そっとそっと、零れないように。
 細心の注意を払って、水差しの水が溢れないように。
 零れた水は戻らない。溢れた水は返らない。



 がこの世界に来てから、それなりに時が過ぎた。
 カレンダーを見ていないので何とも言えないが、だいたい三ヶ月くらいと言ったところか。
 そろそろいい加減に飽きてきた。
 何もしないのだ。というより、やらせてもらえない。
 趙雲の屋敷に連れ帰られて、一晩中膝の上であやされて、夜も白々と明けようと言う頃、それまで無言だった趙雲が突然切り出した。
「蜀は、殿を始め志を同じくする方々と共に建て、慈しんだ国だ」
 それはも知っている。どれだけ苦労したのか、察すると言う言葉を使うのもおこがましい。
が、どうしても、帰りたいと言うのなら」
 趙雲の腕がを抱き込む。
「私は……」
 の指が、意思よりも早く趙雲の唇に触れた。
 言わせてはいけないと思った。
 それだけは、趙雲には言わせてはいけない。何の為に帰したのか分からない。
 一晩たって、の頭が冷えたこともある。
 怒りが引けば、趙雲への愛おしさが勝った。
 趙雲のためなら、我慢しよう、と思ったのだ。
 だが。
 を探す為に嘘を突き通した趙雲は、恐らくすべてを見通していただろう諸葛亮に、連日山のような業務を言いつけられていた。のところで武術の腕が鈍っていたこともあるのだろう、趙雲は僅かに空いた時間は己の鍛錬に回しているようで、食事も外で済ませてくる。
 朝は夜明け前に屋敷を出、帰って来るのは月も沈もうかと言う夜中だ。
 は室を与えられなかった。趙雲の室で寝起きを共にしている。
 の世界では夫婦は同じ室で過ごすものだろうと趙雲が言い出し、誰が夫婦かと軽く諍った後、結局慣れぬ風習で大変だからという理由でが折れた。
 つまらないことを覚えているものだ。趙雲の記憶力は侮りがたい。
 それはともかく、夜に趙雲の帰りを待つのはまだしも、現代人のには夜明け前に起き出すと言う、ただそれだけのことが堪える。と言うか、正直とても出来ない。
 月に一度あるかないかのイベントであればともかく、毎日のことなのだ。
 家人の者たちは、当然のように寝坊するに対していい感情を持てないらしく、もその空気を感じて微妙に打ち解けられずにいた。
 ひょっとしたら、端からいい感情を持っていなかったのかもしれない。
 身の回りが落ち着いて、暇つぶしに掃除でもしようかと、通りすがりの家人に掃除道具を貸してくれと頼んだことがあった。
 が言うなり、金切り声で怒鳴られたものだ。
『まぁ、さまは私どもの仕事を取り上げるおつもりですか!』
 少々ヒステリックだな、とも思ったのだが、そんなものかもしれないと詫びをいれ、その場は一応収まった。
 しばらくして、やはりやることがないが、下着くらいは自分で洗うかと桶を頼んだ。
さま、私たちがさまのお召し物を盗っているとでも仰るのですか! あんまりでございます!』
 ここら辺から、いくら何でもヒスが過ぎやしないかと思い始めた。
 星彩に会って、どうやらここは歴史上の、というよりはゲームである無双の世界の蜀なのだと分かった。ならば女性の扱いも、が心配するほどには酷くないかもしれないと思っていたのだが、予想以上に女性の力が強かったのだ。
 趙雲自身は特に良家の出身と言うわけではない。支障がなければいいと言うくらいの大雑把さが家人にも染み付いているらしく、家事を賄う女性陣は組織立っていて、よそ者のにやたらと攻撃的なのだ。しかも女性だけあって、というのは偏見かもしれないが、何とも陰湿で遠回りな嫌がらせをしてくる。
 が通りすがるのを気にしていないのかもしれないが、あちらこちらでひそひそと陰口を叩くことなど日常茶飯事で、が何か尋ねれば『こんなことも知らないのか』と呆れられ、が何かを頼めば『こんな無茶難題を言いつけられた』と仲間に大声で喚き散らし、が何処かに出かければ『いいご身分だ』と難癖つけられる。
 趙雲にほのかな憧れがあったのかもしれない。いい年してずっと独り身を通していたと言うから、何がしか期待する向きがあってもおかしくはないだろう。
 そんな折、が来て一気にバランスが崩れた。
 行方不明だった趙雲は、家人が涙にくれている間にまんまとに篭絡されてしまい、はしたなくも人前でに触れ、室まで共にし、に入れあげている。
 表向きの趙雲は、誰に対しても公正明大、丁寧で礼儀正しいらしかった。にはぴんと来なかったが。
 ようやく打ち解けた、庭の手入れをしている老人の話ではそんな感じだった。
 この屋敷では、はまるで悪の権化のように思われているのだ。
 そんな次第で、趙雲の屋敷は非常に居心地が悪い。
 が、だが、めげるまいと憂鬱な溜息を吐いている折、更に追加弾が撃ち込まれる。
 趙雲の副官だ。
 彼女は―というからにはもちろん女性なのだが―兵卒からの生え抜きで、武術の腕もさることながら計略にも通じていて、しかも美人と言う非の打ち所のない人物なのだ。
 から見れば、うらやましいとか妬ましいとしか思えないのだが、どうもお約束と言うか、趙雲に惚れていたらしくに対する視線がきつい。
 美人の険のある視線ほど恐ろしいものはない。
 登城した際に何度か会ったことがあるが、趙雲には微笑しか見せないくせに、にはあからさまに敵意を燃やす。趙雲と一緒に居ても、何だかんだと用事を見つけてきては、趙雲を連れて行ってしまう。
 お陰で他の武将と話をする機会にも恵まれているのだが、やはりいい気分はしない。
 一度、趙雲が帰ってこないことがあった。
 夜明け近くまで起きて待っていたのだが、何時の間にか寝てしまっていた。
 ごそごそという物音に目が覚めて、手櫛で髪を整えながら続きの間に入ると、件の副官が趙雲の卓を漁っている。
 が見ていると、冷たい視線を送って寄越しながら『今お目覚めになったのですか』と声を掛けてきた。
 その前に、人が居る部屋に入ってきておいて何か言うことはないのかなぁと思いつつ、はぁ、まぁといい加減に返事する。と、更に険しい視線でを見つめる。ぷいと逸らすと、無言で探索を再開する。
 何かお探しですかと声を掛けると、趙将軍が必要な竹簡をこちらに置いてきたと仰って、私をお寄越しになったのです、とつっけんどんに返事が返ってくる。
 私を、と強調するのが何だか子供っぽい。年も若そうだから当たり前かと考えていたとき、趙雲が寝間に持ち込んだ竹簡があったのを思い出した。
 寝間に戻って竹簡を探しあて、副官にもしかしてこれですかと差し出すと、ひったくるように取り上げられた。
 中を確認すると、これです、と短く返事して竹簡を元通りに巻き直す。
 そのまま出て行こうとするので、お礼は、と言うと、振り向きざまにきっと睨んできた。
 余計なことを言ってしまったと肩を竦めると、唇を震わせながら『有難うございました』と吐き捨て、わっと泣きながら飛び出していってしまった。
 どっと疲れて、もう一眠りしようかと寝間に戻りかけると、『お目覚めですか、もうお昼でございますが』と家人が声を掛けてくる。
 ああ、もう。
 の方がよっぽど泣きたかったのだ。
 泣かなかったが。

 趙雲が戻ってくる。
 案の定夜もかなり更けてからの帰宅で、食事は済ませてきたと言う。
 強請るように口付けられて、大人しく受け止める。
 湯浴みを済ませた体に薄いパジャマの上一枚で、膝から下は丸見えだ。サイズが大きいから、肩が落ちて幼い印象を与える。余った袖の部分を緩く折り曲げているので、なおさらそう見えた。
「……これは、私に買ってくれたのではなかったのか?」
 不満たらしげに趙雲がパジャマの襟を摘む。
「いいじゃん、子龍、着ないでしょ」
「着ないと言うわけでは……」
 がこちらの寝巻きで寝ると、朝起きたときに前が思い切り開いていたりして嫌なのだ。確かに趙雲にと思って買ったものだが、別にが着てはいけないというわけでもない。
 の腰に趙雲の手が回り、寝台に寝かしつけられる。
 趙雲は寝巻きに着替えると、の隣に滑り込む。
 の背に手を回し、抱き寄せ、そして……。
 もう寝たわ、早いなぁ。
 規則正しい寝息が間近に響き、は溜息を吐いた。
 いい気なもんだな、この野郎。
 腕はを逃さぬように抱き留めているが、にはこれが苦痛だ。
 趙雲の顔が近い。吐息まで、頬に触れる。何より、趙雲の匂いがを欲情させる。
 蛇の生殺しって奴だよねぇ……。
 普通は男が使う言葉なんじゃないのかと、情けなくなってくる。
 こちらの世界に来てから、趙雲とは毎晩のように床を共にしているが、一度も交渉に及んだことはない。
 は、本来の意味で言うならば未だに処女なのだ。だが、体は既に反応するようになってしまっている。
 趙雲の体温に反応した体が熱くなって、たまらなくなってくる。
 焦れて、せめてと趙雲の腕から逃れようと身動ぎすれば、途端に趙雲の腕に力が篭って引き寄せられる。
 起きた様子もないのに趙雲の唇がの唇を塞ぎ、柔らかく探ってくる。
 しばらくただ合わせるだけの口付けが続き、ゆるゆると力が抜け唇が外れる。
 再び規則正しい寝息が響く。
 うわぁ、もう。
 逃げることも熱を冷ますことも許されない。
 正直に言うと、これが一番ツライ。
 煽れるだけ煽ってくるくせに、無意識ときた。
 泣ぁきてー……。
 胸の中でふざけて言ってみるが、泣いて何とかなるものなら本当に泣きたい。
 下着が濡れていく感触が気持ち悪い。
 よく濡れると言うことは、する時にはいいかもしれないが、こんな時には不便なばかりだ。
 は趙雲の腕の中で、数式を思い浮かべたり般若信教の頭だけを諳んじてみたりして、眠れない夜と熱くなる体を律しようと無駄な努力を繰り返した。

←戻る ・ 進む→

TAROT INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →