何時の間にか、一人で生きられるようになっていた。
 一人で? 本当に?
 考えても答えは出ない。だから、ただ与えられるものを与えられるままに。そんなカード。



 人がそこにいるのに、いないものとして過ごす。
 思うほど難しくはない。
 見ないように、聞こえないように、話さないようにすればいいだけだ。
 元々いなかった人間なのだ。
 ひょっとしたら、初めからいなかったのかもしれない。いない者を、いると誤認していたのかもしれない。
 一人でいるのは淋しかったから、誰か人を好きになってみたかったから、誰かに頼られてみたかったから。
 理由なんて、一瞬考えただけで幾らでも羅列できる。
「おはよう」
 だから、目の前に立っている男も幻だと思えばいい。
 脇をすり抜ければ、質量のあるもの同士が空気を揺り動かす。それも気のせいだ。
 こたつに座って、朝ごはんを食べる。
 もうこんな時間だ、早く会社に行かなくちゃ。流し台に空いた皿を運んで、洗い桶に貯めた水の中に沈める。帰ってきてから、洗えばいい。
 靴を履いて、玄関を開ける。
「気をつけて」
 聞こえない。
 返事もせずに、戸を閉めた。

 趙雲と言葉を交わさなくなってから、もう何日くらい経っただろうか。
 風呂場で犯された翌日、熱を出して会社を休んだ。
 会社に電話をしている間も、水を飲みに台所に立った時も、趙雲はこちらの様子をじっと見ていたが、言葉をかけてはこなかった。
 何度か、食べる物を持ってきたり、水で濡らしたタオルを持ってきたのだったが、は一切手もつけなかった。
 トイレに立った時など、下着とトイレットペーパーにべっとりと白い液がこびりついているのを見て、泣き叫びたいような心境に駆られた。
 意地で叫ばなかった。趙雲に心配などして欲しくなかった。
 そんな生活をしているから、ストレスもたまる。
 会社では、急に休んだことで散々嫌味を言われ、凡ミスの一つ一つに突っかかられて、終業時間にはぐったりと疲れ果てている。
 相性の悪い上司と同僚は、と相性が悪い分お互い通じ合うものがあるらしく、普段弱いところを見せないをここぞとばかりにいびってきた。
 急ぎではないはずの残業を申し付けられ、残業代は出ない旨までご丁寧に宣告して、さっさと帰っていく上司を見送った。
 他の課の、良くしてくれる上司や同僚が慰めの言葉を掛けてくれたが、今のには却って恐縮だ。帰りたくないのだから、この寒い中で金を使わずに居られる場所があるのは有難かった。
 嫌味は言われるが、無料でコーヒーも飲めることだし、差し入れと称して菓子などももらったりして、一人で単純作業に没頭した。
 帰りに、駅前の夜遅くまでやっているスーパーに寄る。
 インスタント食品やパン、安くなった惣菜などを適当にかごに投げ込む。
 袋を二つに分けて、両手にぶら下げてだらだら帰る。
 灯りの点いた家は、逆に苦痛だ。人がいないはずの家に、誰かがいる事実を知らしめるからだ。 鍵のかかっていない戸を開け、無言で上がる。
「お帰り」
 コタツの天板に袋を一つ投げ置いて、さっさと部屋に引きこもる。
 襖を閉めて、レジの袋の中からラップに包まれたおにぎりを取り出す。お茶のペットボトルは既に温くなっている。おにぎりにいたっては、冷たいくらいだ。
 かまわずぱくつく。
 あまり美味しいとは思えなかった。

 朝、目が覚める。体が重い。
 会社に行かなければ、と起き上がり、今日が休みだったことを思い出す。
 眉間に皺が寄るのが分かった。
 どうしようか、と思いあぐねて、取り合えず着替えた。ついでに、換えの下着を取り出し、タオルで包んで風呂場に向かう。
「おはよう」
 無視して、風呂場に入った。
 着替えとタオルも洗い場に持ち込んで、中から鍵を締める。
 シャワーをひねり、熱い湯が出るまでに手早く服を脱ぐ。
 カラスの行水をするように、さっさと髪と体を洗って服を着る。体を拭く間も惜しんだせいか、背中がまだ濡れていたようで、シャツがぴっとりと張り付いた。
 上がるなりドライヤーで髪を乾かす。
 痛むから、と、なるべく自然乾燥を心掛けていたのだが、完全に乾くまできっちりとドライヤーをあてる。
 歯磨きと洗面を済ませ、化粧水と乳液を馴染ませる。
 部屋に一度戻り、上着と鞄を手にとって、さっさと玄関に向かう。
「出掛けるのか?」
 背後から声がかかったが、やはり返事はせずに玄関を閉めた。

 公衆トイレで化粧を済ませた。
 前評判は良かった映画を観て、パンフも買わずにぶらぶら街を練り歩いた。
 コーヒーショップで一番安いブレンドを頼んで、しばらくぼーっとしていたが、店が混んでくるにしたがって居心地が悪くなって、外に出た。
 ウィンドーショッピングする気にもならず、ただふらふらと街を歩く。
 こういう時は、時間が経つのが遅い。看板の下にぶら下がったデジタル時計は、まだ一時を過ぎたばかりだと教えてくれる。
 もう一本、何か適当な映画を見ようかと足を向けたが、チケット売り場の人だかりを見て、寄る気が失せた。
 休日の昼だから、何処もかしこも混んでいる。
 公園のベンチで、疲れたように座っている中年サラリーマンの気持ちが良く分かった。
 行き場所がないのではない。居る場所がないのだ。
 どうしようかな、と考えあぐねる。
 カラオケの気分ではないし、一人で行くのも味気ない。
 お腹はすいていないし、さっき飲んだコーヒーが胃にもたれている。
 活字を読む気分でもないから、本屋も面倒だ。
 画材を買えば荷物になるし、何より軍資金を食う。
 昼のゲーセンなど、行く気もしない。
 どうしよう。
 空は青く澄んでいた。

 結局、漫画喫茶に潜り込んだ。
 今の漫画喫茶には、本当に呆れるほど色んなものが揃っている。
 一人で過ごすのにはちょうど良かったが、商売になるほど一人でいるしかない人が多いのかと思うと、鬱になった。
 マッサージチェアに座って、ぼんやりと漫画を読んだり、手持ちのMP3で音楽を聴いたりする。
 気がつかない間にうたた寝をしていたらしい。
 ぼんやりと目を覚まして、伸びをした。
 今何時だろうと時計を見ると、夜の八時近かった。
 どうしようかと思ったが、小腹もすいた。外に出ることにした。
 会計を済ませて外に出ようとすると、覇気のない学生と思しき男達とすれ違う。顔も見合わせない、言葉も交わさない。集団で歩いているのに、とても孤独に見えた。
 逃げるように外に飛び出した。
 息が白い。
 上着の前をかきあわせて、空を見上げた。どんよりとした灰色の雲の合間から、藍色の夜空が見えていたが、星は一つも見えなかった。

 しばらくぶらついて見つけた安いファミレスで、カウンターならすぐにご案内できますが、と声を掛けられる。待っていれば時間も潰せるかと思ったが、カップルや家族連れの中に紛れて座っているのは気が引けた。
 カウンターのスツールは、今ひとつ座り心地が悪かったが、スパゲティとドリンクバーを注文して頬杖をつく。
 ざわめきは、が埋没するには小さく、聞き流すには大きい。
 鞄を肩に、ドリンクバーに立つと、ティーバッグを一つ選び、お湯を注ぎ込む。
 リラックス効果と銘打たれたハーブティーのティーバッグからは、薄汚れた緑色がじんわりと染み出していた。
 あまりいい匂いとは言えなかったが、ティーバッグを引き上げてちびちびと啜る。
 舌が痺れるほど熱い。
 不意に、目頭が熱くなった。
 誤魔化すように、ポケットティッシュを取り出して、思い切り鼻をかんだ。
 隣の席の大学生が、レポート用紙を片手に嫌な顔を向けてきた。

 コンビニで立ち読みしていたが、人が増えてきて居心地が悪くなった。
 弁当やお茶を籠に入れ、会計を済ませて外に出る。
 外に出ると、ウィンドーから一心不乱に立ち読みをする人達が見えた。異様な光景に見えた。
 だらだらと家へと続く道を歩く。
 ビルやマンションの窓から零れる灯りを頼りに、細い路地を行く。角を曲がると、家が見える。
 灯りが点いていなかった。
 一瞬ぼんやりと家を眺め、そのことに気がついた。
 血の気が引いた。
 足元がぐらぐらと揺れるような気がした。
 覚束ない足取りで、玄関の戸に手をかける。鍵はかかっていなかった。
 靴を脱ぎ捨てて中に駆け込む。
 灯りは、やはりついていない。
 台所にも、趙雲に与えた部屋の中にも、もちろんの部屋にも趙雲は居ない。
 トイレも、風呂場も覗いたが、やはり趙雲はいなかった。
 帰ったのだろうか。
 ふと、そんなことを思いついた。
 自分の世界に、帰ったのだろうか。
 そうかもしれない。はその場にへたり込んだ。
 元々いなかった人間なのだから、いなくたって当たり前なのだ。
 生活が元に戻った。それだけのことだ。
 それだけなのに、どうして胸に穴が開いたような気持ちになるのだろう。
 窓を見た。
 空気の入れ替えに開け放った窓、そこから見える狭い庭に、趙雲はいきなり現れたのだ。
 窓を開ける。
 そこに。
 趙雲が立っていた。
「………」
 言葉が出てこない。
 趙雲は驚きもせず、を見つめている。
 いつからそこに居たのだろう、とは考えた。
 白い肌は、闇の中で更に白く見える。唇の朱が、薄く、青褪めてさえ見えるのは、やはり闇のせいなのだろうか。
 冷たいはずのコンクリートの壁に寄りかかった趙雲は、腕を組んで静かにを見ている。
 表情をあまり変えない人だ。
 だから、今も何を考えているのかさっぱり分からない。
 ただ、とても奇麗な顔をしていると思う。
 とても奇麗な人だと思う。
 あんなことをする人ではなかったはずなのに。
 あんなことをする人とは思っていなかったのに。
「あやまれ」
 勝手に唇が言葉を紡いだ。
「謝れ」
 謝ったって許さない、そう思っていた。
「謝ってよ!」
 謝って済むようなことではないと思っていた。
「すまない」
 趙雲の、静かな声が胸に刺さる。
 何故か涙が零れた。
 趙雲が壁から背を離して近づいてくる。
 頬を撫でる手が、とても冷たかった。
「どうして、外にいたの」
 灯りがついていない家を見て、どうしようもなく不安になった。わざとなら、絶対に許せない。
「私がそばにいると、が辛い顔をする」
 だから、外にいたと趙雲は言った。他に行く場所がないから、庭に居たと。
 人がそこにいるのに、いないものとして過ごす。
 思うほど難しくはない。
 でも、とても辛かった。酷いことをしていると思った。淋しくなった。
「……どうして、謝ってくれなかったの」
 そうしたら、腹は立っていたかもしれないけど、怒ったかもしれないけど、こんな風にはならなかったかもしれない。
「謝るようなことをした覚えはない」
 趙雲は、だがきっぱりと即答した。
「……謝ったじゃない」
 半ば呆れて責めるように言うと、
が謝れと言ったからな」
 趙雲はひるむこともなく答える。何か言ってやらねば、と口を開きかけるを制して、趙雲は言葉を続けた。
「ここに居てもいいだろうか」
 の頭一つ下に趙雲の顔がある。
 切れ長の、黒々と澄んだ目に、が映る。ぶすくれた、みっともない顔だ。趙雲の目に映っているのが、申し訳ないような顔だ。
 美形は苦手だ。
 奇麗だというだけで、何か引け目のある、後ろめたい気持ちにさせられる。
「行く場所、ないくせに」
 ぽつりと呟いたに、趙雲は黙って微笑んだ。

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