家人が勝手に気を利かせていることも知らぬまま、馬超や馬岱は執務に勤しんでいた。
 練兵を終え、足りない軍備や破損したものなどの申告を取りまとめた報告書に目を通している。
 常ならば、いかにも面倒臭げに肘をつき、竹簡をぼんやり見遣っているはずの馬超が、今日に
限っては真剣な面持ちで書面に目を通している。
 何かあったのだろうかと馬岱が怪訝に思っていると、扉の向こうが徐々に騒がしくなってきた。
 いい加減この展開に慣れてきた馬岱は、うんざり顔の伺いが申し立てに来る前にさっさと扉を開けに行く。
 扉を開けると、護衛兵が孫策を押し留めようと必死になって踏ん張っているところだった。
「おう、馬岱!」
 顔は笑んでいるのだが、どこか苛々している孫策が馬岱に手を振る。
「馬超、いるか!?」
 護衛兵を軽く投げ飛ばし、孫策はつかつかと中に入ろうとする。
「居ります。居りますけれど、先に御用を承りたく存じます」
 何せ、馬超も普段と様子が違うのだ。いつもの馬超なら何とかいなせても、どう動くかわからない今の状態の馬超に孫策を会わせるのは危険なような気がした。
 以前、城中の将や文官がこぞって見物に集まった二人の決闘の時も、馬超は今日のようにやたらと思いつめた顔をしていたのだ。
 孫策は馬岱を険しく睨めつけ、ついでがっくりと項垂れた。
 初めて見る孫策のしょぼくれ様に、馬岱は思わず声をなくした。

「たまんねーぜ」
 足を投げ出して行儀悪く座っている孫策に、馬超は無表情だった。
 茶の支度をしながら、馬岱は普段とあまりに違う二人の様を、びくびくとして見守った。
 と言うか、気持ち悪い。
 孫策はへらへらしてどこ吹く風というように飄々としているのが相応しいし、馬超は噛み付かんばかりの勢いで孫策を睨めつけているのが相応しい。
 馬岱一人でこの二人を同時に留めるのは、至難の技と言えた。
 互いに腕に覚えのある者同士だし、命の遣り取りをするほど愚かではないと思っている……思いたいが、如何せん室内のことであるから、並んだ竹簡やら家具やらが滅茶苦茶にされるのだけは勘弁願いたかった。
「あのよ……」
 孫策が、ずいっと身を乗り出した。
 馬超はやはり無表情で、微動だにせず孫策を見詰め返す。
「やっぱ、に会ったら、駄目か?」
 は?
 馬岱は思わず口に手をやり、不躾な声音が孫策の耳に届いたのではないかと冷や汗をかいた。
 孫策は、そんな馬岱の様子には気が付かなかったようで、馬超に同じことを繰り返している。
「……会えば、いいではないか」
 しばらく考え込んだ後、馬超が口にしたのはそんな言葉だった。
 は?
 またも馬岱は口を抑えるはめになった。
 あの馬超が、まさか淡々として了承めいた言葉を口にするとは思いもよらなかった。
 馬超も孫策も、馬岱のことは完全に視界の外だ。振り返りもしない。
「でもよぉ、お前と約束しちまったしなぁ」
「約束した覚えは、ない。に会うなと言った覚えも、俺はないぞ」
 そうだったろうか。
 馬岱は記憶を手繰る。確かにそうは言わなかったが、屋敷に来るなどとんでもないというようなことは言っていたような気がする。
「んー、でもよ、俺だってやっぱ、を独占してぇって思うしな」
 俺としてもなかなか複雑な訳だ、と、この世で最も単純明快な男は嘯く。
 馬岱は、だんだんと体がむず痒くなってきた。何か、おかしい。おかしいのだが、二人は極真面目な顔をして話を続けている。
「……ならば、俺と共に屋敷に来るといい。それならば問題なかろう」
 いいのか、と孫策は顔を輝かせた。馬超は、こっくりと頷いている。
 何の茶番なんだ。
 馬岱の動悸は激しい。いっそ空恐ろしくすらあって、鳥肌が立った。
「お、お待ち下さい、孫策殿は仮にも同盟国君主のお世継ぎ、軽々しく一武将の屋敷にお招きするわけには……」
「うし、じゃあ俺、劉備んとこ行って承認もらってくらぁ」
 馬岱が取りあえず時間を稼ごうと口を挟んだのだが、孫策は身軽く立ち上がって扉に向かう。
 ふと立ち止まり、馬超を振り返った。
「なぁ、いつ行きゃいいんだ?」
「構わなければ、今宵でも」
 馬超の言葉に、そっか、とにっかりと笑って、また後でなと言うなり飛び出していってしまった。
 やり場のない手を首と同時にがっくりと下ろして、馬岱は従兄を振り返った。
 馬超は茶を啜ると、馬岱を促した。
「岱、執務を片してしまおう。その前に、屋敷に伝を入れて、孫策殿が来ることを知らせておけ」
 こんな従兄上は、従兄上じゃない。
 馬岱は、がやはり憑き物つきになっていて、その憑き物が今度は馬超に取り憑いたに違いないと疑いの目を向けた。

 孫策は劉備から馬を借り受け、ご機嫌で馬超と馬首を並べている。
 馬岱は後ろから恐る恐る二人を追う。
 盛んに話し掛けているのは孫策のみだが、馬超も嫌がるでなく頷くなりして受け答えしていた。
 何がどうしてどうなったのか、馬岱には見当もつかない。
 変化したのは馬超だ。何が馬超を変えたのか。
 の他に考えられなかったが、が孫策に会いたいと馬超に強請ったとは考えにくく、また仮に会いたいと強請ったところで、馬超が激怒して終いとなるのは明白だった。
 それに、馬岱が見たところ、馬超は未だ孫策に気を許しているわけでもなさそうだ。
 時折、孫策の言葉に口が引き攣っているのを見受け、はらはらとして馬超の動向を見守っている。
 馬岱は、いっそ何か起こって、今宵のお招きそのものがなかったことになればいいのにと念じていたが、生憎今宵の蜀は平和そのものだった。
 屋敷の門を潜ると、さすがに同盟国の世継ぎを迎えるのに気合が入ったものか、前庭には煌々と篝火が焚かれ、まるで昼間のような趣だった。
 門兵並びに護衛兵が左右にずらりと並び、主と招かれた賓客とを歓待した。
 主に恥をかかせまいと襟を正し、ぴしりと姿勢良く並ぶ私兵の様に、馬岱もわずかばかり鼻を高くした。
 だが。
 孫策は、知ったこっちゃないと言わんばかりにぴょんと馬を飛び降り、馬超を置き去りに玄関に突入していった。
 あまりと言えばあまりの為しように、馬超のこめかみに青筋が浮かぶ。
 馬超は玄関前まで馬を小走りに走らせ、厩番に手綱を放ると、肩を怒らせ大股に屋敷の戸口に入る。
 走りこんだ孫策が、うろうろばたばたと走り回り、ふと、追いついた馬超を振り返った。
は?」
 形相は怒り狂っていたが、馬超は無言での室のある方を指差す。
「あっちか!」
 それはもう嬉しげに走っていく孫策を追って、馬超はつかつかと歩き出す。
 呆気に取られて出遅れていた馬岱も、馬超の後姿を追って駆け込んできた。
 廊下の分岐でうろうろと左右を見渡す孫策に追いつく。
「……右だ」
「右か!」
 馬超の言葉に、孫策はたかたかと走り出す。馬超もそれを追う。
 また分岐に出くわし、今度は孫策がくるりと後ろを振り向いた。
 馬超は顔を顰める。
「そのまま、まっすぐ」
「まっすぐな!」
 二人の遣り取りを、馬岱は後ろから見ていた。
 孫策はあっけらかんとして馬超の言葉を疑いもせずに進み、馬超は孫策に何か含むところがありながらも正しい道順を教えている。
 不可思議な感覚に捕らわれて、しかし馬岱は馬超の背を追う。
 の室の前に来て、孫策は馬超の言葉も待たずに室の中に飛び込んだ。
「……っ!」
「げぇっ、伯符!?」
 感極まったような孫策の声に、の天地がひっくり返ったような声が重なる。
 中から、何とか馬鹿とかちょっと待てとか、主にの罵詈雑言が聞こえてきた。
 馬岱がそっと馬超を伺うと、馬超の口元は苦笑いを浮かべていた。
 自分を心配そうに見詰める馬岱の視線に気が付いたのか、馬超は馬岱に微かな笑みを浮かべて見せる。
「俺はな、岱。俺は、を、」
 馬超の言葉は、飛び出してきた孫策によって遮られた。
、いたぜ!」
 ほら、と横抱きに抱えたを、嬉しげに馬超に見せる。
 に与えた室なのだから、が居るのが当たり前なのだが、孫策には何の含みもてらいもない。
 混乱していると思しきの目が、馬超を捕らえた。
「孟起! アンタかこの男連れ込んだのっ!」
 急に飛び込んできたからびっくりしたじゃない、から始まって、の罵詈雑言は今度は馬超に向けられる。
 突然振られた怒りの矛先に、馬超は一瞬絶句するものの、すぐに目を吊り上げて怒りだした。
「俺に言うな、その男に言え! お前にどうしても会いたいというから連れてきてやったと言うのに、馬から飛び降りて屋敷に駆け込むわ、うろうろするわで俺とて腹立たしいわ!」
「あ、おっ前、途中からは案内買って出たくせに、そういうこと言うかフツー!」
「屋敷内をうろうろされるのが嫌だっただけだ!」
「ちょっと伯符、あんたそんなことしたの!?」
 三人でわあわあと姦しいことこの上ない。
 馬岱は耳を塞いで眉間に皺を浮かべつつ、だがこれでこそ我が従兄上、と安堵した。
 こっそりと馬超の顔を覗き見ると、口元に淡い笑みが浮かび、目は生き生きと輝いている。
 罵り合っているというのに、何とも楽しげな表情だ。
 そういう馬岱の口元も知らぬ間に緩んでいて、馬岱は慌てて引き締めにかかる。
 ついでに、場も引き締めることにした。
「さぁさぁ、そんな子供の喧嘩はもう終いにしていただけませんか。家人には、腕を振るって料理を支度するよう申し付けて置きました故。酒も、珍しい西方の酒が手に入りました。要らぬというなら、家人に振舞ってしまいますがよろしいですか」
 三人ともぴたりと口を閉ざした。
 ご馳走に釣られたわけではないが、馬岱なら本当に家人に振舞ってしまって、自分達の食事は抜きになりかねないと察したのだ。
「……私、お腹すいた」
 が呟いたのが決定打となり、四人は揃って宴の支度がされている広間へと向かう。
「返せ」
 途中、馬超が思い出したように孫策に向けて手を広げる。
「やなこった」
 を返せと言われていると察した孫策は、まるで宝物のおもちゃを隠すように馬超に背を向ける。
「返せ!」
「やだっつってんだろ!」
「……馬岱殿ー」
 孫策と馬超の押し合いに、が馬岱に助けを求める。孫策がを振り回すので、足首が揺さぶられて軽い痛みを覚えたのだ。
 先導していた馬岱は、くるりと踵を返して立ち戻り、馬超に意識が向いている孫策の腕から、をひょいっと取り上げた。
 そのまますたすたと広間に向かう。
 まさか馬岱がこう出るとは思わず、馬超も孫策も、自身も驚いて固まる。
「子供の喧嘩は終いにしていただきたいと申し上げました。聞けぬというなら、もう結構です」
 言いたいだけ言い捨てると、馬岱は、まったくとかしょうのないとか、文句を垂れながら再び歩き出した。
「お……おい、岱!」
 慌てて従弟を追う馬超に、孫策も同じく後を追う。
「……お前の従弟、おっかねぇな」
 俺の乳兄弟も怒るとすげぇおっかねぇんだけどよ、お前の従弟には負けるかもな、と孫策は小声で馬超に話し掛けた。
 一瞬眉の根を寄せた馬超だったが、深く同意して頷き返す。
「言っておきますが、聞こえておりますからね」
 背後も振り返らず、馬岱は二人に釘を刺した。
 ぎくりと体を強張らせて立ち止まった二人を、は興味深げに見詰め、微笑んだ。

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