、何時でも人を振り回す。良きにつけ悪しきにつけ、それはもう全力で。
悪気はないらしいのだが。
食事をラーメン屋で済ませて、家に帰ってきた。
湯船に浸かりながら、はガラス戸をじっと見ていた。
趙雲が入ってくるかと思ったのだが、その気配はない。
鍵を掛けるか迷ったのだが、趙雲は鍵が掛かっていようがなんだろうが入る時は入る。だから、鍵は掛けずにおいた。入ってこようと思えば入ってこられるはずだが…入ってくる気がないのかもしれない。
急に哀しくなった。
おかしな話だ。
趙雲に『帰れ』と言ったのはつい数時間前だ。趙雲が元の時代に帰ったら、入ってくるも何もないだろう。一人に戻るだけだ。
首まで湯に沈めて、取りとめもない思考に耽る。取りとめがないので終わりも見えない。
「あー、も、やめやめ!」
お湯の表面をばしゃばしゃ叩いて重苦しい空気を散らす。
「しっかりしよう、私! コンドームは買えませんでしたよね! はい、お話になりません! 終わり!」
コンビニの前を通りかかったのだが、レジにコンドームを出すのは忍ばれ、かと言って都合よく自販機があるわけでもない。
勢い良く湯から上がった。大きく波が揺れ、湯が溢れかえった。
濡れた髪を拭きながら部屋に戻ると、趙雲が壁に背を預けて転寝していた。が近付いても起きない。
また狸寝入りをしているのかと思ったのだが、判断が付かない。
「子龍」
とりあえず呼びかけてみるが、目を開けない。
散々知らない場所に引っ張りまわしたので、疲れていたのかもしれない。
正面に屈みこんで繁々と見入る。
武将らしからぬ整った面立ちは優しげで、とても赤子を抱えて一騎で敵陣を駆け抜けるようには見えない。
薄く開いた唇は赤く、は思わず生唾を飲み込んだ。
趙雲の瞼が震える。焦点の合わない目がきょと、と揺れて、を認めて顔を上げる。
「……すまない、眠っていたようだ」
言うなり、うん、と伸びをしながら欠伸をしている。どうやら本当に寝ていたようだ。
「……いかんねぇ、武将ならすぐ目を覚まさないと」
内心の動揺を抑えつつ、は趙雲を茶化した。
「は敵ではないだろう」
穏やかな目がを見つめる。
の胸が熱くなった。勘違いしてしまいそうだ。このままずっと、二人でいられるかもしれない、と。
「子龍……」
どきどきと、早い鼓動が耳にうるさい。
「あの……」
今なら素直になれるような気がした。赤い頬を見られたくなくて、俯いた。
本当は、行って欲しくない、私とずっと一緒にいて欲しいんだ。
「あのね……」
顔を上げると、趙雲は安らかな寝息を立てていた。
何それ。ギャグ?
体の力が抜け、思わずうずくまる。
駄目だ、似合わない……。
気を挫かれて、は我に返る。
所詮、少女漫画ができるような性格ではないのだ。
コンドームもないしね!
「子龍、ほら、風邪引く! 風呂入んないなら、布団で寝なさいよ、布団で!」
趙雲を揺さぶり起こしながら、は、コンドーム買わなくて良かった、とずれた安堵をしていた。
一晩たって、少し冷静さが戻ってきた。
帰れ帰れと言い散らしたが、そもそも趙雲はどうやって帰ったらいいのか。
帰れるならとっくに帰っているだろう。
一人で熱くなっていたのが馬鹿みたいに思えた。
着替えて襖を開けると、趙雲の姿がない。
え、と思わず口走る。
趙雲がここにいないのを見るのは、初めてだった。
朝の早い趙雲は、が必ずが起き出すより早く起き出して、こたつの前に手持ち無沙汰に座っているのだ。が襖から出てくると、顔だけ向けて『おはよう』と言うのが習慣だった。
「……帰っ……た……?」
足元がふらつく。
まさか、こんな急に、挨拶もなしに?
慌てて趙雲の部屋の襖を開ける。
まさか。
「子龍……!」
まさか、まだ寝ていようとは、思わなかった。
何これ。ギャグ?
どっと疲れが出て、はその場に崩れ落ちた。何だよ、と呟いて、溜息を吐く。
それにしても、趙雲がここまで爆睡しているのは珍しい。はいはいをするように四つん這いで、趙雲の眠るベッドの枕元へと近付く。起きない。
よほど疲れていたのだろうか、寝息はすやすやと安らかだが、ぴくりともしない。
指をそろりと伸ばして、趙雲の頬を突付く。
ふに、と思ったよりも柔らかい頬に、の指先が沈んだ。
「……ん……?」
さすがに趙雲が起きた。横目でを見ているが、覚醒しているかどうか甚だ怪しかった。
「子龍、まだ寝てる?」
返事がない。ぼんやりとを見ている。
「私、出かけるけど。子龍はこのまま寝てる?」
考えるように目を伏せ、こくりと頷いた。やはり、まだ目が覚めていないようだ。
「じゃあ寝てて」
が言うと、趙雲はこく、と小さく頷いて瞼が閉じる。すぐに寝息が聞こえてきた。
子供みたいだな、と思った。
他に人はいないのだが、ついつい辺りを見回してしまう。人がいないのを目で確認して、は趙雲にそっと口付けた。
好きと言うのは、こういう気持ちなんだ。
は初めて知った感情を、他人事のように興味深く観察していた。
胸の奥底から沸いて出た感情で、体の中がいっぱいになってふわふわと浮いてしまうような……それはともかく、面白いわけでもないのに顔がやたらとにやにやするのに閉口した。
時限装置付きの恋だ。すぐ破局してしまうのだ。
必死に自分に言い聞かせていると、今度は無性に泣きたくなった。目の辺りが熱くなる。
うわ、何だこりゃ。
情緒不安定か、何だかすごいな。なかなか面倒なものだと感心する。
出かけたには出かけたが、特に目的もなく出てきてしまった。趙雲に言った『出かける』は、口から出任せもいいところだったが、趙雲とあのまま二人でいるとろくなことをしそうに
なかったので、折り良く飛び出してきてしまった。
買い物でもするかとスーパーに入る。
パジャマがもう結構ぼろいんだよね、と衣料品を見に行けば、ちょうどセールをやっていた。
喜び勇んで選びにかかる。なるべく丈夫そうで、洗うのが簡単な奴で、皺が出来にくいのがいい。
「あ、これいいかも」
趙雲に似合いそうだと無地の青いパジャマを手に取る。サイズも大きいし、肩がきついということもなさそうだ……と、そこまで考えて、趙雲に買ってどうすんだ、とツッコむ。
「いかんいかん……えーと?」
薄青のパジャマは、色もいいが縫製もしっかりしている。何より、趙雲に良く似合いそうだ。
「だから!」
自分はこんなに乙女だったのかと思うと恥ずかしい。こんなのは自分に似合わない。
やだやだと独り言を言いながら、二枚のパジャマを両手に下げ、は一人百面相を繰り返した。
気が付けば、山のような荷物を抱えて歩いていた。
結局、悩んだ末に二枚ともレジに持っていった。いやいや、別にパジャマ買いに来たわけではないんデスヨー、と呟きながら、ブラシが古くなってただの、ブラシといえば歯ブラシの予備がなかったの、そんなら歯磨き粉もいるんじゃない? やっぱりお徳用に大きいのをね! タオルも古かったし、思い切ってバスタオルも揃えて買っておこう、二枚セットで結構安いな…と買いこんでいった結果だ。
気が付けば、色違いで二人分買っていることにパニックを起こして、要りもしない服や靴、ノートだシャーペンだインクだと買い足して、ほら、私用の買い物なんだから! と更に荷物を増やして歩いていた。
アホか!
自分にツッコミ入れるも虚しく、とぼとぼと家路を辿る。
お茶を飲もうかとも思ったのだが、荷物があまりに多く、喫茶店に入るのも憚られた。何せ、大きな袋をいくつも提げているので、狭い道で車が通った時など蟹歩きすらできず、体を横にしてべったり塀にくっついていなければならないほどだったのだ。
ともかく、一度家に帰って、趙雲がまだならお昼を一緒に食べて…と考えながら歩く。
もし、趙雲がずっとこのままいてくれるなら、戸籍とかどうしようかと考える。
同じ黄色人種だし、平和ボケしている日本だから、意外に気付かれないのではないだろうか。昨日だって、目立ちはしていたがいぶかしくは思われなかったはずだ。違う意味では相当いぶかしかったが。
帰したくない。
足が止まった。上を見上げると、ビルとビルの間に霞んだ空が見える。
趙雲のいる時代の空も、こんな色だろうか。それとも、もっと青いのだろうか。
ずっと一緒にいられるわけがない。
趙雲だって、帰りたいに違いない。蜀はただでさえ人材が少ないと、諸葛亮の台詞にもあったではないか。趙雲の帰りを待っている人だって、大勢いるに違いない。
必要とされているのだ。
でも、私だって。
でも。
でも、でも、と頭の中で繰り返す。
けたたましくクラクションが鳴る。は飛び上がって、塀に張り付いた。
背後を自動車の排気音が通り過ぎ、大の字で張り付く自分の姿に苦笑いした。
つくづくシリアスにはなりきれない。
玄関を開けようとして、手が塞がっていることに気が付いた。
趙雲を呼ぼうとしたが、この荷物の多さはあまりに恥ずかしい。
一度縁側に荷物を置いて、中から回収しようと庭に回る。
そこに趙雲がいた。
「あれ……」
趙雲は、鎧を着こんでいた。の前に現れた時に着ていた、あの青と白のきらきらしい奴だ。
「何で……」
ああ。
「帰るの……?」
趙雲が頷く。
何だ、帰り方、分かってたんだ。
狭い視界に、趙雲が立っている。きらきらしい衣装、手には冷たく光る槍を持ち、その様はまるで一枚の絵のように見えた。
「そっか、帰るんだ……」
よろよろとしながら歩み寄る。きっと荷物が重いせいだ。
「あの」
何と言ったらいいのだろう。
こんなことなら、出かけなければ良かった。最後に残された時間を、趙雲と二人でゆっくり過ごせば良かった。ああ、でも、そうしたら泣いていたかもしれないから、出かけて良かったかもしれない。
「あのね」
何か、気の利いた一言を言いたかった。でも、何も思い浮かばなかった。
行かないで、などとはどの面下げて言えた義理か。帰れと言ったのは、自分なのだから。
何を言おう。
「あの……」
趙雲の真ん前まで来てしまった。
何か、何か言わなければ。
「子龍が、初めてだった」
何を言い出すやら。
口から滑り落ちた言葉に、は呆れていた。
何かもっといい言葉があったはずだ。元気でね、とか、ずっと忘れないよ、とか、どれだけ陳腐でも、幾らかマシな言葉が幾らでもあるはずだった。
胸がいっぱいで、言葉が出てこない。
後悔しても、さっきの言葉が最後の言葉になりそうだった。
変な女だったね。ごめんね。
趙雲の体の色が、後ろに吸い込まれるように消えていく。
お別れだ。
趙雲の顔は無表情だ。
最後までそんな顔なのか。少しは哀しそうな顔とかすればいいのに、とは、贅沢な要求だろうか。
趙雲の手が伸びてきた。
お別れの握手をするにも、荷物がいっぱいだ。
あ、お土産にどうでしょうか。
選んでいる暇はないが、確か右手に持っているのがタオルとかのはずだ。
視線を一瞬荷物に落とした時、世界が真っ白になった。