馬から危うく落ちかけて、わしっと腰の辺りを掴まれる。
「大丈夫ですか」
 とても大丈夫ではなかったが、大丈夫じゃないとは言えずに黙り込む。
 星彩が心配そうに見詰めてくるのがぼやけた視界の端に映って、は苦笑いした。
 どうも、濡れた体で冷たい風に当たっていたのが良くなかったらしい。背中がぞくぞくとして、寒気がした。吐き気もする。完璧に風邪をひいたようだ。
 先行していた趙雲が、馬首を返して戻ってきた。
「駄目そうか」
 と星彩、どちらにでもなく問いかける。
 見るからに青い顔をして口元を押さえたを、星彩が心配そうに見下ろしている。
「もう少しで馬超の屋敷だが……ここからなら、の屋敷の方が近いな」
 既に成都には戻ってきている。ただ、馬超の屋敷はここからは対角上にあり、馬で急いでも今しばらくはかかりそうだった。
 具合のいいことにの屋敷はもう目と鼻の先にある。
 元々諸葛亮の別宅扱いで、借り受けたも自分が寝泊りできれば十分と言う気質だ。家人を雇い入れてもいなかったので、今は手入れをする者が時々出入りをする程度の、半ば空き家と化している。馬超の屋敷ほどの厚いもてなしは期待できない。
 とは言え、の体がもう耐えられそうもない。寝かせた方が良い、と素人目にもそう判断できた。
「何時戻ってもいいように手入れはしてあるはずだ。、もう少し我慢できるか」
 こくん、と頷くのを見て、馬を止めて待っている関平に進路変更の指示を出す。
 星彩が、先行しようとする趙雲を呼び止め、馬を代わるように申し入れた。
殿のお屋敷ならば、私も存じてます。関平と先行して先触れしておきますから、趙雲殿は殿をお願いします」
「しかし」
「私では、殿をしっかり支えて差し上げられません。趙雲殿なら、殿を前に乗せても馬を繰るのに不自由はないと思います。代わって下さい」
 非常に理路整然とした意見だった。を前に乗せて馬を走らせるには、星彩は体格が似すぎている。支える力は十分でも、ただでさえ男武将より身長の低い星彩では視認に困難になる。ももたれにくかろうし、馬を繰るのに手間取ろう。ぐすぐずと渋る趙雲の方が、この際はおかしい。
「……わかった、では、頼む」
「揺れるのがことのほか体にお応えになるようです、ゆっくりいらして下さい」
 星彩は趙雲にを託すと、身軽く馬を降り趙雲の馬に乗り換えた。
「関平、行くわよ。飛ばして」
 星彩は関平と共に馬を急ぎ駆けさせ、みるみる内に小さくなった。
「……よっわー……」
、起きていたのか」
 ぐったりと目を閉じているので、眠っているとばかり思っていた。
 趙雲はを抱き上げつつ、馬に乗った。
「……降りて、休んでからじゃ駄目……?」
 よほどきついのか、は馬から降りたがった。
「馬を降りても、横にはなれまい? 今しばらく耐えてくれ」
「……よっわー……もう、ホントに体弱っちいな、私……」
 趙雲の懇願には答えず、は愚痴めいたことを言い出した。
「もー少し、鍛え直さないと駄目かねー。どうしたらいいかな。やっぱ、運動?」
「しゃべっていて、大丈夫なのか?」
 話していた方が、気が紛れて楽だ、とは呟いた。
「星彩と話していれば良かったのに」
「だって、何話していいかわかんないもん。変なこと言ったら困るしさ」
 自分にはいいのか、と問い詰めたくなったが、趙雲は敢えて黙った。が自分から泣き言を言うのは珍しい。それこそ、具合が悪いときぐらいしか甘えてはこないのだ。
 呉からの帰還の時に、とんだ醜態を晒してしまった。自粛しようとおとなしくしていたのだから、今ぐらいはを独り占めしていても構うまい、と思い直したのだ。
「……ねぇ、聞いてるの、子龍」
「いや、すまん。何だ」
「だからー……何で、私には槍教えてくれなかったの」
 忙しいからって、嘘でしょ。
 最初、が何を言っているのかよくわからなかった。よくよく聞き出してみると、がこちらの世界に来た時、趙雲に武術を教えろと言い出した時の話であるとわかった。ずいぶん前の話だ。
 あの時は趙雲が頑固に拒んで、結局は馬超のところに師事しに行ってしまったのだ。
 考えてみれば、あれがそもそもの失敗だった。馬超に師事などさせなければ、今頃話は変わっていたかもしれない。
「ねー、何で」
 趙雲は苦笑した。
「何故、そんなことを今頃」
「だって、子龍が教えてくれてたら、ひょっとしたら私、今頃護衛武将とかやってるかもよ? 何か、目が出なかったけどさー」
 そしたら体もむきむきになって、風邪なんかひかなかったかもしれない。
 ぶつぶつと文句を垂れるに、趙雲は苦笑した。
 に回した腕に少しだけ力を篭める。
「この柔らかな心地よい体に、余計な筋などつけようというのか、お前は」
 が、マテマテとじたばた暴れるのを、趙雲はくつくつと笑って押さえ込む。
 落ちるぞ、と脅すと、ようやくは暴れるのを止めた。
「何、子龍は私がマッチョになるのが嫌で、槍を教えてくれなかったと。こう仰るので」
 なんてぇふてぇ奴っちゃ、と文句を垂れるだったが、趙雲にはマッチョという単語が理解できてない。どうせくだらないことだろうと流されているのだが、気付きもしなかった。
 本当は、が武器を持つのが嫌だったのだ。
 人を傷つけるのが嫌だというわけではない。自分が、趙雲という人間がにとっていらなくなる日が来るのが嫌だったのだ。
 武器を取り、才能を開花させ、共に戦場を駆ける。
 一見魅力的にも思えるこの甘言は、実はまったく逆の意味を持つ。
 まず第一に、趙雲の下に配されるかどうかがわからない。配されても、下手に功績など挙げられては軍の再編成をされて、別れさせられる可能性もある。
 戦場に立てば立ったで、の身をひたすら案じることになるだろう。
 一人立ちすれば、趙雲ではない誰かを選ぶことも考えられた。
 あの時の趙雲は、ただひたすらを手の中に閉じ込めておきたかったのだ。蝶の羽をむしり取るようにして、その価値は己だけが知っていれば良い、とさえ思っていた。
 何処にもやりたくなかった。
 誰にも頼らせたくなかった。
 出来得ることならば、目を塞ぎ、耳を封じ、手足に枷をはめて室に閉じ込め、自分だけの物にしたかった。
 我ながら異常だと思ったからこそ、が出歩くのを許し、馬超の元に赴くのも許した。自分の下から離しておかねばならぬ、と危機感を募らせたのだ。
 愛しく思い過ぎる。
 危うい感情を制御し損ねて、を傷つけそうになる。
 それは、あってはならないことだ。
「子龍、痛い」
 気がつかぬ間にを抱く腕に力が篭っていた。の二の腕に置いた指に力が入って、袖に皺を刻んでいる。はっとして離せば、布の持つ弾力が皺を伸ばしていったが、それでも力の強さを示すようにわずかに跡が残った。
「落ちるって」
 今度は力を抜き過ぎて、がしがみ付いてくる。
「子龍、変」
 が呟いた言葉が、趙雲の胸をえぐった。

 と趙雲が屋敷に着くと、管理を託された諸葛亮の家人が飛び出してきた。
 関平は医師を呼びに、星彩は馬超の屋敷に報告にそれぞれ向かったという。
 趙雲は家人に礼を述べ、を抱きかかえてが使っている室に向かう。
「石を焼いておきました故、お持ちいたしましょう」
 が酷く寒がっているのを見て、家人は台所に走っていった。湯も沸かしてあるという。
 趙雲が室に入ると、牀は既に整えられており、牀の脇には水を張った桶と手拭まで準備されていた。
 牀にを横たえると、一瞬の体が大きく震えた。がちがちと歯が鳴り出す。牀の敷布が冷たく感じられたのだろう。掛け布を掛け、その上から撫で摩ってやると、しばらくしてようやく震えが止まった。
 家人が焼き石を仕込んだお包みのようなものを持ってきた。
 趙雲が受け取ると、家人は門で医師を待つと言って立ち去った。
 遠慮もなく掛け布をまくり上げ、の足元に置くと、の顔の緊張が少し和らいだようだ。
「足をつけないようにしろ。でなければ、皮膚を焼くかもしれん」
 こくり、と頷くと、は趙雲に向けて手を伸ばした。
「手、握って」
 子供のようだな、と笑って握ると、はくすっと笑った。
「子龍おとーさん」
 ふざけて言った。
 だが、趙雲の顔がみるみる強張る。ふっと目を上げたが、思わず絶句した程だった。
「……え、そんな腹立つこと言った?」
 いや、と趙雲は目頭を軽く押さえた。顔に翳りがある。
 の顔が不安で青くなった。
「何やってんだ、趙雲」
 も趙雲も、ぎょっとして声のした方を向く。
 そこに、孫策が居た。
 居たというのもおかしな話だ。孫策は、がここに居た時良く使っていた自分だけの出入り口(明かり取りの窓であって、決して出入り口ではないのだが)からひょっこり顔を出していた。
 するり、と入り込んでくるのもいつものことだが、一体何時から居たというのか。
「何だぁ、。おっ前、また寝込んでるのかよ」
 しょうがねぇなぁ、と呆れた風な孫策に、はむきー、と謎の叫び声を上げた。
 孫策は笑っていなす。
「おっ前、惚れられてる男に『おとーさん』はねぇだろうよ」
 突然説教されて、は目を丸くし、よりにもよって孫策に説教されたことに憤る。
「うっわー、伯符に説教されるなんて……説教されるなんて……!」
 ショックを受けている。が、孫策は気にもせずにの頭をかいぐりと撫で回した。
「孕ませたい女におとーさんとか呼ばれてみろ、萎えるから。わかっとけ、そんぐらい」
 なぁ、と話を振られ、趙雲ははぁ、と力の抜けた声で応じる。
「し、子龍はそんなこと思ってないもん! ね、子龍は、思ってないよね!」
 は、やたらとむきになって趙雲に同意を求める。孫策に説教されたのがよほど癪に障ったらしい。
「馬ー鹿、お前、惚れてたら孕ませたいに決まってんだろうが」
「じゃあ、大喬殿はどーなのよ、孕ませてから言えっつの」
「ばっ、お前、大喬とはまだ」
「早くしなさいよ、孕ませたいんでしょうよ」
 趙雲を置き去りに、二人で言い争っている。
 苦笑して、申し訳ない、と突然言い出した趙雲に、と孫策が同時に振り返る。
 いつもの医師殿が、溜息を吐きつつ首を振っていた。その後ろで関平が呆然としている。
 は牀に倒れ伏した。

「風邪の方は、たいしたことはない。だが、今宵はこのままここで休まれると良かろ。次に湯泉に浸かる時は、足だけにしておくことじゃな」
 やはり風にあたったのがよくなかったらしい。叱られこそしなかったが、安静にと言われては頷いた。
 星彩が戻ってきて、の容態を医師に問う。
 たいしたことがないとわかって、ほっとしたようだった。
「馬将軍のお屋敷の方には連絡しておきました。どのみち、私の屋敷の方でお預かりしますとお伝えしましたし、このままでもよろしいかと思います。では私は一度戻り、何か召し上がるものでもお持ちしますね」
 優しげに微笑み、星彩は関平と共に退室した。
 孫策は感心したように唸る。
「っへぇ、あの女、笑うんだな……俺、今初めて見たぜー」
「やらんぞ」
 が即座に突っ込み、孫策を呆れさせた。
「お前、何時からあの女の親になったんだよ」
「親じゃないけど、やらんぞ。星彩殿は、もっと身持ちの固い良い男のとこに嫁にやるんじゃ」
 孫策が、趙雲に何とかしろと目で訴える。
 どうにかできる訳もなく、趙雲は苦笑で応じるのみだった。
「おとうさんって、それだけ子龍のこと身内みたいに思ってるってだけのことだよ」
 突然、が趙雲を見上げて言い出した。
 趙雲は、不意を突かれて黙り込む。構わず、は言葉を続ける。
「ホントに、それだけだよ。含みとか、何にもないからね」
 少し考え込むように小首を傾げる趙雲に、はしつこくホントだよと繰り返した。
「ホントに、それだけなんだからね」
「……わかった、信じる」
 もまた、疑い深く趙雲を見詰めていたが、ことりと頭を敷布に埋めた。
 趙雲が、掛け布から出ていた手を仕舞ってやろうと手を伸ばすと、逆にその手を握り締める。
 二人の様子を伺っていた孫策が、割り込んでの顔を覗きこむ。
「なあ、俺は?」
「伯符は、三河屋」
 孫策の目が、きょとんと揺れる。意味がわからない。
「でなかったら、タマ」
 珠? と複雑そうな表情で首を傾げ、趙雲を見るが、趙雲にも意味がわからない。
 磯野さんちですと謎の言葉を付け足され、二人ともますます混乱する。
 は言うだけ言って満足したのか、とろ、と瞼を蠢かすと、そのまま眠りに落ちてしまった。
 孫策と趙雲は、眉を顰めて向かい合い、横目でを見遣る。
「……どういう、意味だ?」
「……さぁ、私にも分かりかねますが」
 が深い眠りについたのを確認し、二人は隣室に移動して星彩達の帰りを待つことにする。
「じゃあよ、どういう意味だと思う?」
 どうしても気になるのか、孫策のこの一言がきっかけで、二人は頭を悩ませ始めた。

 が目を覚ますまでの間、食料を携えて戻ってきた星彩と関平を巻き込み、『三河屋』『タマ』『磯野さん』の謎を諸説紛々として活発に議論することになることを、は高いびきのままで知らずにいた。

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