死神は魂を刈り取る。
 死を与えるためではなく、生を与えるために。
 正しき道を往く者だけを選別する者。



 馬超はの秘密を知った。
 無論、初めは信じられなかった。
 だが、が荷物の中から真っ白い紙を取り出し、硝子のように透き通る筆で何か書き付けるのを見た。墨ではない、何か粉っぽい濃い灰色の細い線は、が別に取り出した白い石のようなものを擦り付けると、まるで妖術のように消え失せた。
 驚愕を隠せずに唸る馬超に、はげらげらと笑ったものだ。
 下品な女だと思った。
 趙雲のことは字で呼び捨てるし、何時の間にか馬超のことも字で呼び捨てになっていた。
 人前では、顰めつらしく『孟起サマ』などと呼びへつらうくせに、誰もいない所では偉そうに『孟起、孟起』と呼び捨てる。
 不思議なことに、は見知らぬ人間には警戒心を露にするくせに、一度馴染んでしまうと馴れ馴れしいほどに気さくだった。
 劉備が屋敷を用意させようとした時も、『無駄だから』と一蹴するが如く断ってしまった。そのくせ、劉備に対してどうして無駄なのかを理詰めで懇々と説き伏せ、劉備が納得した途端、平伏せんばかりに謝辞と詫びを入れる。
 訳が分からない、というのが蜀の人々のに対する共通の認識だった。
 張飛の娘、星彩に紹介された時など、『ああ! 無双!』と突然叫んで、周囲を驚かせたものだ。
 普段は冷静な星彩が、じと目でを見つめていたことからして、かなりの大物の予感を彷彿とさせた。
 突飛な割りに頭は良い。諸葛亮と、如何に軍師がに合わせているとは言え、会話を弾ませることが出来るというのが驚きだ。
 魏延と並んで腰掛けて話をしていたり、関平に似顔絵を描いてみせたり(ずいぶんと斬新な手法だったようだが)、どう言い表したものか、ともかく変わり者は変わり者なりに蜀に馴染んでいたのだ。
 だが、が字で呼び捨てるのは、趙雲と馬超の二人のみだった。

 が初めて蜀にやって来た時、馬超はに疑いを抱いて責めた。
 ほぼ、直感のみでの行動だった。
 翌日、趙雲に呼び出されて、直感は正しかったものの、筋違いも甚だしかったのだと知った時の馬超の焦りは筆舌に尽くし難い。
 如何にして詫びるべきか思い悩んでいると、が突然頭を下げた。
「ごめんなさい」
 何を謝ることがあるのか。
 驚く馬超の言葉に、は顎をかきながら唸った。
「……うーん、ほら、初めて会った時に怪しげな態度を取ったのが、そもそもの原因でしょう……だから、かなぁ」
 かな、とは何だ、かな、とは。
「でも、あの後のやり口は正義の武将として如何なもんでしょうか」
 強く謝罪と反省を求めますと、てしてしと卓を叩かれて、馬超は渋々と謝った。
 の背後で、趙雲が苦く笑っていた。
 二人とも目が赤い。
 何があったのか、馬超には分からない。
 趙雲がを説き伏せたのだと、それだけは分かったが、馬超とて何もが憎くて責めたのではない。趙雲のいない間に馬超が敵軍から招きいれた副将が、劉備の命を狙ってあわや、ということがあったばかりだったのだ。馬超が見知らぬ人間を異様に警戒をするのは当たり前のことだったし、それを伝え聞いていた趙雲が、の秘密を馬超に打ち明けたのはそのことを踏まえての上だった。
 それ以来、馬超はと、傍目にはだったが、親しくしている。
 は時折、趙雲に連れられて城に登城した。
 気が向けば馬超の屋敷にもやって来る。一人で突然やって来て、門番に『馬超殿はいらっしゃいますかー』と能天気に話しかけたというから、思いやられる。
 格好が格好なので、は非常に目立つ存在だった。
 何処に居てもそれと知れる。
 自身は目立っていないつもりのようだが、馬超から言わせるととんでもない話だ。
 その上、の行動は突飛だ。
 突然馬超のところにやって来て、武術を習いたいと言う。
「別に、孟起に教えてもらわなくてもいいんだ。教えてくれる人、紹介してくれない?」
 何故、と問うと、趙雲には断られたからだと言う。
「そうではなくて、何故武術を習いたいなどと思う」
 んにゃー、と不思議な呻き声を上げて、は天を仰いだ。
 馬超も釣られて天を仰ぐ。
 薄く雲のかかった、深く青い空だ。何と言うこともない。
「……自分のことは、自分でできるようにしたいから、かなぁ」
 また、『かな』だ。自分の意思に、何故『かな』がつくのか馬超には分からない。
 何なんだ、この女は。
 紹介しろと言われても、蜀に馴染みきったとは言い難い馬超には、心当たりが浮かばなかった。なし崩しに、馬超がの武術の師となった。
 ほぼ毎日、は馬超の屋敷を訪れた。
 束の間の平和とは言え、武将にやる事がないわけではない。
 がやって来たのをこれ幸いと筆を置いた馬超が、従弟の馬岱に見つかって叱り飛ばされた時、何故かが見張り役としてそばに置かれてしまった。
 渋々と筆を走らせる馬超を退屈そうに見ていたが、例の白い紙を綴ったものと透き通る筆を取り出した。
 何か書き付けている。しかも、時折馬超の顔をちらちらと見ながらだ。
 気になって、の手元を覗き込むと、どうも馬超の似顔絵を描いていたらしい。
 劉備などは大層喜んだと聞いていたが、自分の番になってみると何か不思議な感じがする。尻の座りが悪いような感じだ。
「俺は、こんな顔をしているのか?」
 は似顔絵と馬超を見比べる。
 うーんと唸って、首を傾げた。
「実物の方が、かっこいい感じだねぇ」
 褒めているのか貶しているのか分からない。何だか面映くなって、言葉を失った。
 似顔絵をちょいちょいと弄っていたが、ふと顔を上げて馬超を見つめる。
「……何だ、何かついているか」
 誤魔化すようにぶっきらぼうに言い捨てると、は凹みもせずに首を傾げる。
「目と鼻はついてるけど……孟起、顔が赤いよ。風邪?」
 言うなり手を伸ばそうとするので、慌てて身を引く。
 が怪訝な顔をするので、尚更頬が熱くなる。
「……体は何ともない。いちいち突っかかってくるな」
 突っかかっているのはむしろ馬超の方なのだが、は気にした風でもない。
「でも、孟起はお父さんも家族もみんな、死んじゃってるんでしょう」
 が何気なく切り出した言葉に、馬超は息を飲む。
 怒りと憎しみと、悲しみと後悔が綯い交ぜになって一気に膨れ上がる。
 触れて欲しくない、触れてはいけない傷だった。忘れたことにして、置き去りにしてきた傷だった。
 何故が知っている。誰かがに告げたのか。
 趙雲か。
 劉備か。
 それとも他の誰かか。
 築き上げたと信じていた信頼が、音を立てて崩れていくような気がした。
「だから、孟起は生きなくちゃいけないよ」
 真っ暗になった視界に、ぽつんと白い雪が落ちるように、の言葉が落ちてきた。
「人間て、みんないつかは死ぬもんじゃない? だけどさ、命は託していくもんだからさ。孟起がお父さんや他の人からもらった命は、今度は孟起が誰かに託していかないと駄目だよね。それで精一杯生きないと。諦めたりしたら、駄目なんだよ」
 だから、病気すんなと勝手に纏めて、は再び紙に向かう。
「……なんだ、それは」
 如何いう意味だと問うたつもりだったが、には通じなかったらしい。
「何だってあんた、日本海軍なんか『艦長は艦と命運を共にすべし』とか言っちゃって、艦が沈むたびに有能な艦長が死んじゃうもんだから、大変だったらしいよ? 蜀はただでさえ人手足りないんだから、あんた健康管理には気を配りなさい。好き嫌いしたらいかん。塩気と酒は控えなさい」
 話がどんどんかっ飛んでいく。
 諸葛亮辺りは、よくと話ができるものだ。感心する。
 あー、駄目だうまく描けないと言いながら、は綴りから紙を一枚破って、手の平でくしゃくしゃに丸めて投げた。
「……うん、でも、単にあれだ、置いていかれたくないだけかもしんない。置いていかれるの、ツライ。淋しいよ」
 自主錬してくる、と聞き慣れない言葉を残し、はそのまま飛び出していった。
「おい……」
 散らかすな、と言いかけて、当の本人がいなくなってから文句を言うことの虚しさに気付き、代わりに盛大に溜息を吐いた。
 何を言い出すやら、さっぱり分からない。
 丸めた紙を拾い上げ、丁寧に広げる。
 細い線を何度も重ねて描き出された人の顔が現れた。
 馬超は絵を見ながら、自分の顔の線を辿る。
「……こんな顔なのか……?」
 よく分からない。
 濃淡の具合なのか、淋しげな表情に見える。勇猛果敢で鳴らした西涼の錦・馬超の名とは、どうしても馴染まなかった。
 そのまま放り出す。
 まったく持っておかしな女だ。
 あの時は、涙をぼろぼろ流して泣いていたくせに、偉そうに薀蓄語れる立場だと思っているのか。

 変な女のくせに。
 年上とは思えないくらい、妙に子供っぽいくせに。
 馬超自ら武術を教えてやっていると言うのに、ちっとも上達しないくせに。
 敏いかと思えば、妙に鈍いくせに。
 気付いてないくせに。

 そこまで考えて、ふと、何に、と考える。
 何に、気付いてないと?
 と話をする趙雲の目を思い出す。
 以前と何一つ変わっていない。そう見える。
 だが、何人かは気がついているはずだ。趙雲は、変わった、と。
 穏やかな面に隠された激情が緩んだ。戦場で見せる激しさが、炎のような猛悪から水のような清冽に変わった。
 得たいものが出来たからだ。
 守りたいものが出来たからだ。
 もし、趙雲ではなく、自分が先にに出会っていたなら、どうなっていたのだろうか。
 馬超は、降って沸いたような妄想に慌てて頭を振る。
 何を考えているのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい、と考えて、卓に戻ると筆を取る。しかし、いい文面が思い浮かばず、すぐに筆を下ろしてしまった。
 肘をついて手持ち無沙汰に辺りを見回す。放り投げたの紙が落ちているのが見えた。
 別に興味などない。
 ないが、あんなに薄くて真っ白な紙は早々ないのだから、もったいない気がした。
 拾い上げてから、繁々と眺める。
 辺りを見回す。
 人気がないのを確認して、馬超はその紙をこっそりと手文庫の底に仕舞いこんだ。

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