「すきんしっぷデス」
 上擦った声が勝手に口から飛び出した。
 誤魔化していいのか開き直っていいか判断が付かず、パニックする頭に見切りをつけたのか、言い訳は口が紡いでくれていた。
 星彩の眉が険しく寄せられる。
「……すきんしっぷ、とは何なのですか」
 当然星彩が『すきんしっぷ』の意味を知るわけもなく、疑問が星彩の怒りの矛先をわずかに逸らした。
 今よ!
 意味もなく脳内に掛け声がかかり、は行きがかり上仕方なくこの波に乗ることにした。
 何せ、自分の口から出た言葉であるので、乗らざるを得なかったのである。
「えー、あの、遠い西の方の風習ででしてね、あのー、仲のいい人と触れ合って、お互いの親密を確かめ合うといいますか。えぇ」
 星彩の目が、再び険しくなった。
「その、すきんしっぷとやらを、趙雲殿となさっていたと仰るのですか」
「……えー、まぁ……」
 ここで退いては元も子もないのだが、何せ星彩の整った顔で睨めつけられると、おっかないことこの上ない。
 蛇に睨まれた蛙のようなに、星彩がじりっと膝を前に進めた。
「では、私にもして下さい」
 思わず魂が抜けるかと思った。
 まさか、こう返されるとは思わず、は口をぱくぱくさせた。
 星彩の背後では、やはり関平がぎょっとして固まっている。
「互いの親密を確かめ合うのでしょう? では、私にもしていただけますよね?」
 早く、と星彩がきちんと正座して目を閉じる。
 こら、困った。
 趙雲に目で助けを求めるが、趙雲も星彩の申し出にどう対応していいかわからずにいるらしい。下手に間に入れば、先程のように『趙雲殿には関係ありません』とぴしゃりとやられるに決まっている。
 ホンマ、困った。
 関平にも一応目を遣るが、趙雲ですら何とも出来ないのに若輩の関平が何をできようはずもなく、怒ったような泣きたいような複雑な顔をしてを見返すのみだ。
 仮にも劉禅の妻にと望まれている星彩が、その色鮮やかな唇を少し尖らせるようにしての口付けを待っている。
 男だったら、ギャラリー面前だろうが突貫しなければ嘘だといわんばかりのシチュエーションだが、生憎は女であって、しかも真横に趙雲が控えているとあってはなかなか自棄にもなりにくい。
 そうこうしている内に、星彩がぱちりと目を開けた。
「……やはり、すきんしっぷなどではなかったということですか。それとも、私などとは親密になるのはお嫌なのですか」
 憤った声音が震えている。
 だが、星彩の言い分はあまりに横暴で、は少しむっとした。
 星彩と仲良くなれて、本当に嬉しいと思い切り態度に出していたつもりなのに、これではあんまりではないか。
 は、四つん這いでずるずると移動し、星彩の前に身を寄せた。
 剥き出しの膝に無造作にの手が置かれ、星彩は驚いたように目を見開いた。
 顔をぐっと近付けると、脅えたように星彩が目を閉じ、関平が声にならない悲鳴を上げた。
 ちゅ、と小さな音がして、の手は星彩の膝から除けられた。
 星彩は恐る恐る目を開け、細い指でその『頬』を押さえた。
「……趙雲殿と、違うと思います」
 むっとした星彩に、は極冷静に切り替えした。
「子龍とは、私、一緒に暮らしていたぐらい仲良しなんです。だから、まったくおんなじという訳にはいきません」
 ねっ、と力強く同意を求められた趙雲だったが、内心はかなり複雑だ。『仲良し』という響きに、男女の睦まじさは微塵も感じられない。
 頷きはしたものの、何か納得できなかった。
 むっとしたまま唇を噛み締めていた星彩が、突然立ち上がって関平の手を取る。
 引き摺るようにしての前に関平を連れてくると、突き飛ばすようにの前に関平を座らせた。
「では、関平にも同じことができますよね」
 もはや理屈の通らない意地の張り合いと化している。引き合いに出された関平こそがいい面の皮だ。
「せ、星彩、拙者は……!」
「関平、黙って」
 殺気の篭った星彩の目に、関平はたじろぎ口を閉ざした。
 こんな星彩は初めて見る。
 違和感と戸惑いから、元々口下手な関平は何も言えなくなってしまった。
 は、じっと星彩を見詰める。
 星彩もまた、の視線を怯むことなく受け止めた。
 できるわけがない。
 星彩の目が雄弁に主張しているのを見取って、はふっと目を逸らした。
 張り詰めた緊張が緩んだ一瞬、は身を乗り出して関平の頬に口付けた。
 あ、と誰からともなく声が漏れる。
 は関平から身を離すと、星彩を見詰めた。
 これで満足か、と問いかけている。
 星彩の唇が、強く噛み締めすぎて色を失くした。
 ぼろ、と音がする程、大粒の涙が星彩の瞳から零れ落ちた。
 関平が慌てて星彩に駆け寄るが、星彩は関平の差し伸べる手を拒むかのように顔を背け、俯いてしまった。
「……関平」
 趙雲が立ち上がり、関平を手招きする。
 声もなく泣き続ける星彩に離れがたいものを感じながら、しかしこの場に招かれざる人間なのだということもまた、関平には胸が苦しくなるほど理解できた。
 結局、後ろ髪を引かれるようにして関平は趙雲と共に立ち去り、後にはと星彩のみが残された。
 は、やはり黙って星彩の泣き顔を見詰めている。
 星彩もまた、涙を止める手立てを見出せぬままに醜態を晒していた。
 ずる、と音がして、星彩は顔を上げた。
 片足でぎこちなく立ち上がろうとしているに、思わず悲鳴が漏れそうになる。
 慌てて駆け寄ろうと膝立ちになると、が手で星彩を押し留めた。
「私が、そっち行くから。ちょっと待ってて」
 んしょ、と掛け声を掛けながら、足場の悪い岩場をよろけつつ歩くに、星彩はおろおろとするばかりだ。
 だが、は転ぶこともなく星彩の横まで辿りつき、ゆっくりと腰掛けると上がった呼吸を落ち着かせた。
「あのね、星彩殿」
「……はい」
「私は、星彩殿のこと、好きですよ」
 はっと息を飲む星彩は、だが情けなさそうな顔をして俯いた。
 はそんな星彩の顔を覗きこむ。
「星彩殿は、私のこと、どう思ってるんですか」
 顔を間近に近付けられて、星彩はおどおどと身を捩る。
「わ……私は……」
 悩ましく考え込む横顔は、星彩を年相応の女の子に引き戻していた。
「……私……よくわかりません……」
「そっか。じゃあ、わかるとこまででいいから、教えて?」
 気安くが呼びかけるのも、気に出来ずにいるらしい。俯いて、一生懸命考えている風だった。
「私……は……殿のことは、最初は良くわからなくて……私のことを、無双だなんて仰ったりするし……。でも、私もいつの間にか、私も父上のように天下無双の武者になれるかもしれないと自惚れたり……殿の言葉で、少し、自信が付いた気がしたのです……。それから、殿が呉に向かわれることが決まって、私も驚いて……殿は南蛮との境目の村で生まれ育って、中原のことは何もご存じないのに、こんな無茶な話はないと思いました。でも、殿は何も恐れたりなさらずに、毎日調べ物をして沢山のことを学んでおられました。私はそれを見て、殿は何て凄い、素晴らしい方だろうと思ったのです。他国である蜀に仕えて間もないのに、すぐに呉に向かえと命じられて、怯むことなく任に当たられる姿に感動しました。呉から伝えられる報告でも、殿は歌や舞で呉の武将達を虜になさっている、同盟の絆を深める為に尽力されていると聞いていて……私はただ武のみでしかこの国を支えられないけれど、殿には色々な知識や芸の才がおありになる……とても羨ましくて、私、少し悔しくて……でも……」
 星彩はそこで言葉を切った。は、星彩を促すことなく次の言葉を待った。
「……殿と、親しくさせていただきたいと思うようになりました。そうしたら、私でも何かできるのだって、わかる気がしたのです。でも、いいえだから、殿が他の方と仲良くされていると何故かとても不安になって、私、何だかとても焦ってしまうのです。私の居場所がなくなってしまうような……殿の中にある、私の為の何かが誰かに盗られてしまうような、そんな訳、あるはずがないのに……馬超殿のお屋敷に殿がいらっしゃるのも、何だかとても嫌で、たまらなくて、会わせてももらえないなんてこの家はおかしいと思い込んでしまって、殿に何かあるのではと無性に心配になって……あんな、身分の上の方のお屋敷に乗り込んだりしてしまって……。私、愚かです……恥ずかしい……」
 告白を終え、星彩は俯いてしまった。
 は、しばらく星彩を見詰めていたが、よいしょとにじり寄り、星彩の肩に体を預けるようにもたれかかった。
 星彩は驚き、身を竦ませる。
「あのね、星彩殿。孟起のことなら、気にしないんでいいんですよ。身分は何でか高いかもしれませんが、あの子はお馬鹿なんだから」
 え、と星彩は顔を上げた。天下の錦、馬超を『あの子はお馬鹿』呼ばわりするに驚いていた。
 は気にせず続ける。
「あのね、私はね、行き当たりばったりなんですよ。いっつもそうなんですよ。それで子龍にめためた怒られるしね、持ってるものなんかなーんにもないから、変な話行き当たりばったりでいくしかないって思ってるんですよ。ね。歌だって、たまたま好きなだけで上手いってわけじゃなくて、呉の連中はね、変わり者が多いからあんなんでも受けるけど、本当はね、舞だって舞が聞いて呆れる、盆踊りに毛が生えたようなものなんですよ。大袈裟なの。みんな。みーんな、おーげさーに取るから、私も呉では相当嫌な思いしましたし。怪我するし風邪引くしこじらせるし。大変だったんですよ。ね。おーげさーは良くないんです。おーげさーは」
 変に節をつけて『おーげさー』を連発するに、星彩はどう反応していいかわからず、黙ってを見詰めていた。
「星彩殿はね、変にちょっと離れたとこから私を見てるから、そのおーげさーに引っかかっちゃってるんですよ。そうじゃないの。ホントに。何だったら子龍に聞いてみるといいですよ。たぶん、めっさ悪口並べますよ、あのヒト。もう、呉での感動的な別れの時も、ものっすごっく悪口言われましたから。も、ものっっすごっっっく」
 星彩が思わず、親密なのではなかったのですか、と突っ込むと、は重々しく頷いた。
「親密ですよぉ、親密すぎて遠慮がないっスよ、あの男は。この世に子龍と私だけだったらね、私、人生儚んで首吊るかもしれませんよ。もー、超ー親密」
 びっくりして声もない星彩に気付いていないのか、は止まることを知らないかのように続ける。
「もうね、みんな勝手だしね。仕えろーって、もう蜀に仕えてるわけじゃないですか。裏切れるわけないじゃないですか。知らねっつの、もっと他にごろごろ優秀な人材がいるだろって思うじゃないですか。息子だって娘だっているんだから、もういらないだろうって思いますよ。ね。お前は俺のもんだとかね。私は私のもんだって、思うじゃないですか。ね」
 誰のことを言っているのか、星彩には判別がつかない。段々話がずれていっている気がする。
 それはにもわかったのか、突然口を閉ざした。
「……だから、アレですよ。星彩殿は、私ともっと仲良くなるのがいいですよ」
 どう繋がったのかさっぱりわからなかったが、星彩はの予想外の申し出に声を失くした。
「仲良くなったら、あー、このアマそんな大したタマじゃねぇってわかりますから。ちょっと物珍しい話知ってるだけの、ちょっと変わった女なんだー、いっちょ揉んだろうかーってなりますから」
 あ、こりゃ太史慈殿だ、と謎の一言を付け足すに、星彩はすっかり困惑し、けれど焦げ付くような嫉ましい気持ちから解放されていることに気が付いた。
 不思議な方だ。
 星彩は、硬く引き締めていた口元に笑みが浮いたことも気が付いていなかった。
「そんでね、孟起とか気にしないでいいから、もっと遊びに来るといいですよ。私の愚痴とか聞いて、幻滅するがいいですよ。世の中に、そんな完璧超人なんかいないってことを、腕を奮って見せ付けてやりますよ」
 趙雲が居たら、呆れて冷たい視線の一つも送ったかもしれないが、星彩はただ可笑しそうに微笑むだけだった。
「……あのね、私、星彩殿が笑ってる顔、好きだなぁ。だから、もっと笑うといいですよ」
 の唐突な指摘に、星彩は首まで赤くなった。
 あー、可愛いな。
 もにこにこと笑う。
 頑なで真面目なのもいい、けれどもう少し、もう少しだけでいいから、皆笑える余裕があるのがいい。
 蜀の為に何が出来るかわからないが、は皆が笑える国にしたいな、と漠然と考えた。
 星彩が、小さくごめんなさい、と呟き、はその言葉には答えず笑って見せた。
「仲直り?」
 問いかけると、星彩は恥ずかしそうに、はい、と頷いた。
 どさまぎもいいところだし、喧嘩の理由すらよくわからない。また似たようなことが起こるかもしれないが、その時はその時だろう。星彩のガス抜きになるなら、いくらでも付き合ってやろうとは心に決めた。
 空を仰いだ。
 青い。
 けれど、きっともう少ししたら暮れてしまうだろう。
 とても楽しい日になる予定だったが、少し予定が狂ってしまった。
 でも、と傍らの星彩を振り返る。
「また来ようね」
 の言葉に、星彩は微笑んで頷いた。
 すっかり冷え切った体に、山から吹き降りてくる風が冷たくて、はくしゃみをした。

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