馬岱が馬超の室を覗くと、我侭な従兄は行儀悪く足を投げ出していた。
 本体は隠れて見えなかったのだけれども、長椅子の背もたれ越しに足がはみ出している。とんだ錦もあったものだ。
 いつもは、ここまでだらしないことはしない。よほど機嫌が悪いのだと思われた。
「……従兄上」
 応えは、ない。
「従兄上」
 長椅子の背の足も、ぴくりとも動かない。
「従兄上、耳が聞こえなくなったのですか」
「勝手に入ってくるな」
 ようやく返事をしたと思えば、こんな憎まれ口をきく。
「外から何度もお呼びしたのですが、お返事いただけなかったもので。用件のみ申し上げますから、お聞き下さい。趙将軍がお出でです」
「帰らせろ」
 即答だった。
 言い訳ぐらい付け足せばいいものを、と馬岱は溜息を吐く。
「……まだ途中なのですが、ではそのように。一応言っておきますが、殿もご一緒されておりますよ」
 途端、背もたれの足が沈み、代わりに馬超がひょっこり顔を出した。
 驚いた顔をしている。
 馬岱は、構わず従兄に背を向けた。
「た、岱」
 焦るあまりにどもる馬超に、返事もせずに出口に向かう。
「岱っ!!」
「はい、何でしょう兄上」
 今、初めて気がついた、という風に馬岱が振り返る。
 絶対に最初の声掛けで気付いていたはずだ、と馬超は歯噛みするが、馬岱のささやかな意趣返しに怒鳴りつけることもできない。
「……庭で待たせておけ、すぐ行く」
 あくまで歓迎すべからざる客だ、と意思表示を貫き、馬超は着崩した襟を正した。
 何と頑固な従兄だろうと、むしろ感動する勢いで、馬岱は馬超に惜しみなく白い目を向けた。

 馬超が出向くと、趙雲はを馬に座らせ、自分はその轡を取って立っていた。
 屋敷にも入れない無作法に腹を立てているのか、珍しく冷静な男が眉間に皺を寄せている。
 だが、馬超はが馬に乗せられたままなのが気に入らなかった。
 遠い。そして隔てられている。
 先程はあの孫策に、今度は趙雲によって距離を保たれている。
 このことが意味する幾つかの結論に、馬超は苛立っていた。
「こんな夜更けに何の用だ。無礼にも程があろう」
 馬超の背後で、馬岱が頭を押さえている。
 趙雲の目が険しく歪んだ。
「無礼というなら、そちらが無礼だろう。夜更けとは言え丞相の使いで来ているのだぞ」
 初耳の事柄に、馬超は馬岱を振り返るが、馬岱は素知らぬふりだ。意趣返しは続いているらしい。
 何か言い返そうと無駄な抵抗を試みる馬超だったが、開けた口は何の言葉も紡ぐことなく閉ざされた。
「……それは……申し訳なかった……。して、その用向きとは」
「丞相の私用故、馬将軍がご迷惑というならこのまま下がらせてもらおう。いいな、
 それまで黙って事の成り行きを見守っていたは、うぇ、と頓狂な声を上げる。
「ちょ、子龍、私は……」
「あぁ、お前が丞相に頼み込んで私を借り受け、ここまで連れて来させたのはわかっている。だが、当の本人がこう申されているのだ、ここは日を改めるなり場を改めるなりしたが良かろう。馬将軍も、それで如何か」
 趙雲の言い様から事態を理解した馬超は、慌てて趙雲の馬の手綱を握り締めた。
「何か」
 冷たく言い放つ趙雲は、情け容赦なく馬超を睨めつける。
 どうして不機嫌なのかがわかった。
 上役命令とは言え、恋敵に想い人を届ける役を押し付けられ、心穏やかであれと言うのがそも無体だ。
 更に補足すれば、姜維がその役割を命じられるところを、それなら孫策を押さえておくからと上手く逃げ出してしまい、の傍にいたというだけで趙雲がうかうか命を拝する破目になったのである。
 あの姜維が、まさか諸葛亮の命を逃げてかわすとは思っていなかっただけに、してやられた感の強い趙雲は、ここまでの道程ずっと不機嫌だったのだ。
 黙りこんだまま手綱を放そうとしない馬超に、趙雲は深く溜息を吐いた。
「……お前はお前で、との再会を楽しみにしていたに違いないが、私とて、職務を離れてと過ごすのを楽しみにしていたのだ。何が気に入らぬかは知らぬが、童のように不貞腐れるのは止めたが良い」
「童だと!」
 趙雲の物言いに、馬超が噛み付く。
 深い溜息を吐き、趙雲は馬上のを抱き上げ、そっと地面に下ろした。
に負担をかけるような真似はするな。呉での慣れぬ生活と船旅で、疲れているのだ。少しは気遣ってやれ」
 馬超は、はっとしてを見る。
 少し痩せた、というよりやつれたような気さえする。疲労の色が、庭に置かれた篝火で尚濃く見えた。
 馬超は、気がつかなかったとは言えを思いやれなかった自分を恥じた。
 とは言え、生来の気性が邪魔をして、謝罪の言葉は出てこない。唇を尖らせるに留まった。
「……私は失礼する。馬岱殿、をよろしく頼む」
「謹んでお預かりいたします」
 その言葉こそ、屋敷の主である自分に向けられて然るべきだろうと馬超は文句を垂れたが、趙雲にも馬岱にも軽く流された。
 趙雲は、気遣わしげにの髪を撫で、も趙雲に向け謝礼と体調の気遣いを口にした。
 睦まじい空気に、馬超は、一度納まりかけた悋気がまたしても顔を覗かせるのを感じる。
 馬超、馬岱に拱手の礼を取り、もう一度の頬を撫でると、趙雲は馬に跨り帰って行った。
 が馬超を振り返ると、例えようもなくわかり易い表情を浮かべていた。
 溜息を吐くに、馬超は更に虫の居所を悪くする。
「……牀くらいは貸してやる、さっさと来い」
 馬超はくるりと背を向けると、屋敷の奥に向けて歩き出す。
 しかし、は何をしているのか、ぐずぐずと立ち竦んでいる。
 さては趙雲との別れが名残惜しいのかと、ぐっとこみ上げる苦いものを噛んで耐える。
「何をしている、さっさと来い!」
 おろおろしているに、馬超は苛立たしさを隠せない。
 嫌ならば、来なければいいのだ。
 来たいと言っていた、という趙雲の言葉とは裏腹な態度に、さては軍師殿の命令で嫌々来たかと馬超は荒れる。
 その時、すっと抜け出すように動く影があった。馬岱だった。
 馬岱は、の傍に立つと、その身を軽々と抱き上げた。
「なっ……」
 従順な従弟の、思いがけない行動に馬超は驚愕する。
 固まって動かない従兄に、馬岱は深々と溜息を吐いた。
「……まさか、お気付きで、なかったとか?」
 馬超ももきょとんとし、馬岱を見詰める。
 同時に互いに視線を向ける二人に、馬岱は苦笑を禁じ得なかった。
殿、おみ足に怪我をなさっているのですよ」
 へっ、という間抜けな声が二箇所から上がった。
 馬超はに歩み寄り、おもむろにその下裳を捲り上げた。
 ぎゃあ、という色気のない悲鳴が上がるが、馬岱はどちらに呆れていいのかわからない。
 下裳に半ば隠れていた踝に、白い布が痛々しく巻かれている。添え木こそしていなかったが、厚く巻かれた布と滲んだ薬草の色に、怪我の具合が軽いものではないと覚らされる。
「……では、あの男に抱かれていたのは……」
 呆然と呟く馬超の言葉から、はぴんと来るものがあった。
「……あのさぁ、孟起。まさか、まさかまさかまさかとは思うけど、まさかあんた、私が伯符とどーかなったとか思ってたんじゃないよねぇ?」
 凶悪といっていい怒りの気配を滲ませながら、は唸るように問いかける。
 その通りだとは言えなくなって、馬超は黙り込むしかなかった。
 沈黙こそいい証となり、は眉を吊り上げた。怒鳴ってやろうと口をぱくぱくさせるのだが、怒りのあまり言葉にならない。
「……まぁ、まぁ、殿。従兄上とて、恋しい殿と離れた上、成都を離れて連戦に次ぐ連戦をこなし、多少いつもより度を越して焼きもち焼きになっていたというだけの話ですから、可愛らしいものではありませんか」
「こっ……」
 に取っても馬超に取ってもたっぷりと毒の篭められた言葉を放ち、馬岱はあっさりとその場を収めた。
 屋敷内に移動を始めても、馬岱の反論を許さぬ毒舌が続く。
「従兄上も、最初は直接城に赴く予定だったのを、殿が到着する日が近いと知るや行軍を早めて。事情を知っているものは極わずかでしたが、知らぬ者が『さすがは西涼の錦、この行軍の速さの見事さはどうだ』等と言うのをどれだけ渋い思いで聞いていたことか! 殿の帰りに併せるならともかく、想い人の帰郷に併せているなど、口が裂けても言えませぬしねぇ。新参の騎馬の民が、天下の大徳に引き合わせようと急いで下さっているのだと思っていたと知った時にはもう、恥ずかしくて穴があるなら入りたい、なければ掘ってしまいたいと思ったものですよ」
 入ればいい、と馬超がぼそりと呟く。
「何ですか、何か仰いましたか、従兄上」
「……何でもない」
「左様ですか、では話を続けましょうか殿」
 それから延々と、城に戻るなり身支度に入っただの、いつもはまったく構わぬのに、新しくあつらえた装束をわざわざ屋敷から取り寄せたので時間が掛かっただの、折角着飾ったのに宴を途中で抜け出しただのと、馬岱の話は終わる気配さえ見せない。
 馬超にとっては恥晒しとしか言いようがなく、にとっては馬超がどれほど深く自分を想っていたかをくどく話されて、両人とも顔が焼ける思いだった。
 聞かぬ振りをして廊下を先行していた馬超だったが、不意に背後の気配が消え、慌てふためいて二人を探す。
 馬岱は、に打ち明け話をしながら手前の角を曲がっていた。
「おい、岱、何処に行くのだ」
 馬超の室とは違う方向に向かって行く馬岱を、馬超は慌てて引き留める。
「はい? 何ですか、従兄上」
「だから、そちらは俺の室の方ではないぞ」
「は? あぁ、はい、お休みなさいませ従兄上」
 はい、殿も、と腕に抱いたを促す。は、良くわからないまま馬岱の再度の促しに応えて、馬超にお休みなさいと頭を下げた。
 馬超は、困惑しつつも馬岱の背を追う。
「……おい、岱」
「何ですか、まだ何か御用ですか。ならば後で室に伺いますから、殿を先に室にご案内させていただきたいのですが」
 馬超が驚き、目を剥く。
「俺の室に連れて行くのではないのか」
「何で従兄上の室に連れて行かねばならぬのですか」
 殿はお疲れなのですよ、と馬岱が可哀想な人を見る目で馬超を見る。
「お話なら、明日なされば良いでしょう。殿、明日のご予定は」
「わ、私は丞相からお休みをいただいてますけど」
「そうですか、従兄上は朝から戦の詳細な報告がてら、城に登城せねばならぬのですよ。これは残念ですねぇ、従兄上」
 ねぇ、と振られて、馬超は呆然と馬岱を見詰める。
 馬岱はにっこりと微笑み、では後程と言い捨て、を連れて奥に向かう。
 が首を伸ばし、心配そうに馬超を見ているのだが、答える元気も出なかった。
 意趣返しは、続いていたのだ。
 あの従弟を怒らせてはならぬのだと、馬超は今宵、改めて思い知った。

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