七つの星が表すものは様々な影響。知らず知らずに人は変化を続ける。
乗り手に関わらず、鉄の輪は冷たく回転を続け、ただ前進する。
進め、すべてを押し潰して。それが戦車乗りの心意気。鉄の棺桶は既に用意されている。
玄関の方で気配がして、趙雲は立ち上がった。
が帰ってきたらしい。
廊下に出ると、ちょうどが戸を開けたところだった。
趙雲と目が合うと、は引き攣った笑みを浮かべた。こういう時は、大概ろくなことを考えていないか、おかしなことを言い出すのだ。
「すぅ、すすすすいません、アニキィ〜!」
今回は後者だったようだ。
土下座せんばかりに這いつくばっているを無言で見下ろしていると、が恨みがましく見上げてきた。
「……何か言って下さいよ」
「……何を言えばいいというんだ」
ぶちぶちと、『どうした、ハチくらい言ってくれても』と呟いているのが聞こえたが、まったく意味が分からない。
上がり口に腰掛けたが、年寄りのように『あいたたた』と腰を押さえた。
「どうかしたか」
「アンタのせいでしょうが」
せっかく望みどおりに声を掛けてやったというのに、憎まれ口を叩かれた上に睨まれてしまった。
はブーツを乱雑に脱ぎ捨て、がっくりと項垂れた。
再び趙雲を見上げると、情けなさそうな顔をして『ごめん』と呟いた。
何が何だかさっぱり分からない。
「仕事、辞めてきちゃった」
は詳しく語ろうとはしなかったが、どうも職場で揉め事を起こしたらしい。辞表を出したのだが、他の課の上司が仲立ちして、とりあえず溜まった有給を消化する形で長期休暇扱いになったという。
「どっちにしろ、もうあの職場はキツくて我慢できないから、辞めちゃうと思う。ごめんね」
何を謝るのか、趙雲には分からない。
「どうして謝るんだ」
口に出して問うと、はきょとんとした。
「だって、お給料入らなくなるよ。ま、貯金はそれなりあるし、退職金も入るし、失業保険もそれなり出るからしばらくは大丈夫だけどね」
「なら、謝らなくとも良いと思うが」
趙雲はあくまでの居候なのだ。家事をするわけでもなし、は『護衛代わり』と言うが、趙雲はまず外には出ないから、本当に護衛と言っていいのか疑わしい。
この時代を知るのは、何故だか良くない気がしていた。も同意見だったらしく、趙雲が外に出ないことに関しては何も言わない。
必要最低限の知識を、必要最低限なだけ。それが趙雲が密かに己に与えた約定だった。
「うん……まあでも、一応ね」
ふと、が明日から何処にも行かないと言うことは、一日中趙雲のそばにいるのだということに気がついた。
息がつまらないだろうか。
そんな心配が胸を横切った。だけではない、自分も、だ。性別も、生まれた経歴も、時代さえも違うのだ。今まではが仕事をしていたので、が職場に出かけている間は一人だった。の仕事がどんなものかは知らなかったが、朝出てしまえば、夜遅くになるまで帰ってこない。帰ってくれば帰ってきたで、疲れているのか口数も少なく、とっとと寝てしまう。休みの日は遅くまで起きてこない。夕方近くまで寝ていたこともあり、呆れたものだ。かと思うと、やたら早い時間に飛び出して行き、やはり遅くまで帰ってこない。趣味で絵を描くということだから、その関連なのかもしれないが、趙雲自身も深く追求しないのでよく分からなかった。
家にいる間は体が鈍らないように鍛錬をしていた。槍を振り回すほど広くはなかったが、工夫次第でなんとでもなるものだ。
がいては、それもままなるまい。
「子龍さー」
顔を壊れたコタツに突っ伏したまま、が突然声を掛けてきた。
「明日、外、出かけようかー」
外に。
趙雲の顔が一瞬曇る。
けれど、如何してか否定は出来なかった。
肌寒いが、良い天気だった。
は起き出すなり台所で何やらしていたが、しばらくしてぱんぱんに張り詰めた鞄を手に、趙雲の手を引き外に出た。
物干し竿を畳んで手に持ち、趙雲の先に立って歩く。趙雲は、ただの後ろから黙ってついていくより他はなかった。
見慣れない建物の間の、細い道をひたすら歩く。
には分かっているのだろうか、ふと不安になる。谷間よりもなお細い道は、趙雲から方向感覚を奪ってしまう。
声を掛けようと口を開いた瞬間、が振り向いた。
「もう少しだからね」
そのまま再び歩きだす。
不思議な気がした。
自分が見透かされているような、居心地の悪さだ。
自分は、ここにいてはいけない。
憧憬ともまた違う、焦燥感に駆られる。
早く戻らなくてはいけない。ここは私の居るべき場所ではない。
何もかもが、違うのだから。
「着いたよ」
また、突然が振り向いて言う。薄汚れた直線の壁が途切れ、灰色の不思議な石と下草が生えた小山を指差す。石の階段が設えてあり、は当たり前のように登っていった。
人の手からなるもののようだが、一体なんなのか趙雲には分からなかった。とにかく、を追う。
階段を登り切ると、風がごうっと吹き付けてきた。
趙雲の眼下に青黒い魚の背のような川が広がった。遠くには転々と、背の高いきらきらと光る四角い建物が見え、その下を細々と砂利のように小さな家らしきものが無数に広がっていた。
はっと気がついて、は、と目で探すと、さっさと川原に降りているところだった。
慌てる内心の動揺を抑え、を追う。
やはり、ここは私の居るべき場所ではない。
は川原に設えられた木の長椅子に腰掛け、伸ばした物干し竿の中に何か詰めているようだった。
何をしているのか分からなかった。手持ち無沙汰になった趙雲は、川の方へと足を進めた。
川岸に近づくと、様々な塵が泥や油に塗れて打ち上げられていた。
捨てられたものだろうが、その色鮮やかさと量の多さに、趙雲は眉を顰める。
「うぉーい、子龍ー」
間の抜けた声がして振り返ると、が物干し竿をぶんぶん振り回して……こけているところだった。
何をしているのか。呆れながらも、の方へと歩み寄る。
そう言えば、一昨日の無茶で腰が痛いといっていたな。
少しだけ早歩きになっている自分に気がついて、趙雲はわざとゆっくり歩くよう心掛けた。
趙雲が辿りつくと、は既に何事もなかったように起き上がっていた。
「はい、コレ」
受け取った物干し竿が、ずしりと重い。
驚いてを見遣ると、得意げに胸を張り聞いてもいない説明を始める。
「物干し竿に、粘土と砂利詰めてはめ直してみました! 強度に不安はありますが、瞬間接着剤のもつ限りナンボでも振り回されるがよろしかろう!」
趙雲は、と物干し竿を何度も見比べた。
ああ。
ようやく気がついた。
槍の代わりにしろということか。
から、この世界では剣や槍を振り回すのはご法度なのだと説明を受けている。もし、持っているのが知れて、役人が来た時に身分を証明しろといわれても、趙雲には証明しようがない。
そうならない為に、怪しまれるようなことは何もするなということだ。
豪竜胆の代わりというにはあまりにお粗末だったが、趙雲は久しぶりに手にする金属の冷たさに、不思議と高揚した。
長椅子に座り、すっかり見学の体勢に入ったのそばに近付く。
は、きょとんとして趙雲を見上げている。
屈みこんで、唇を重ねた。
触れるだけの柔らかな感触は、一瞬で引き離された。が背を反らして逃げたのだ。
「……バッ……」
の顔が真っ赤に染まる。不思議なものを見るような気がした。
「馬鹿めが、人に見られるでしょうが!」
趙雲は辺りを見回すが、の言うような『人目』はないように思う。
「誰もいないが」
の眉がきりりと跳ね上がる。勢い良く指差す先に目を遣ると、犬が一匹、座って尻尾を振っていた。
「……人ではないようだが」
うるさいうるさい、と喚くがうるさい。
趙雲は即席の槍もどきを手に、に背を向けて数歩足を進めた。
構えを取ると、背後で息を飲む音が聞こえる。
ひぉう。
風を切る音が、川原に響き渡った。