星に祈りを。
 どんなにもがいても叶わない望みの為に。
 誰かが叶えてくれないかと、涙を流しながら。



 馬超(正しくは馬岱)の元で軟禁されて、幾日か経った。
 窓から外に出ようかと思ったこともあったが、足場もなくまた意外に高さがあって断念せざるを得なかった。
 居心地は良い。
 決まった時間に食事、白湯だお茶だ菓子だと運び入れる家人は、退屈ではありませんかと世間話をしていってくれたりもする。窓からは整えられた庭園が一望でき、時折違う庭で咲いていたと花が生けられて届いた。
 人というものはわがままなものだ。
 良くしてもらっているのに、足りないものに目がいってしまう。
 趙雲は、どうしているだろうか。
 は窓枠に頭を乗せ、ぼんやりと考えに耽っていた。
 悲しいかな、趙雲に会いたいとか、会えなくて切ないとかはあまり思わなかった。
 趙雲が戻って、独りで家に居たならば、恋しくてたまらなくなったのかもしれない。あるいは、趙雲と共にこの世界に来て、甘い一言でも囁かれていたなら、覚悟が決まったかもしれない。
 だが、実際は趙雲の帰還に巻き込まれ、どたばたしながらうやむやの内にことは進み、気がついたらストレス貯めるだけ貯めてキレる寸前だったのだ。
 は趙雲の言葉を思い返す。
が、どうしても、帰りたいと言うのなら』『私は……』
 一緒に帰る、と言うのだと思った。しかし、本当にそうなのだろうか。よくよく考えると、『諦める』と続いたって一向に構わない台詞なのだ。
 そして思うに、趙雲から告白されたことはないのだ。
 いや、夫婦は、とか会いたかった、とかいう言葉は聞いているのだから、趙雲がを何とも思っていないと言うことはないと思う。けれど、好きだとか愛しているとか、そういう言葉を聞いた覚えがない。
 重ねて言うなら、式だって挙げていないから、は趙雲の正式の妻、というわけでもないのだ。
 よくよく考えれば、家人にまともに紹介されたこともない。趙雲から何がしかの話はいっているようだが、趙雲自身が忙しそうで、はたして何と言って紹介したのか確認したこともない。
 子龍のせいにしてるなぁ。
 いかんなぁと思いつつ、は顔の向きを変えた。
 でも、迎えに来てくれるぐらいいいんじゃないだろうか。
 馬岱が言っていた。あれで殿を迎えに来ないのであれば、殿には従兄上の嫁になっていただきます、と。
 何じゃそりゃ、とが呟くと、馬岱は満面の笑みで、いいですよぉ従兄上は。短気で直情的でやたらめったらうるさくて、すぐ怒鳴りますし、と嬉しそうに馬超を貶した。
 いいとこなさそうに聞こえる、と言うと、ありますよ、私が貴女の従弟になります、と笑う。
 私だったら、貴女をすぐに妻にしてしまうんですけど、などと思わせぶりなことを言うので、は驚いて目を見張る。馬岱が笑う。でも、私はあの従兄が一番大切なのですよ、とこっそり告白した。
 馬岱が従兄であるなら、それだけでこの世界は住み良くなるに違いない。細かな心配りは、異世界の壁など簡単に崩してしまいそうだ。
 しかし、その馬岱にしても、が元の世界に帰るという選択肢を端から切り捨ててしまっている。
 勝手なのだ、誰も彼もが。
 私も、ね。
 は際限なく回る思考を手放し、浅い眠りについた。

 趙雲は、竹簡に目を通していた。二度ほど読み返し、新しい竹簡を広げて返事を認める。
 墨が乾く間に、次の竹簡に目を通す。
「少し、お休みになっては……」
 副官が控えめに休養を勧めるが、趙雲は無言のまま竹簡を広げる。
「将軍……」
「無用だ」
 冷たく一言で返し、趙雲は滑らかに筆を滑らせる。
 何時にない無表情な趙雲に、副官は戸惑うばかりだった。
 趙雲は、墨が乾いたのを確認しながら記した内容を確認し、手早く竹簡に封をする。積み上げて、副官に託すと、錬兵の為に身支度をする。副官の手は借りず、さっさと鎧を纏うと、槍を手に足早に室を後にした。
 今日の将軍はおかしい。
 副官は溜息を吐いた。
 あの女のせいだろうか。日々雑務に忙殺される将軍の心をお慰めもせず、逆に苛立たせるだなんて、何て不甲斐ない女なのだ。それぐらいしか、やれることはないだろうに。
 できるなら、自分がそうなりたかったのだ。
 趙雲の側で馬首を並べて戦っていても、何と満たされないことか。
 女として生まれたからには、女として側に仕えたかった。副官を己の愛妾として仕えさせている将軍だって、ちゃんといる。だが、趙雲はそうではなかった。規律に厳しいというわけでもない。ただ、興味がないのだと……ひょっとしたら、男の機能が失われているのではないかとすら思っていた。
 そうやって、やっと自分を律していたのに、あの女が現れた。
 あんな趙雲の目を、初めて見た。あの瞳に映りかった。私が、私こそが……。
 胸の奥底にどす黒い感情が渦を巻く。
 あの女が、許せなかった。
 このままでは、自分がどんなことをしでかすか分からない。
 その前に、私の気持ちに将軍が気付いて、すまなかった、私に必要なのはお前だけだと抱き締めてくれたら……。
 夢想だ、とどこかで感じていながら、ひょっとしたらと縋ってしまう自分が哀れだった。

 室の戸が叩かれる。
さま、さま、お食事でございます」
 はしばらく考えて、戸の前に立つ。
「すいません、結構です」
 小声でやり取りするのが聞こえる。
「……本日は特に、ご馳走を用意させていただきました。是非……」
 声音が不自然に強張っている。役者だなぁ、とは半ば感動を覚えた。
 馬超が隣にいて、脅されていますというのがありありと分かる。馬岱の側仕えのこの男は、普段から肝が据わっているというか、生半のことではびくともしないのだ。昔、屋敷に忍び込んできた盗賊を騙して、まんまと役人に引き渡したことがあるというが、ものすごく納得できた。
 扉の向こうで、もういい、と怒鳴る声が聞こえる。馬超だ。
、俺だ、開けろ」
 ごんごんと乱暴に扉を叩く音がする。
「いや、開けるなって言われてるから」
 思えば、おかしなことになっている。こちらからも鍵が掛けられるが、反対側にも鍵が掛かっているのだ。
 双方の意思が通じなければ、扉が開かれることはない。
「開けなければ、この扉をぶち破るぞ」
「いいけど、馬岱殿に怒られても知らないよ」
 一瞬会話が途切れた。
「……岱が何と言おうと、知るか」
 黙ったくせに、とは呆れていた。何て単純なのだ。これでは策略に引っ掛かっても仕方ない。
「何の用」
「……用などない」
 じゃあ、別にいいじゃん、と踵を返すと、腹を立てたように扉をがんがん叩いている。
 子供め、と思った。元の位置に戻ると、分かるのか扉の騒音が止んだ。
 しばらく、お互いに何も言わずに黙っていた。
「顔が見たい」
 ぽつり、と掠れた声が聞こえた。
 馬鹿だな、と思う。
 どうしようもない大馬鹿だ。

 馬超の顔が明るく輝く。
 開けた扉に額をくっつける。ああ、もう、ホントに馬鹿だ。

 当たり前のように手を伸ばしてくるので、馬超にデコピンを食らわしてやった。
 呻いて打たれたところを押さえるのを尻目に、扉を閉めて鍵を掛ける。
「孟起、話があるんだけど」
 馬超は首を傾げていたが、が何時になく真剣なのを見て、頷いた。
 ちゃんと話したいから、と差し向かいで卓につく。
「あのね、孟起。もう、ああいうことしないで」
 馬超が何か言いかけるが、結局何も言えないまま黙った。
「……私、どうも自分で思っているより自制心ないのね。だから、ああいうことされると困るの」
 馬超の顔が少し嬉しそうに緩んだ。少しは自分に気持ちが傾いたのか、と思っているのだろう。馬鹿正直な子だなぁと、は思った。
「孟起のことは、嫌いじゃない……ううん、好きだよ」

 馬超が立ち上がりかける。
「まだ話終わってないから」
 どうどう、と手で制すると、むっとしながらもちゃんと座る。
 馬超のこういうところが好きだ。顔は奇麗なのに、とんでもなく熱血馬鹿で、単純で、飾り気ない。
「でも、恋愛感情があるかどうかは、別」
「何だ、それは」
 馬超のことは、弟みたいに思っている。むしろ、是非弟に欲しいタイプだった。
「俺は弟ではないぞ」
 馬超の頬が赤くなる。傷ついたのだろうか。申し訳ないなぁと思う反面、どうしていいか分からないという困惑がある。
 にはよく分からない。自分のいったいどこがいいのか。
「…………」
「黙るなよ、おい」
 馬超は唸り声まであげて悩んでいる。眉間に皺が寄っているのを見ながら、はこいつがもてないわけがわかったぞ、と密かに納得していた。
「こーゆーこと言うのもなんだけどさ…孟起、子龍に対抗意識持ってるだけなんじゃないの」
 暇に飽かせて考え付いたことを舌に乗せた。そういうことなら納得できる。単なる武将同士のライバル意識のなせる業で、でなくてもいいのだ。
 馬超は単純だから、こんなことにも気がついていないのかもしれない。もしそうであるなら話は簡単に……。
「取り消せ」
 突然、馬超の声が色をなくした。
 あ、まずい。
 の血の気が引いた。
 腕がすっと伸びてきて、の二の腕を掴む。体に力を入れて抗うが、呆気なく引き摺り起こされた。
 滅茶苦茶怒っている。
「……ご、ごめ……」
 馬超は唇を噛み締めてを睨んでいたが、目を閉じて、篭めた力を抜いた。
 は、そのままへたり込むように椅子に座った。
 怖かった。
 馬超でも、あんな顔をするのだと初めて知った。体の震えが止まらない。
「お前みたいな馬鹿な女、いいところなんか一つだってない」
 ぼそ、と馬超が呟いた。
 え、と思わずは驚きの声を上げた。馬超に対してではない。馬超の言葉を受けて、感じた胸の痛みに対してだ。
 え、嘘、私すごいショック受けてるよ。
 馬超がを悪く言うことなど、それこそ今に始まったことではない。馬鹿女に始まって、才能がないの、はしたないの、女らしくないの、それこそ何の遠慮もなく、ぽんぽん言ってくるのだ。
 いつも本気で言っているのが分かったし、だからこちらも本気で腹を立てて言い合いになって、馬岱や家人が間に立つまで四方八方に響くくらい怒鳴りあうのが常だった。
 馬超の屋敷だけでなく、人の行きかう往来で、軍議の行われている室の前で、所構わず喧嘩になるのだ。諸葛亮に怒られたことすらある。
 怒鳴ることで、ストレス発散になるくらいだ。
 なのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
 涙が出そうになって、は慌てて背筋を伸ばした。そして、はっとした。
「……だが、お前がいいんだ」
 理由なんてない。
 不貞腐れて頬杖をつく馬超の目から、涙が一筋零れた。
 いい年して、何で泣くかな。
「孟起は、ホントに馬鹿だよねぇ……」
 馬鹿過ぎて、どうしようもない。
「うるさい」
 涙を拭きもせず、そっぽをむいて口を尖らせている。まるで子供のようだ。
 ホント、馬鹿だなぁ。
 馬超の頭を胸に抱き寄せ、は自分を罵った。
 の背中に馬超の腕が回る。
「……痛いよ、孟起」
 被ったままの兜が、の胸に当たる。
 馬超が立ち上がる。を見下ろす目が潤んでいて、とても奇麗だと思った。
「お前がいい」
 改めてを抱き締める。
 鍵、やっぱり開けちゃ駄目だったんだよ。ホントに馬鹿だ、私。
 は、馬超の背に回しかけた腕をそっと下ろした。

 いっそ、このまま一人でどっかに逃げちゃおうかな、などと不埒なことを考えた。

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