湯泉と言うからもっと硫黄の匂いでぷんぷんしているかと思ったのだが、意外とそうでもなかった。
 馬を繋ぎ、茂みを抜けたすぐのところにふわふわと湯気が立ち上っている。何でこんなところにと戸惑うくらい、突然そこに現れた。
「湯泉の熱のせいか、草木の繁殖が早くて。そのせいでなかなか見つけられないようですね」
 その割に、星彩は迷うことなくここまでやってきたように見受けられた。ひょっとしたら、下見を済ませていたのかもしれない。
 ものすごく尽くされている気になってきた。何でまたそこまで、という気持ちが蘇る。
―――星彩は、お前が好きなのだそうだ。
 趙雲の言葉を思い出した。
 好き、ねぇ。
 は、趙雲に横抱きされた状態で星彩の姿をそっと盗み見た。
 背はすらりと高い。出るとこは出て、絞られるところは絞られた女っぽい体つきだ。顔は張飛に似ず(張飛曰く俺そっくりなのだそうだが)美人だ。切れ長の、やや吊り上がった目は猫を思わせる。冷たく見えがちなのも、この目のきつさがそういう雰囲気を醸し出してしまうのだろう。
 星彩が振り返り、趙雲に向けて手を差し出す。
「後は、私が」
 は、ようやく星彩が自分を渡せと言っているのだと気がついた。
 いや、幾らなんでも星彩に自分をお姫様抱っこできるとは思えない。
 自ら降りようとすると、星彩が前に進み出てひょいと抱きかかえられてしまった。
「おっ、重いですよ星彩殿!」
「大丈夫です、お任せ下さい」
 慌てているのはだけで、星彩は落ち着いたものだ。を抱えたまま、すたすたと湯泉に向かう。
「関平、見張りをお願い」
 突然言葉を掛けられて、関平は慌てて茂みの向こうへと姿を消す。
「……趙雲殿も、お願いできますか」
「私はここに残っていた方がいいのではないか」
「関平と一緒に、見張りを、お願いします」
 星彩が見張りという言葉に力を篭め、趙雲は苦笑して了承した。
「わかった。何かあれば、すぐ駆けつける。声を掛けてくれ」
「お願いいたします」
 頭を下げ、趙雲が立ち去るのを確認してからを平らな岩の上に座らせる。
「失礼します」
 言うなりの帯に手を掛け、はぎょっとして固まった。
「……湯泉に入るのに、お脱ぎ戴くだけですから」
 困ったように、また恥ずかしそうに頬を染める星彩に、も釣られて赤面する。
「う、でも、そしたら一人で脱ぎますから……」
「でも、お着物が汚れてしまっては……」
 結局、が脱いだものを星彩が受け取ることで合意した。
 明るい日差しの下で裸になることは少し抵抗があったが、誰が見ているわけでもなし(星彩はいる訳だが)とも思い切って全裸になった。
 星彩はの着物を丁寧に折りたたみ、広げた布の上に置く。
 次いでさっさと自分の着ているものを脱ぎ捨て、の着物の横に適当に丸めて置いた。
 互いに全裸になると、星彩の体が如何に美しいかを見せ付けられることになった。
 引き締まった体躯は筋肉が程よく付き、すんなりと伸びた足は長く、尻はくっと上がっていた。豊かな胸から下れば、腰は何かで締め上げたように細く、へそすら縦長で形良く整っている。
 瑞々しい肌は白く、何処にも染みも黒子も見られない。
 完璧な体というものがあるなら、星彩はまず間違いなくその中に含まれるだろう。
「……あの、何か」
 あまりにまじまじと見ていたせいか、星彩が恥ずかしそうに体を隠す。胸乳がたわんで歪み、卑猥さが滲んだ。
 自分が男だったら押し倒しているかもしれないが、その前に拳固喰らって伸びそうだ。
「いや、星彩殿はスタイル……えぇと、体つきが綺麗だなぁと思って。うらやましいです」
 差がありすぎて、妬ましいとすら思えなかった。
 それでも溜息が零れる。
「私なんて、そんな……私は、殿の方が女らしくて素敵だと思います」
 お世辞とばかり思えない真摯な言葉の響きに、はおや、と顔を上げる。
 途端、星彩の顔が真っ赤に染まり、もじもじと俯いた。
 たらり、と汗が流れる。
 まさか、好きって、そういうことじゃないだろうな……。
「風邪をひいてしまいます、さ、殿」
 星彩は勢いをつけるようにして顔を上げ、の返事も待たずに抱き上げ、湯に向かう。
 布を通さず、直接触れ合う素肌の温もりに思いがけず心臓が跳ね上がった。
 ぎゃーす、何考えてんだ私!
 落ち着こうにも二の腕に星彩の豊かな胸が当たり、ふに、ともぷに、とも付かない不可思議な感触を伝えてくる。それがまた、何とも心地よい感触なのだ。
 そ、そういう傾向は持ち合わせてないと思ったんだけどな……。
 星彩の胸に抱かれながら、湯の中にゆっくりと沈む。
 湯泉は、湯泉と言うほど熱くはない。どちらかと言うと温水プールに近いかもしれない。温めの湯は、何時までも入っていられそうだ。
 星彩は大きな岩がある方に進むと、をそっと離した。沈んだ岩が磨耗していて、ちょっとした椅子のような作りになっている。
「わ、すごい、ちょうどいいね」
 座ると、の胸の辺りまで湯が届く。少し寝転がるようにすれば、肩まで浸かれるちょうどいい高さと大きさだった。
「ちょうどいいから、動かす訓練でもしようかなぁ」
「動かして、大丈夫なのですか」
 心配そうな星彩に、は笑った。
「お湯の中なら、足にかかる負担少ないから大丈夫だと思うんだ。医師殿も、解すとこから始めるって言ってたし。ずっと動かしてなかったから、たぶん筋肉がちがちに固まっちゃってるしね」
 少し力を入れてみると、引き攣ったような感じがした。痛みはないので、思い切って少し伸ばしてみる。
「あた」
 ぴきん、と攣れるような痛みが走り、はふくらはぎを撫で回して耐える。
「大丈夫ですか」
 星彩がうろたえる。
「痛いってほど痛くもないんだけどね。まあゆっくりやりますよ」
 苦笑いして足を引き寄せ、撫で摩ったりゆっくり左右に振ったりする。
「……私、やりましょうか」
 が返事をするのを待たず、星彩はの前に回りこんで、怪我した足を引き寄せる。
 靭帯の辺りから優しく揉み解され、疲れて張っている足が心地よく緩められていく。
 片足が不自由な分、体の他の部位に負担がかかっていたらしい。星彩のマッサージが気持ちよくて、眠気すら誘われた。
「如何でしょうか」
「すごく、楽です〜……眠くなっちゃうくらい」
 の答えに、星彩がほんのりと笑う。
「長く浸かっていた方が効果があるのだそうですよ。眠ってしまっても構いませんから、どうぞ」
「……いや、でも」
 さすがにそれは申し訳ない気がした。星彩にマッサージをやらせてぐーすか寝こける等、何処のお大尽だ。
「いいんです、私がそうしたいのです。お嫌でなかったら、そうさせて下さい」
 熱心に請われ、は頷くしかなかった。
 星彩はにっこりと微笑み、の足に向き直り熱心に解し始める。
 私の何が良くてそこまでしてくれるんだろう。
 少し度を越えた星彩の親切に、は落ち着けずにいる。心地よいのは変わらないが、眠ろうという気がしなかった。
 風がさわさわと吹き渡り、濡れた肌から熱を奪っていく。
 木々の間から見える青い空に、白い雲が形を変えて流れていくのが見えた。
 がさり。
 も星彩も、はっとして音のした方を見る。
 趙雲や関平が見張りをしているのとは、また別の方向、山の奥側から音はした。
 星彩は背後にをかばい、音のした方を睨めつけている。
 がさ、がさり、がさがさ……。
 音は徐々に近くなってくる。
 茂みの向こうから、ぬうっと姿を現したのは、熊だった。
 の顔が引き攣る。
 黒い大きな塊のような熊は、のたのたと達のいる方に向けて歩いてくる。
 太い大きな腕は丸太のように膨らんでいて、先端に鋭い白いものが見えた。
 爪だろう。
 こはぁ、と口が開き、中から長い犬歯が覗き見えた。赤い口と相まって、鮮烈なまでにおぞましい。
 歩くたびに地響きがするようだ。
 がちがちと、歯が鳴り出した。
 星彩がちらっとを振り返り、自分の背をの体に押し付けた。
「私が、居ります」
 を熊からかばいながら、星彩は断言した。
「私が、殿をお守りいたします」
 きっぱりと決意した口振りに、の震えも落ち着いてくる。
「星彩殿、でも」
「大丈夫です、絶対、お守りいたしますから」
 しかし、星彩は今武器を携えていないのだ。愛用の煌天は、着替えと共に置いてある。岩の向こう側にある為、湯を出て手に取ることはできようが、その間にが襲われてでもしまったら何の意味もない。
 星彩としても本当は、を座らせたら取りに戻ろうと思っていたのだが、油断していた。人の気配は感じられなかったので、に付き添ってしまったのだ。
 熊が、湯泉の中に足を漬け、達を伺うようにちらりとこちらを見遣る。
 その巨体が、湯泉の中にどぶりと沈んだ瞬間、は思わず叫んでしまった。
「子龍っ!」
 熊も、星彩も驚いたようにを振り返る。ざざんと音を立て、趙雲が茂みの向こうから飛び出してくる。
!」
 同時に、熊も慌てて湯泉を飛び出し、趙雲とは逆の方向に駆け出していった。
 盛大な水飛沫が跳ね上がり、と星彩に襲い掛かる。
「大丈夫か、二人とも」
 熊の去った方を見たまま、振り返らずに趙雲が問う。
 遅れて関平が飛び込んでくるが、裸体の二人に慌てて背を向けた。その耳の後ろ側までもが赤く染まっているのがよくわかった。
「私は大丈夫。星彩殿が、守ってくれたし……」
「いえ、私は……」
 頭から湯泉を被りびしょびしょになってしまった星彩は、気重な風情で髪をかき上げた。
「……着替えてきます。体を拭くもの、何か代わりのものを探してきます。
 岩に掛けておいたものは、熊の思わぬ攻撃で濡れてしまい、その役割を担うことができなくなってしまった。
「私が」
「趙雲殿は、殿に付いて差し上げて下さい……恐い思いを、なさったでしょうから」
 星彩は身軽く湯から上がると、濡れたまま服を纏い、そのまま関平を連れて茂みの奥に消えた。
 後に残されたは、おろおろと趙雲を見上げた。
「……私、星彩殿に何かしちゃったかな」
「そんなこともないだろうが……」
「でも、何か怒ってたよね」
 うろたえるを、趙雲は苦笑して見下ろした。

「何」
「隠すなり何なりしてもらえないか。私も一応、男なのだぞ」
 へ、と間抜けな声を上げ、我が身を振り返る。当然、全裸だった。
「ぎゃ」
 短く唸って慌てて体を丸める。
 腕で隠すのだが、湯自体が無色透明とあってそれ以上は隠しようがない。
 趣深げに見下ろす趙雲の視線にキレる。
「見てないで、あれ、あの布取ってきて!」
「濡れてしまったから、役に立たぬと星彩が」
「いいの! 体に巻くの! 取ってきて!」
 私は気にしないのだが、と先程とは矛盾したことを言いつつ、趙雲はの願いを叶えてやった。
 見るなと喚きつつ、湯の中で布を巻きつけ、やっと一心地着いた。
 よろよろとしつつも湯から上がり、岩場に腰掛ける。

「何」
 突然背後から趙雲に抱き締められ、唇を塞がれる。抵抗する余裕すらなかった。
 後ろに引き倒されるように肩を引かれ、仰け反ったところに口付けられているので逃れようがない。
 舌が滑り込み、翻弄され、籠絡される。趙雲の舌におずおずと応える舌を吸われ、体が痺れたようになりぐったりとして趙雲の腕に身を預けた。
「……何」
 むっとして睨めつけるに、趙雲は笑って応える。
 そのままもう一度、今度は触れ合わせる口付けを交わした。
「何をしていらっしゃるのですか」
 強張った、冷たい声が響いた。
 星彩が立っていた。
 その脇には関平が居り、星彩の腕を引いて押し留めようとしている。が、星彩は関平の手を振り
払った。
 趙雲との傍に来て、冷ややかに二人を見詰めた。
「……何を、なさってたのですか」
 困惑したに、苦笑する趙雲が口を開く。
「星彩、私が」
「趙雲殿には伺っておりません」
 星彩はの傍に膝を着き、と向き合った。
「何をなさってたのですか」
 星彩の目が、本気で怒っている。は、ただ困惑した。
――星彩は、お前が好きなのだそうだ。
 だから、それは、どういう意味で?
 どう答えたものか、は迷っていた。

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