日の光の下に出ると、それまで見えなかったものが見えてくる。
 暖かな日差しは心を微睡ませ、柔らかく和やかにする。
 ただし、足元に強い影が出来るのに気がつかなければいけない。



 目が覚めた時、既に日は高かった。
 寝台には一人で、当たり前だが趙雲の姿はなかった。
 綱は外されていたが、手首に赤い擦り傷が出来ている。
 被せてあった寝着は、趙雲のものらしい。鼻に馴染んだ体臭が、微かに香った。
 結局、明け方まで趙雲の指に翻弄されて、眠ることも出来なかった。
 体は汗と二人分の愛液でべたべたで、喉はカラカラに渇いて舌がくっついてしまったようだ。
 やらしーやらしーって、どっちがやらしいんだか。
 並みのスケベ根性で、一人の女をここまで執拗に嬲れないだろう。起き上がると、だるい体がみしりときしんだ。
 とにかく、この体を洗いたい。よろよろと繋ぎの隣室に移動すると、扉の外から女の子の声が聞こえてきた。
「あのっ、あのっ、お目覚めでございましょうか!」
 幼い、聞き覚えのない声だ。
「あのっ、将軍様から様がお目覚めになったら、お湯をお持ちせよと! あの、ご用意してお持ちしてもよろしいでしょうか!」
 あんまり必死で緊張しまくった声に、も釣られて緊張する。
「は、はあ、あの、お願いします…」
「はいっ、はい、今すぐ!」
 廊下をけたたましく走っていく足音が、遠くでずでんという音に変わり、『いたぁ〜い!』という悲鳴が聞こえてきた。転んだらしい。
 あんな子いたかな、とぼんやりと考えるが、思い出せない。新しく雇われた子かもしれない。
 が起きるまで、廊下で待っていたのだろうか。悪いことをしたかもしれない。
 しばらくして女の子が戻ってきた。格好が格好だけに、隣室で待機していると、見慣れない男たちがたらいや湯の入った甕を運びいれ、湯浴みの支度をしていった。姿の見えぬに向けて、生真面目に拱手の礼を取ると、再び出て行って、女の子だけが残った。
 見るからにまだ幼い、あどけない女の子は、たらいに張られたお湯の温度をみながら幾許かの水を注ぐと、満足げに立ち上がった。
さま、ご用意ができましたぁ!」
 嬉しそうだ。
「あ、あの、あのね、一人で出来るので」
 が言いにくそうに申し出ると、女の子はショックを受けたように目を見開いた。が、小さな声で『分かりました』と呟くと、見るからに肩を落として出て行こうとする。
「あっ、あの、後で背中だけ流してもらおう……かなと……」
 あまりに露骨に落ち込むので、慌てて声を掛けると、ぱあっと顔を輝かせて元気良く頷いた。
「では私、廊下でお待ちしておりますので、お声掛けて下さいませ!」
 ぱたぱたと廊下に出ると、勢い良く扉を閉める。
 本当に誰だろう。
 は物陰からそろそろと出てくると、そっとたらいのお湯の温度をみた。
 ほど良く熱いお湯は、光をゆらゆらと反射して眩かった。

「え、じゃあ」
 女の子……春花と名乗った……が語るところに寄れば、先日趙雲の命で家人のほぼ全員が解雇されたのだという。相応の手当てが出たもので、不平不満は出たものの、趙雲の意思が固かったこともあって、皆昨日までに屋敷を出たと言う。
「それじゃあ、大変だったんじゃないの」
「はい、それはもう。でも、母さんが、慧枝さんみたいな……あ、うちの近所に住んでて、このお屋敷に通ってたおばさんなんですけど……慧枝さんみたいな人が、趙将軍様の所で勤められていた方がおかしいって」
 背中を流してもらっている間に、春花はすっかりに打ち解けていた。
「私は、母さんを手伝って市にいたんです。そしたら、将軍様が、お屋敷に来て働かないかって直々にお声を掛けて下さって! さま、異国からいらしたんですよね。だから、さまと仲良くしてほしいって! わ、私なんかで良ければ、さま、あの、仲良くしていただけますか!?」
 言っていることが微妙に滅茶苦茶だ。濡れた手ぬぐいを胸に押し付けているからびしょびしょになっている。気がつかないのか、そのままを必死に見上げている。
「あの……濡れてるよ」
 の指摘に、わあ、と引っくり返る。
 少し騒がしいが、悪い子ではなさそうだ。
「……ここにいる間、よろしくね」
 は言葉を選びながら声にした。春花が嬉しそうに頷くのを見ながら、は苦笑した。

 湯浴みと食事を済ませ、春花に見送られながら城に向かった。入れてもらえるとは思わなかったが、趙雲とちゃんと話がしたかった。行くだけ行ってみようと思ったのだ。
 いつもの靴は馬超の家に置いてきてしまったから、新しい靴を卸した。
 靴も服も、そのうち擦り切れて駄目になるだろう。その頃には、自分はどうしているのだろうか。帰って、新しい靴を買うのか。それとも、趙雲たちと同じような靴を履くことになるのだろうか。
 考えても、どちらの考えもしっくり来なかった。
 新しい靴はまだ固くて、爪先の辺りが擦れて痛かった。

 門の前まで辿り着いたが、やはり厚かましい気がした。趙雲が屋敷に帰ってくるまで待とうかとも思ったのだが、またなし崩しになるのが憚られて、門の周りを行ったり来たりした。
 顔を知っている武将でも通りすがらないかと思うのだが、そううまく事が運ぶわけもない。
 いいかげん怪しいかと、とりあえず一旦帰ることにした。
「おい」
 耳に馴染んだ不機嫌そうな声がした。
 振り返ると、やはり馬超だ。偉そうに腕組みして、仁王立ちしている。その目が赤くて、は少しどきりとさせられた。
「孟起、あの……寝られなかった……?」
「それはそうだろう」
 仏頂面で唇を尖らせている。
「賊が侵入してお前をさらったと、屋敷中蜂の巣を突付いたような騒ぎだ。明け方過ぎに、趙雲が使いを遣したからようやく収まったものの、下手をすれば役人に通報していたかもしれんぞ」
 が馬超の屋敷にいた経緯が経緯なので、ぎりぎりまで伏せようということになったらしい。今回はそれが幸いした。役人に通報となれば、趙雲はおろか馬超にまで咎があったかもしれない。
「……使いの人、無事に帰してくれたよね?」
「岱が止めたからな」
 止めなかったらどうしたのだろう。は少し寒気を感じた。
 馬超も趙雲も、やっぱり別の次元の人間なのだ。とは、根本的に生き方が違う。
 やっぱり一緒に生きていくなんて無理かもしれない。そう考えていると、馬超がの手を引いて歩き出した。
「……趙雲に会いに来たんだろう」
 否定は出来なかったが、感情を押し殺したその声に、は胸が苦しくなった。
 門番達は、馬超が歩いて、しかもの手を引きながら門を潜っていく様を、控えめながら好奇の目で見ていた。
 馬超は気にした様子もないが、は後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
 廊下を行く文官たちも、ちらちらと達を盗み見ている。
「孟起」
「気にするな」
 がせめて手を離させようとするが、馬超は一言でそれを退ける。
「……俺が先に会っていれば、お前は絶対に俺を選んだはずだ」
 馬超の手に力が篭る。握り返してやりたかった。でも、それはあんまり卑怯な気がして、とうとう最後までにはできなかった。

 趙雲の執務室前までを送り届けると、馬超はそのまま去っていった。
 扉の前に立って、しばらく思い悩んでいたが、思い切って声を掛ける。
 少し間を空けて、扉が開かれた。例の副官の女性だ。強張った顔をしている。
「……何の御用ですか。将軍は、ただいま執務中ですが」
 奥の方から趙雲の声がした。
 副官は、唇を噛み締めて一歩退くと、扉を大きく開いた。
 頭を下げて中に入ると、部屋の一番奥まった場所に大きな卓が置かれ、山積みの竹簡の向こうに趙雲が座っていた。竹簡に見入ったまま、の顔を見ようともしない。
 も話しかけるきっかけを探して、つい黙り込んでしまった。
 趙雲は竹簡をいくつか丸め、封をすると、副官を呼び寄せ何事か指示した。
 副官はにちらりと目を向け、趙雲を恨めしそうに見つめると、踵を返して出て行った。
 あの人は、ホントに趙雲が好きなんだな。
 扉が音もなく閉まり、ようやく趙雲は顔を上げた。少し疲れているように見えた。
「よく一人で来れたな」
 穏やかに微笑む。
「うん、孟起に連れてきてもらった」
 馬超の字を出しても、趙雲の表情は微動だにしない。『そうか』と言い捨てて、積まれた竹簡の一つを取り上げた。
「ここに来るまで、考えてたんだけど」
 趙雲は聞いているのかいないのか、相槌すらもない。
「……やっぱり、帰ろうと思う」
 返事がない。
 この野郎、ただの屍のつもりか。
 本音を言うと、本当に帰ろうと決意したわけではない。趙雲に何か言って欲しかった。帰ると言えば、何か言ってくれると思った。趙雲を試している。心臓がばくばく言っていた。
「そんなことで、わざわざここまで来たのか」
 嫌悪感も露に、趙雲はを見上げた。逆に、ここまで感情を剥き出しにしている趙雲は珍しいな、と思った。気持ちがもやもやとして胸の中が小波立つ。
 うん、と頷くと、踵を返す。
「何処に行く?」
 趙雲は、やはり竹簡に目を落としたまま声を発した。
 も、もう一度うん、と頷いてから立ち止まった。
「帰って、荷物、纏めておく」
 不意に趙雲は卓の上に竹簡を投げ捨て、立ち上がった。
 に近付いてくるのが見えていたが、何だか映画でも見ているような感じだ。現実味がない。
 顔は無表情だが、怒っているな、と何となく分かった。
 意味なく駄々をこねたのだから、当たり前か。
 趙雲が家人を総取り替えしたのは、恐らくの為だと思う。迎えに来なかったのは、屋敷の中が落ち着くまで待ったのだろう。
 分かっている。分かっているのだが、どうしてか趙雲を困らせてやりたくなる。
「……どうして、泣く?」
 気がつけば、何時の間にか膨れ面になって泣いていた。さぞや不細工な顔をしているだろう。慌てて拭うが、後から涙が溢れて、止まらなくなってきた。
「……私がここに来たとこ、連れて行ってよ。暇になったらでいいから」
 ぐいぐいと目元を擦ると、塩気がしみてひりひりと痛む。鼻水まで出てきて、閉口した。
「暇があると思うのか?」
「その間に、お世話になった人に挨拶してくるから。少しぐらい、私の為だって時間作ってくれたっていいでしょうが」
 趙雲が、懐から白い布きれを出しての顔に押し付ける。
 子供にするように顔をぐいぐいと拭われて、文句を言いたいが言えなかった。
「時間を作ってやるのは構わないが」
 白で覆われた視界が突然開けて、趙雲のアップが目の前にあった。驚いて一歩下がると、趙雲が一歩踏み出してきた。
「帰さないと言ったはずだ」
「何で」
 は、趙雲から視線を逸らし、腹を立てたように眉を吊り上げた。
「私にはお前が必要だからだ」
 至極あっさりと趙雲は言葉を返してくる。
「だから、」
 の唇が震える。
「何で」
 趙雲が、小馬鹿にするように笑う。むっとして睨み上げるが、趙雲の唇が耳の側に寄せられ、背筋にぞくんとした衝撃が走る。
「お前を、愛しているからだ」
 真摯な愛の告白に、何でか無性に腹がたって、は拳を振り上げた。趙雲に簡単に受け止められて、腹立ちに更に悔しさが足される。
「……そんなに腹を立てるくらいなら、さっさと言えば良かっただろう。家人が気に食わないと。淋しいから抱いてくれ、と」
「誰が、んなこと」
 にもプライドがある。趙雲が自分の家にいた時、は趙雲を一人にしていた。自分だって我慢しなければと思った。仕事をして疲れている趙雲に、気を使わせたくなかった。
らしくもない、失言と暴言がの長所だろう」
 どういう意味だ、と不貞腐れると、趙雲が抱き締めてきた。
 趙雲の背中に手を回そうと、手を上げかけて降ろす。
「……私、孟起のことが好きだと思う」
「私のことも、好きだろう?」
 自信過剰だ。
「そうだろう?」
 重ねて問われて、ぐっと奥歯を噛み締める。
「ごめん」
 趙雲の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。
「……こんなにモテたこととかないから、なんか、調子に乗ってるのかもしれない。ごめん、ずるくて」
 趙雲が声を立てて笑う。それもまた、珍しい。
「お前は私を選ぶよ」
 しっかりしていると勘違いしているが、本当は甘ったれだからな、と揶揄されて、は抱きついた手を離して、ついでに趙雲の手も引っぺがしにかかる。
「誰がツンデレだ!」
 腕の力だけでは到底敵わないので、足まで動員して趙雲から離れようともがく。
「……意味が分からん」
 片足立ちのバランスの悪さを利用され、足元をすくわれる。横抱きに抱かれて卓の上に組み敷かれた。
「ちょ、ちょっと待て、何!」
 足をじたばたさせると、何なく膝の間に割り込まれる。
「ぎゃっ」
 割り込まれてから、いつもこれがいけないんだと後悔する。すぐに忘れるのは頭が悪いからだろうか。
 何とかしなければ、何とか、ともがいて、はっとする。
「ちょ、子龍、殿! 殿が後ろに!」
「何を」
 馬鹿な、と趙雲が振り返ると、そこに劉備が立っていた。
「……あ、いや、声を掛けたのだが、返事がなかったのでな……の声も聞こえたし、いや……」
 劉備は、すまないと言うなり踵を返した。
「殿!」
 趙雲が慌てて劉備の後を追う。卓の上でポカンとしたまま大股広げていたは、慌てて膝を閉じて卓から飛び降りた。
 の知らない趙雲がいる。当たり前のことだが、ちょっと驚いた。
 普通はさ、こういうフラグが立ってから、この人のことが好きなんだなって分かるもんだよね。
 うぅむ、とは唸った。
 会話を整理してみるに、趙雲に二股オッケーの承認をもらってしまった気がする。いいのか、そんなことで。いや、良くないだろう。どんなエロゲーだ。頭痛がする。
 もう少し、ゆっくり考えたい。
 やっぱり玄徳様にお願いして、屋敷とは言わない、何処かに室を借りて、趙雲とも馬超とも離れてみるか。
 そんなことを考えて、がっくりと項垂れる。
 帰る気、全然ないじゃん、私。
 溜息を吐きながら、立ち上がる。電気もガスも水道もないのに、不便極まるような所なのに、家族だって友達だって置いてきているのに。
 我ながら呆れる。また溜息を吐いた。
 ふと、人の気配を感じて振り返った。

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