塔の上にはお姫様。
 塔の下には彼女の王子が、両手を掲げて待っている。
 塔が崩れて落ちる前に、姫が王子に気がつきますように。



 馬岱が桶を持って馬超の室を訪れた時、は片方の手を天に向けて高々と掲げ、何事か訴えているような姿をしているように見えた。
 馬岱の姿を見て、がぎょっとして振り返る。
 よくよく見れば、の片手は何か白っぽい粘液で汚れている。どうもその粘液を床に落とさないよう、手を高いところに挙げているらしかった。
 馬岱はに桶を渡し、手をすすぐよう勧めると、馬超を手招きして共に室の外に出て行った。
 とんでもないところを見られて、は恥辱に顔を赤くしていた。
 ばれただろうか。察しのいい馬岱のことだから、きっとばれただろう。
 泣いて忘れられるものなら、体中の水分を涙にしたって構わない。
 手をばしゃばしゃとゆすぎながら、は果てしなく落ち込んでいった。
殿」
 馬岱が戻ってきたが、馬超の姿が見えない。
「室を用意させましたので、今宵はそこでお休み下さい。私にはせいぜい、中から鍵を掛けられる室を用意することぐらいしか出来ませんが」
 察しが良過ぎる。
 が顔を赤くして廊下に出ると、馬超が壁に背を預けてしゃがみこんでいるのを見て、ぎょっとする。
「……もう一つ出来るとしたら、従兄上の隙を突いて脾腹を打つぐらいのもので」
 いや、それでもう充分なのではないだろうか。

 馬超が気絶している隙に、馬岱からあれやこれやと指示されて、は用意された室に向かった。
 その後姿を見送り、きちんと鍵が掛かったことを確認すると、馬岱は馬の準備を家人に言いつけ、自分は身支度をするために自室に戻っていった。
 寝台の上によじ登り、冷たく冷えた敷布の真ん中に座る。
 は、改めて自分が何故馬超の屋敷にたびたび足を運ぶのか知らしめられたような気がした。
 居心地が良いのだ。
 ここの家人は、気のいい仲間を歓待するようにを出迎える。それでいて、どこかぴしりと家人としての一線を弁えていて、決してその線を越えようとはしない。
 落ち着ける喫茶店を見つけたような感覚に近い。
 馬超が短気だということもあったろうが、むしろ馬岱のしつけが良いのだろうと推測された。
 小腹が空いた気がして、寝台から立ち上がると、ちょうど扉を叩く者がある。
 馬超だったら決して開けるなと言われていたので、はびくっと身を竦めた。
さま、さま」
 潜めた声は、馬岱の側仕えの者の声だ。
 ほっとして開けると、簡単な食事を載せた盆と、大きなたらいや熱い湯の入った甕を掲げた男たちが入ってきた。
「不躾で相すみませんが、馬超様に見つからぬようと厳命されておりますので。湯浴みをなさったら、たらいはそのままに、お食事は気の向いた時に召し上がって下さいませ。今宵、これ以降は伺いませぬ故」
 気になって馬超のことを尋ねると、他の家人が部屋に運んだので心配ないという。
「馬超様が私共を脅してさまに鍵を開けさせぬとも限りませんので、合言葉を決めさせて下さいませ」
 なるべく分かりにくいように、最初に『ごめん下さいませ』とつけたら開けて下さいませ、それ以外は馬超様が横にいらっしゃると思い、お開け下さいませんようと続ける。
 何処まで気が回る家なんだろう、とは少し眩暈を覚えた。

 趙雲が疲れた体を引き摺るように馬に乗せ、屋敷に戻ると、普段は物静かな門前の辺りが何故か騒がしい。
 馬の腹を蹴り、急ぎ駆けつけると馬岱が馬上で待機していた。
「お戻りですか」
 静かな声だったが、僅かに苛立ちに似たものを感じる。
 家人に命じて馬岱を屋敷内に招きいれようとするが、馬岱は静かに趙雲を制した。
「いえ、このままで結構です。趙雲殿、殿は、しばらくの間当屋敷にてお預かりいたしますと、そのご連絡に伺ったまでで」
「……何?」
 どうしてそういうことになるのか。馬岱相手だというのに、思わず素に戻ってしまった。
「趙雲殿、私は従兄上がどう言おうと、殿は趙雲殿のところにお返しするべきだと思っておりました。今宵一晩と、そう申し上げるつもりで伺いましたが、気が変わりました」
 従兄上と言うと、馬超のことだろう。だが、それととどういう関わりがあるというのだ。
 馬超がに好意を抱いていることはわかっていた。だが、それが表に出すほど激しいものではないと見切ってもいた。だから、が馬超のところに出向くのも無言で許していたのだ。
 である限り、馬超がに手を出すとは考えられなかった。
 趙雲の胸の内を知ってか知らずか、馬岱は淡々と言葉を重ねた。
「趙雲殿が 殿を大切になさっていると思えばこそ、お返しするべきだと思っておりました。ですが、そうではないのが良く分かり申しました。こうなれば、私は従兄上のために尽力する覚悟です。左様、お心にお留め下さい」
「お待ち下さい、それは聞き捨てならない。私が、いつを粗末に扱ったと仰るのか」
「ずっとです。殿がこちらの屋敷にいらしてから、今日までずっとのことです」
 趙雲は再び礼を忘れて言葉を失った。
「……それは……どういう……」
「お分かりになりませんか。ならば申し上げましょう。私がこちらに伺ったのは、日が暮れて少しの頃です。主の居ない屋敷に他人を入れぬ用心さは、なるほど感心いたします。ですが、用事を承る家人が、殿の名を出しただけで、私のような訪問者の前で眉を顰める。その不躾さは如何なものですか」
 趙雲には言葉もない。
「また、主の帰る時間も知り申さなければ、主に馬岱が尋ねてきたと報せに走るわけでもない。延々とただ馬上にて訪問者を待たせる、その無作法さは如何なものでしょうか」
 馬岱の声は静かだが、雄弁だった。
「せめても門前にて主を待ち受け、馬岱が参った、これこれこういう用事であると申し出るならともかく、亀の子の如く敷地に引き篭もり、挙句に薄らぼんやりと立ち尽くす。私が突然剣を抜き、屋敷内に躍り込んだら如何するつもりなのです。まったく持って、何から何まで」
 なっていない。
 馬岱の言葉は辛辣だ。だが、すべて事実なだけに趙雲には言葉もない。
 居合わせた家人たちは、おろおろと落ち着きなくその場を右往左往する。奥から出てきた家人たちも、すべて同じようにおたつくばかりだった。
 その家人たちに冷たく一瞥くれてから、馬岱は趙雲に向き直った。
「このような家人を育てられたのは、他ならぬ趙雲殿です。家人が殿を如何に粗末に扱っておられるか、私は今宵の僅かな時間で骨身に沁みて分かり申しました。家人の不始末は、趙雲殿の不始末です。ですから、私は殿の方寸を従兄上で満たすべく、あらゆる手立てを尽くすつもりです」
 では、ご無礼、と言い捨てて馬岱は立ち去ろうとする。
は、」
 やっと振り絞るという声だった。趙雲にしては珍しい。
 馬岱は馬の歩みを止める。
も、そのように……と?」
殿は、ご承知ではありません。申し上げたとおり、私は手立てを尽くして殿のお気持ちを変えるつもりですので、それもたいしたことではありません」
 慇懃無礼の言葉通り、馬岱の言葉遣いは丁寧だが、言っていることは無茶苦茶だ。
 普段の趙雲であれば、軽くいなせたかもしれない。だが、疲労が溜まり、判断力の鈍ったところへ突然の挑戦じみた馬岱の言葉、趙雲は軽く混乱していた。
殿が取り乱した時、従兄上もまた取り乱しておりました。私が思っていたよりもずっと、従兄上は殿に想いを傾けていたようです。ですから趙雲殿、殿のことはどうか従兄上と私共にお任せ下さい。必ず、こちらにいらっしゃる時よりもお幸せにしてみせます。それだけは、どうぞご信頼いただきたい」
 それきり、馬岱は馬首を返して振り返りもしなかった。
 呆然と見送る趙雲の前で、門番が魔物を追い出すように慌てて門を閉めた。
「……何……?」
 溢れ出たような言葉は、当然の如く疑問の言葉だった。
 朝までは、は確かにいつも通りで、夜明け前には屋敷を出る趙雲を尻目によく眠っていた。頬にかかった細い髪を払ってやると、くすぐったそうに身動ぎしたものだ。
 だが。
 そういえば。
 此処数ヶ月、趙雲がいない時、は屋敷で何をしていたのだろう。
 の家に居た時、は退屈だろうと言って、テレビの見方を教えてくれた。音楽の聴き方を教えてくれた。聞けば何でも教えてくれた。時々教えてくれなかったが、大概のことは教えてくれた。
 は、明るく振舞う女だった。さばさばして、妙に女らしくないところもはしたないところもあったが、道化師じみたその所作、言葉は趙雲を暗くする暇を与えなかった。
 そういえば。
 笑っていない。
 の笑い顔を見ていない。
 ずっと、薄く微笑む顔だけで。
 何時から。
 考えても、ぞっとするほど思い出せなかった。

 馬岱は密かにの室の扉を叩く。
 幸いまだ起きていたようで、すぐに応えがあった。
 中から鍵を開けようとしているのを制して、趙雲に外泊する旨伝えたことを言うと、中からほっと安堵する溜息が聞こえた。
「それからですね、殿」
「あ、はいはい」
 何か考え事をしている風なに、とりあえず伝えておこうと声を掛ける。
「もう、帰しませんので、そのおつもりで」
「……何ですと?」
 馬岱は、のこういう緊張感のない言葉の選び方が気に入っていた。従兄上と会話させたら、さぞや楽しかろうと思う。
「帰れないように、外からも鍵を掛けますので。……はい、掛けましたから。では、また明日」
 一瞬の沈黙の後、聞くに堪えない悲鳴と怒号の入り混じった叫び声が響く。中から扉をがたがた揺すっているが、扉には極太のかんぬきが掛けられているので、開くはずもない。
「あんまり騒ぐと、従兄上に見つかりますよ」
 もうあんなこと嫌でしょう、それとも、お望みなら連れて参りますが、と声を掛けると、ぴたりと静かになった。
 馬岱はに気付かれぬよう声もなく笑い、良い夢をと言い捨てその場を去った。
 は、馬家で囚われの身となった。

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