吊るされた男が笑っている。何を思って笑うのか。
 見える景色は逆さまで、ゆらりゆらりと揺れている。
 誰かの手の上で揺れているのではない、それだけが彼の幸い。



 一旦は立ち上がった馬超も、の顔が見えないことに気がついたのか再び胡坐をかいた。
「本当のことを話してもらおうか」
 本当のこと、と聞いて、の目がぎょっと見開かれる。
 の反応にちらりと目を遣り、馬超は我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「正直に話せば、悪いようにはしない。お前は何処の手の者か。魏か? 呉か?」
 魏? 呉? 何だ、何のことを言っている。
 の惑いは深まるばかりだ。
「……まさか、それ以外の? 目的は何だ。何の為に潜入した」
 とんだお門違いだ。
 馬超は、をこともあろうに何処かの勢力の密偵か何かと勘違いしている。所謂、埋伏の毒なのだと思っているらしい。
「わ、私はそんなんじゃ……」
 ない、と最後まで言い切れなかった。馬超の顔が殺気に満ちたからだ。
 馬超の手が、背後に立てかけられた槍に伸びる。初めて出会った時、馬上で手にしていたあの槍だ。
 背中に寒気が走り、鳥肌が立つ。
 文字通り、目と鼻の先に槍の穂先が突き立てられた。勢いで風が巻き上がり、目に冷たい空気が吹き付ける。
 間近にある金属に、体温が奪われていくようだ。鍛えられた刃が人の魂を奪うと言うのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
 目を閉じることも忘れて、まじまじと穂先の刃に見入る。
 銀に光る刃の地はやや泡立ち、それがまた焼きの力強さを思わせる。いっかな鎧とて、この槍を欠けさせることすらできまい…そんなことを思わせる。
 突けば、骨すら簡単に切り裂けそうだ。
 は恐怖から目を離すことも出来ず、顔から血の気をなくしてうずくまっていた。
「言え」
 何を。
 言えと言われても何も言うことはない。は魏の者でも呉の者でもない。語るべき真実など何もない。
 少なくとも、馬超が欲するような秘密など何もなかった。
 が恐怖と戸惑いから口を聞けないでいると、馬超は焦れたように唸り声を上げた。
「強情な。吐かせる手立ては、何もこれだけではないぞ」
 ドラマで聞くような、陳腐な台詞だ。だが、それだけにこの後の展開は容易に想像できた。
 まさか、と思う。
 の知る限り、馬超は正義感溢れる好漢であるはずだ。よもや、身動きの取れない女を手篭めにするような真似はしないだろう。
 その考えが如何に甘いものであるかは、他ならぬ馬超が示した。
 馬超の指がの顎を捉え、無理やり口付ける。
 ぬらりとした何かが唇を割って忍び込み、の口中を蹂躙する。舌だ。驚いて目を開けると、生真面目にも目を閉じた馬超の顔が間近にある。
 睫の長さと、僅かに染まった頬が悩ましい。
 思わず自分にされていることも忘れて見入ってしまう。
 の視線に気がついたのか、馬超の目が薄っすらと開く。
 む、と小さく唸ると、唇を離して本格的に覆い被さってくる。その重みに慌てて体を捻るが、手足を戒められていてはなかなかそれも叶わない。
 首筋に舌を這わされてくすぐったさにもがくが、鎧込みの体重を掛けられていては思うようにならない。
 馬超の指が外耳を掠め、たったそれだけでびくんと腰が撥ねる。元々弱かったらしいそこは、趙雲が触れたことにより更に感度を良くしてしまっていた。
 運の悪いことに、馬超もそれに気がついた。
 身を乗り出すと、歯で外耳を甘く噛む。耳朶を吸われて、腰砕けになりそうになった。
「やっ、やだ、ちょっと!」
 悲鳴を上げてもがくのを、却って面白そうに眺めながら、馬超は舌での耳を蹂躙する。
 戯れに耳の奥に舌を忍び込ませれば、の喉から甘い嬌声が迸った。
「……成程、良い声で啼くものだ。趙雲のような堅物なら、一溜りもなかろう」
 趙雲のいったい何処が堅物なのか、教えて欲しいとは思う。
 初めての女相手に、躊躇なく尻に突っ込む男の何処が堅物なんだよ!
 それどころではないのだが、どうも追い詰められると思考があらぬ所に飛ぶ癖があるようだ。対処できない現実から逃避しているのだろう。
 何とかして馬超から逃れようとするのだが、馬超は馬超での耳にターゲットを絞ったらしい。執拗に嬲ってくる。
「いい目を見たければ、素直に白状するのだな」
 いい加減力が入らなくなってきた頃に、ぼそりと囁かれる。
 のこめかみの辺りで、ぴし、という音が響いた。
 唇が震えるのを馬超が見て、ついに白状するかと耳を寄せる。が。
「いっぺん死んでこぉ―――いっ!」
 出せるだけの大音量で叫ぶ。の叫びを耳元に直撃し、馬超の体がバランスを失う。
 ついでとばかりに海老のように跳ねたに、さすがの馬超も振り落とされてしまった。
 の言葉に傷ついたのか、振り落とされたことに傷ついたのか、ともかく馬超は呆気に取られてを見つめる。
「あんた、あんたね、普段からうっとーしいぐらいに『正義』『正義』言っといて、何! これ! どこのチンピラだ、馬鹿、恥を知りなさい恥を!」
 顔を真っ赤にして喚き立てると、馬超の顔もまた真っ赤になる。
「き……貴様、俺を愚弄する気か!」
 大概もの凄い声量で怒鳴られているのだが、キレたも負けてはいない。
「え、何、じゃあこれは愚弄じゃないの! 行きたいなんて私は一っ言も言ってないのに、いきなり騙し討ちで連れてこられて、訳の分からんままいきなり縛り上げられて、言え言えって何言えっていうのよ、この……この、馬鹿め馬鹿めっ!」
 金切り声に近いの罵声に、馬超が言い返そうとした時だった。
 突然表のほうが騒がしくなり、扉が豪快に開け放たれる。
!」
 趙雲が駆け込んできた。趙雲は、床に転がされたの、着衣の乱れた姿を見て何もかもを察したらしい。
「……馬超殿、これはいったいどのようなおつもりか」
 低い、獣の唸り声のような声を発する趙雲に、馬超も負けじと足を踏ん張る。
「趙雲、お前は騙されているのだ。この女、どこぞの手の者に違いない」
「それは、ない。私が保証する。に限って、それだけはない」
 きっぱりと言い放つ趙雲に、馬超の眉が吊り上がる。
「お前が何を根拠にそのような妄言を吐くのか知らんがな……ならば何故、この女は俺を知っている。お前の話ではこの女、南方と蜀の境にいる田舎者で、こちらのしきたりさえろくに知らぬという話ではなかったか。そうだろう」
 趙雲は鼻白んで馬超を見る。あまりに冷たい視線に、馬超も思わずたじろいだ。
「私が話した」
「何?」
 深々と溜息を吐いて、趙雲は馬超に向き直った。
「私が話したのだ……足が動かなかった故、退屈しのぎに……はそれを覚えていたのだろう。お前がを疑うのは、たったそれだけのことか」
 む、と馬超は口篭った。趙雲は立て続けに言葉を続ける。
「纏う衣も、あの村独自のものだ。縫製も見事、織りの色も豊かで、だからこそ賊に狙われたのだろう。私もまだ怪我が癒え切っていなかったので、を連れて村を後にするのが精一杯だった。しばらくは蜀に向けて連れ立ちながら来たが、慣れぬ土地でを見失って、今日になってようやく見つけることができた……何の疑惑がある」
 趙雲の舌は滑らかで、よくもまあこれだけ嘘八百並べ立てられるものだと感心するほどだった。
「はぐれていたわりに、この女はよくもこれだけ痩せ衰えもせずに、健やかでいたものだな……おかしいと思わんのか」
 馬超は、それでもまだ言い募る。
「思わん。は村から持ち出した織物やその他を持ち合わせていたし、それ相応に賢い女だからな。何とでもしただろう」
「だが」
 馬超の目は、底に爛々とした光を秘めて趙雲を見遣る。
「だが、この女は嘘をついている」
 確信めいた言葉は、確かに真実だ。
「何処にその証がある」
 しかし趙雲は、あっさりと一蹴する。
 重苦しい空気が場を支配した。
 趙雲は立ち尽くす馬超に見切りをつけ、の元に歩み寄った。を戒める縄を解き、の体を自由にする。
 は無言のまま手首をさすりつつ起き上がり、やはり無言のままそばにあった卓に向かう。
 二人がの行動をいぶかしく見守っていると、は卓の上に積まれていた書簡の束を両手で掴み上げた。
「死んじまえ、お前らはもう、いつもいつもっ!」
 趙雲と馬超に向けて、丸められた書簡や硯などが手当たり次第に投げつけられる。

 物凄い勢いで投げつけられるもので、書簡を避けきれなかった馬超が痛みに小さく悲鳴を上げる。
 山と積まれた書簡がなくなると、今度は卓を投げつけようとさえする。重量のある卓は、さすがに持ち上がりこそしなかったが、ずるずると引き摺られる卓に、が本気で投げつけようとしているのが見て取れた。

 隙を狙って趙雲がを羽交い絞めにする。
 それでようやく卓から手を離したは、じたばたと暴れて趙雲の腕の中から逃げ出す。そのまま踵を返し、馬超の横をすり抜けようとした時、後ろから伸びてきた趙雲の手がの二の腕を掴んだ。
 無言で趙雲の手を払おうとするだったが、趙雲もあらん限りの力での腕を押さえに掛かる。
「離してよ、帰るんだから!」
!」
 叱咤するような趙雲にも、はまったく怯まない。
「もうやだ、こんなとこ! 帰る! 帰るったら!」
「帰さない」
 趙雲の声が冷たく冷めていく。いつものなら、この時点で折れていたはずだ。だが、頭に血が上ったはびくともしない。
 そして、馬超の知る趙雲であれば、浅く笑って譲歩案をいくらでも提示して、相手を懐柔してしまうのが常だった。策こそ用いることはないが、その人当たりの良さと、整った美貌を備えての柔らかな物言いに逆らえる者は早々いなかったのだから。
 それが、この男にこれだけの激情が秘められていたのかと驚くばかりの激しさで、遮二無二暴れるを腕に閉じ込め、ただただ『帰さない』の一点張りで説き伏せようとしている。
 物を言うのも忘れ、呆然と二人を見ているだけの馬超を、突然の鋭い視線が射抜いた。
 そして馬超は、の目からぼろぼろと涙が零れだした瞬間を見ることになる。
 思わず手を伸ばしかけると、今度は趙雲の鋭い声が馬超を射抜いた。
「馬超」
 呼び捨てにされたこともうっかり見過ごしてしまう。心臓を貫かれてしまったような気がして、に伸ばしかけた手で胸を押さえる。
「後日、改めて説明する。今日のところは、も疲れて気が立っている……連れて帰らせて欲しい」
「何処へ」
 趙雲の言葉に、過敏にが反応する。
「……私の屋敷だ。殿に、そう言われただろう」
「嫌」
 言葉の一音一音にするどい棘がある。趙雲の眉が、そして当事者ではない馬超の眉さえも顰められた。
「私は、私の家に帰る。離して」
 の唇が、わなわなと震えている。顔面は、既に白を越して青くさえ見える。
 どうしたものか、と馬超が他人事ながらうろたえていると、趙雲はの体を肩に担ぎ上げた。
「……っ、離して、降ろしてよ! 降ろせ!」
 暴れるに、馬超が一歩足を踏み出した瞬間、再び趙雲の鋭い視線が馬超を縫い付けた。
「……では、後日、改めて」
 冷ややかな声に、馬超は返事も出来ずに立ち竦む。
 暴れるの声が徐々に遠くなり、扉に遮られ、やがて聞こえなくなった。
 そうして初めて、馬超はほっと息を吐いた。
 あの趙雲を、あそこまで変えてしまったとは、何者なのか。
 馬超は額に浮いた汗を拭いながら、何とはなしにの涙を思い返していた。

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