正義の女神は天秤を掲げる。正しい行いに報酬を、悪しき行いには応報を。
因果応報なる言葉があるが、ならばそれこそ正義の御業か。
運命に翻弄される者たちが天秤の皿に乗せられる。ゆらりゆらりと揺られている。
一瞬息が出来なくなって、視界が閉ざされた。
思い切り放り出されるような感覚があって、天地が分からなくなったと思ったら、背中から地面に叩きつけられた。勢いで二三回転がって、ようやく止まる。
呼吸を塞き止められた衝撃と打った背中の痛みで、激しくむせる。
何が起こったのかわからない。
ようやくまともに息が吸えるようになって、口元を拭う。むせた時に口から零れた唾液が、手の甲でぬるりと滑った。
「……な……」
顔を上げた瞬間、絶句する。
何処までも空と大地が広がっている。地平線が見えた。
草もろくに生えていない。荒野というのだろうか、風が吹くと砂埃が舞う。
「何、これ……」
は、周りに散らばった荷物を慌てて拾い集める。バリケードのように自分の周りに引き寄せて、辺りを見回した。
まったく見覚えがなかった。
家の狭い庭で趙雲に別れを告げたのはつい先ほどのことのはずだ。
何がどうしてこうなったのか、にはまったく分からない。
突然、遠くから何かを踏み鳴らすような音が聞こえてきた。びく、と肩をすくめ、隠れる場所を探すが、真っ平らな大地にはを隠せるようなものは何もない。
そうこうしている内に、音はどんどん大きくなり、やがて音の正体が姿を現した。
馬だ。
一騎の騎兵が、こちらに向かって駆けて来る。
逃げなくては、と何故か思ったのだが、足が竦んで動けない。
悪い夢でも見ているのだろうか。
腕に鳥肌が立つのが分かった。
騎兵は、の手前で止まった。
宥めるように馬の首を撫でながら、馬上の人はを見遣る。
趙雲とは別の美しさがある男だった。
がつい見惚れていると、男の手にした槍が、日の光を受けてぎらりと光った。
ぞっとした。
飾り物やレプリカなどではなく、本物の、人を突く為にある槍だと、本能で察した。
「殿か」
突然名前を呼ばれ、呆気に取られる。
「……違うのか?」
どう受け答えしていいか分からず、迷いに迷って、は頷いた。
「……どっちなのだ」
いらついたような声に、の脅えは激しくなる。余計に声が出なくなった。歯の根が合わない。
その時、再び蹄の音が鳴り響いた。
も、馬上の男もそちらを見遣る。
「!」
趙雲だった。
緊張が緩んで、涙が出そうになった。
趙雲は、馬を止める間も惜しいと言わんばかりに飛び降りて、の元に駆け寄ってくる。
「良かった、。探していたんだが、すまなかった」
聞きたいことは山ほどあったが、とにかく今はほっとして言葉が出てこない。うん、うんと何度も頷く。
趙雲は、に怪我がないことを確認して、馬上の男に向き直った。
「貴方が見つけて下さったのか、馬超殿」
は耳を疑った。驚愕のあまり、音という音が消える。趙雲が何か御礼を言っているようなのだが、聞き取れない。
「え、馬超……馬孟起? 西涼の錦の?」
思わず口走って、馬上の男を見上げる。馬上の男―『馬超』もまた、を見ていた。いぶかしげな顔だ。
「……礼を言われるほどのことはしていない。何であれば、人でも呼んでやろうか」
その荷物ではな、と顎をしゃくられ、は身を縮こまらせる。
趙雲は何と言うこともなしに、『では、そのようにお願いしたい』等としゃあしゃあとしている。
馬超は、一瞬むっとしたように眉間に皺を寄せたが、を一瞥して馬頭を返した。
蹄鉄の音も高らかに駆け去る馬超を見送って、ようやくは我に返った。
「ちょ……子龍、何、何なの、これ!」
「落ち着け、」
食って掛かるようなに、趙雲は苦笑いする。
「これが落ち着いて……」
趙雲の手がの背に回る。引き寄せられて、趙雲の胸に抱き締められた。
「会いたかった」
ついさっきまで一緒にいたじゃないか、と言いかけたが、趙雲の手がの体をぐいぐいと巻き締める。あまりの力の強さに、声も出せない。
ふ、と力が緩んで、がほっと息を吐く。上げた視線の先に、趙雲が微笑んでいるのが見えた。
何が何だかさっぱり分からない。
趙雲の顔が近付いてきて、は思わず目を閉じた。
馬というのがこんなに速く走るものとは思わなかった。
趙雲はしっかりと支えてくれているようだが、は恐怖から趙雲にしがみ付いてしまう。
あれからしばらくして、迎えの兵士が馬車付きでやってきた。荷物は彼らに託し、は趙雲に馬上に引っ張り上げられて先行することになったのだ。ちなみに、に選択の余地は与えられなかった。
危ない、と言いつつも趙雲は笑っている。は必死だ。速いだけならともかく、とにかく揺れる。
畜生、と悪態をつきながら、は趙雲から聞いた話を反芻していた。
趙雲がこちらに戻ったのは半月程前だという。戦の最中、崖から転落した趙雲の行方を、蜀の人々はそれこそ必死に探していたらしい。死体も浮かばず、投降したのでは、と嘯く者もいたが、劉備は頑として信じなかった。下は川だったから、怪我をして何処かで動けなくなっているのだと言って、自ら飛び出していこうとする。
慌てたのは周囲の者たちだ。君主自らあちこちうろうろされたのでは、面子もさることながら危険が大き過ぎる。結局、五虎将までもが見回りがてら趙雲の行方を捜すようになり、それでも半年という時が過ぎて、半ば諦めの空気が漂っていた矢先、ひょっこり趙雲が戻ってきたというわけだ。
そこまではいい。
いい話で終わる。
趙雲はこの時代に戻る時、を巻き込んだのだ。
体が不思議な力に引かれ、戻るのだと確信した瞬間、の手を取って引っ張り込んだ。
趙雲自身は、最後の名残にに触れたかったのだと言ってのけたが、手首をがっしり掴まれた感触をは覚えている。
あれは、絶対にを巻き込もうとしたのだ。
趙雲の念願叶って、は三国時代に連れてこられてしまったが、まさか半月という時間差が生まれるとは思わなかったという。荷物が邪魔で、しっかりと掴めなかったからだと、暗にを責める。
何で責められなくちゃいかんのだ。
趙雲の傲慢さに、は不貞腐れていた。が一度として『連れて行って欲しい』と言ったことがあっただろうか。一緒にいたい、とは思ったが、趙雲の時代でなどとは言っていない。
生きていけるだろうか。
趙雲の生きている時代なら、女の価値など家畜と早々変わらない。それがの認識だった。ましてや、この時代、いつ何時、何が起こるか分からない。
帰りたい、と思った。時間軸にいささか狂いが生じているようだが、今帰ればそれほど大層なことにはならないのではないか。
何か思い悩んでいるようなに、趙雲はちら、と思わしげな視線を向けた。
荘厳な建物に連れてこられて、はぽかんと口を開けた。
蜀は貧乏なはずではなかったのか。
派手でこそないが、手の込んだ装飾が柱や欄干を飾っている。何より、この高さの建造物がこの時代にあるのが驚きだ。昔行った、京都の古い建物を髣髴とさせる、重厚な佇まいに、はただただ圧倒された。
趙雲に促されて奥へと進むが、はすっかり飲まれてしまっている。
夕刻の禍々しい赤い空が、の目には自分の行く末を暗示しているように見えて仕方がなかった。
いかにも重たげな扉が観音開きに開かれて、黒い石の敷き詰められた床と赤い敷物が目に飛び込んでくる。
扉の両側には厳しげに立ち並ぶ武将と文官が、一斉にに目を向けてきた。
それだけでもの足が竦む。場違い加減が甚だしい、何故自分はここにいるのだと喚き散らしたいのをぐっと飲み込む。
「」
趙雲の背がの背を押す。
優しく押しているのだろうが、には絞首台に押し出されるようなプレッシャーに感じられた。
「?」
趙雲が訝しげに顔を覗き込んでくるのが分かる。分かるが、極端に狭まった視界はほとんど何も映してくれず、頭の中でわんわんと虫の羽音が響き渡る。
でくの坊のように突っ立っているに、武将や文官たちもざわめきだす。
「殿」
涼やかに響き渡る落ち着いた声が、広間とに落ち着きを取り戻させた。
広間の奥に設えられた、一段高い所にある椅子に腰掛けていた男が立ち上がる。
白面の面に穏やかな微笑み、醸し出す雰囲気が空気を暖かくする。
惹きつけられる。
ぼう、としているを見る趙雲の目が僅かに険しくなった。
「話はすべて趙雲から聞いている……貴女のお陰で、私は大事な部下を失わずに済んだ。私で出来ることなら、何か礼をしたいのだが……」
尊い身分の人なのに、こんなにも気さくにに話しかけてくる。
「わ、私、別にお礼とかは……」
慌てて身を引くに、やはり劉備は穏やかに微笑みかける。
「そうかもしれない、だが、私は是が非でも何かお礼をしたいのだ。何かないだろうか」
「殿、その儀は……」
趙雲が割って入り、この場を収めようとする。
「私はただ、帰れれば……」
一瞬、場がしんと静まり返る。
何かいけないことを言っただろうかと、は慌てて趙雲を振り返る。趙雲の目がゆらりと揺れたように見えた。
え、何、今、子龍が私を避けた……?
横顔はいつもと変わらない。気のせいかとも思ったが、何となく引っかかる。
「……しかし殿…殿には既に身寄りもなく……帰ったところで、家も焼けてないのだろう?」
劉備の言葉にぎょっとする。そういうことになっているらしい。
違いますとも言えず、は唇を噛み締めて俯いた。
趙雲がいったいをどういう風に話しているのか分からない以上、迂闊なことを言えば趙雲自身に疑惑の目が向く。
は、馬上で趙雲が話してくれたこと――投降したのではないかと疑われた――を、聞き逃してはいなかった。
劉備は、俯いて肩を震わせている を何か好意的に解釈してくれたらしい。の手を取ると、申し訳なさそうに己の手でそっと押し包んだ。
「辛いことを思い出させてしまったようだ。どうか、許して欲しい……今日のところは、ゆるりと休まれるが良い。子龍」
手招きして趙雲を呼び寄せると、の肩を押す。
「お前が共に居た方が、殿も何かと気が休まるだろう。そのうち、殿の為に屋敷も整えさせよう。今日のところはお前の屋敷でお世話して差し上げるのだ。良いな」
「はい、殿」
趙雲は劉備に恭しく拱手の礼を取り、を連れて広間を出た。
その後姿を、じっと見つめる者がある。
「子龍」
「後だ、」
広間から出て、人の気配が遠のくと、は溜まらず趙雲に迫った。だが、趙雲はを軽くいなす。
「だって……!」
「後だと言っているだろう、。今は未だまずい、屋敷に戻ってからだ」
唇を噛み締める。趙雲は無表情だ。美しく整った顔が、今は憎たらしくてたまらない。
「子龍!」
「後だ」
「トイレ!」
勢いで二三歩足を進めた趙雲が、踵でブレーキをかけて立ち止まる。
嫌そうな顔をして振り返る趙雲に、は踏ん反り返って胸を張る。ざまをみろ、という気分だったが、趙雲の呆れかえった顔を見ている内に、少し恥ずかしくなった。
趙雲の言うとおりに角を曲がり、無事に生理現象を済ませただったが、出た瞬間、どうやってここまで来たのか分からなくなってしまった。
建物の作りが違うのがいけないのか、言われた道順を思い出しながら逆に辿っていたつもりが、気がつけばすっかり迷子になっていた。
夜になったせいか、人とすれ違うこともない。薄暗い廊下に、壁に作りつけられた灯りがゆらゆらと揺れている。昔の人は闇を恐れたと言うが、電気に慣れたには不必要なほど実感できてしまう。
きょろきょろとしながら歩いていると、不意に暗がりに引き擦り込まれた。
悲鳴を上げる間もない。
そのまま口を塞がれ、軽々と担ぎ上げられて連れ去られる。
人に運ばれている、それもたった一人にだ。足音からしてそのはずなのだが、相手はの重さをまるで感じていないかのように走っている。
どれだけ力持ちなのだ。
がずれたことを考えている間に、急に明るいところに出た。
「馬将軍、どうなさいました」
見張りと思しき男が声を掛けてくる。
馬将軍、ということは、馬超だ。
ぎょっとして無理やり首を捻じ曲げれば、確かに馬超のような気もする。
「火急のことだ、俺がいいと言うまで、誰も通すなよ」
この声は聞き覚えがある。確かに馬超に違いない。しかし、何故だ。
扉が開き、そして閉まる。
馬超は部屋の奥、続きの間へと進み、そこでを腹ばいにして降ろした。
起き上がろうとするの手を取り、あっという間に後ろ手に縛り上げてしまう。
がぎょっとしている間に、足首も戒め、それが終わると縛った手を掴んで引き起こした。手首に痛みが走る。
面と向かえば、やはり馬超だ。怒りを抑えたような顔が、にぐいと迫った。
何なんだ、と呆然としていると、馬超は鼻息を一つ、ふん、と鳴らした。
「開き直ったか……おのれ、ふてぶてしい女だ」
だから、何なんだ。
馬超の手が離れ、はバランスを崩して横倒しに倒れる。支える手は縛られているので、肩から勢い良く落ちてしまった。痛い。
「趙雲は騙せても、俺の目は誤魔化せんぞ」
何が。
馬超はを睨めつけ、仁王立ちに立ちはだかった。と言っても、は寝転がっているから見えるのはせいぜい馬超の足ぐらいなものなのだが。
は混乱しながら、馬超の脛あてをじっと見つめた。