翌日、春花はご丁寧にも馬車を連れてやってきた。
 馬家の人々が驚くのを他所に、つんと澄ましての元にやってきて、何も言わずにさっさと荷物を纏め始める。
 これにはさすがのも黙ってはおれなかった。
 馬超も馬岱も城に上がっていて留守なのだ。世話になった家の主に一言もなく立ち去るわけには、どうしてもいかない。
 ちょうど馬岱に懇願されたこともあって、がそう諭すと、春花は唇を尖らせて反論に転じた。
 曰く、この家に来ての足の治りが悪かったこと。
 曰く、家人がしゃしゃり出て主との婚姻を取り成そうとする家になど、大事な女主人を置いてはおけないこと。
 曰く、もそろそろ城に参内しなければならない頃合であり、この屋敷に留まっていては支度もままならないこと。
 その他にも色々と細かに付け足されたが、具体的にはこの三つだったろう。
「ご挨拶には、後日改めて伺えばよろしいではありませんか!」
 そう言って力強く拳を握る春花に、はほとほと困り果てた。
 蜀に戻ってから特に、春花の強硬さには手を焼いている。前から頑ななところはあったが、むしろ一途というべき純粋な感があったからこそ黙って従っていた。
 何が変わったかといえば、とにかく他者へ向けられる攻撃的な口の悪さだろう。
 以前はむしろ事の善悪を正しく飲み込んだ上で、最終的にはの迂闊さをのみ責めていた様な気がするのだが、ここ最近は特にイラついたように喚き散らす。
「……馬車なんて、よく準備できたね」
 話を一度そらして春花の頭を冷やそうと思った。
 春花はえへんと胸を張り、姜維に借り受けたと言った。
「姜維様はさまのご上司であらせられますから、私のお願いもすぐ聞き届けて下さいました」
 理屈がイマイチ通っていない気がするが、敢えて無視した。春花のご機嫌を良くして、うやむやのうちに丸め込まなくてはならない。
「伯約が。じゃあ、わざわざ姜維のところに行ってくれたの?」
 途端、ふつっと口を閉ざしてしまう。何だ何だと汗をかきつつ伺うと、春花は不貞腐れたように頬を膨らませた。
「……姜維様、さまのお屋敷をよく見回って下さっているそうで。昨日も、空いた屋敷に賊などが潜んではならぬからとお越し下さったそうで……でも、勝手にさまの室に入っておいでで!」
 憤懣やるかたないと言ったように喚きだし、は慌てて春花の頭を撫でる。
 姜維が何故の室に居たのかはわからないが、姜維の気持ちを始めて知った時の状況が蘇った。たぶんあの時のように、の残り香でも求めて室に足を踏み入れたのかもしれない。
 姜維と馬超はそれほど親しいわけでもなく、また相手の立場を思いやるというかどこか受身な者同士、率先して交流しようという風でもない。
 が馬家預かりになって、一番尻込みしていたのは姜維だったろう。それが証拠に、ここに来てからまだ一度も姜維の顔を見ていない。
 姜維の性情を鑑みればむしろ当然といえば当然で、は姜維も忙しいのだろうくらいにしか考えていなかったのだ。
 仕事のことを差し引いても、姜維に会いたいなと思った。
 蜀にあるの立場を一番理解してくれているのは、恐らく同じ他所者であり、武将を兼任しているとは言え文官としても立ち働く姜維だろうと思えた。
 何より姜維はがこの蜀でもっとも美しいと思った光景を贈ってくれた人であり、呉に旅立つ前にどうしてももう一度あの場所に連れて行ってほしかった。
「伯約は? 来てるの?」
 の声がわずかに弾んでいるのに、春花は苦々しい顔つきを浮かべた。
「来られてません、姜維様とてそれほどお暇な方ではありませんもの」
 つんけんと答えるもので、はまた戸惑いを覚える。
 姜維の話も鬼門らしい。
 何か他の会話、と考え、これならばと勢い込む。
「でも、春花だったらてっきり子龍に頼むかと思ったな、馬車」
 春花の大好きな、お勧めの趙雲の話なら少しは気を緩めるだろう。
 そう思ったの目論見は、呆気なく崩れた。
「趙雲様になんか、お願いしたりしません!」
 眉を吊り上げ、さっと顔を白くする。汚らわしいと言わんばかりで、はぎょっとたじろいだ。
「……いいから、帰りますよさま! ここは、さまの御家ではないのですから!」
 ばさばさとそこらのの私物をかき集めて行李に叩き込んでいる。の荷物を乱暴に扱うなど、到底春花らしくない。
 は思わず手を伸ばし、春花を抱き寄せた。
 胸の上に手をおいたもので、その胸がほんのりとまろくなっているのが知れる。
 まだ幼い少女だと思っていた春花に女の気配を感じ、ははっとして手を引っ込めた。
 春花の顔が、傷ついたように引き攣り、見る見る間にその大きな目に涙を浮かべた。
さま、春花が嫌いになってしまわれましたか」
 そんな訳がない。
 ふるふると首を横に振ると、だが春花も同じように首を振る。
「お嫌いになってしまわれたのでしょ、だから春花がこんなにお願いしてもお聞き届け下さらないのです。春花は、何時でもさまのことを案じております。けれど、さまは春花の言葉など何も聞いて下さらない。だから、殿御に大切なお体を好きにさせておしまいになるのだわ。さまは、春花なんかより、趙雲様や馬超様がお好きなのでしょ? 春花のことなど、どうでもいいとお思いになってらっしゃるのでしょ?」
 そんなわけがないと言い募っても、春花は聞きたくないといわんばかりに激しく首を振る。
「もう、もう結構です。さまは、さまのお好きになさればいい、春花は、もうさまのおそばにいられません。もう、今日限りです、よろしいですねさま!」
 ヒステリックに叫ぶと、春花はの荷物を投げ出し室から出て行こうとする。
 も慌てて追おうとするが、慌て過ぎてひっくり返ってしまった。
 大きな音を立てて転ぶ音に、春花は一瞬心配げに奥の室へと視線を向けるが、すぐに振り切るように視線を前に向けた。
 そこに、星彩が立っていた。
「……退いて下さい」
 星彩は無言で立ちはだかる。
「退いて下さい!!」
 春花が喚き立て、ちょうどその時、がよろめきつつ姿を現した。
 杖もなく足を引き摺るの姿に、星彩の目が鋭い光を放つ。
「退いてあげてもいいけれど」
 その目に見詰められ、春花は怯んだように黙り込んだ。
「いいの?」
 春花はぐっと唇を噛み締め、二度三度痙攣したように身を震わせた。
 がくんと膝を着きわんわんと泣き喚く春花を、は後ろから包み込むように抱き、星彩はそんな二人をやや複雑そうな顔をして見下ろした。

 誰にも取られたくなかった。
 春花がそう言い出し、は初め、何のことかと途方に暮れた。
「……趙雲様も、馬超様も、孫策様や姜維様だって、皆様とても良い方ばかりで、さまにとっていずれも不足のない素晴らしい方だとわかっております。でも、春花は嫌なんです。何方の元にも、行って欲しくないのです」
 には春花だけがいれば良くて、他の男は花の蜜に引き寄せられる蜂の如き存在であればいい。春花は懸命に毎日蜂どもを追い払い、蜜を失わずに済んだ花はいつまでも綺麗に咲き誇っていられるのだ。
 目の前で春花がぐすぐすと泣きじゃくっていなければ、も『何かエロいなぁ』と茶化しておられるのだが、状況が状況だけにそうもいかない。
「んな、たいしたもんじゃないよ、私」
 困って、何とか春花を宥めようと口を開くと、星彩が無言で『黙っていて下さい』というオーラを射出してきた。
 星彩に気圧されてが黙ると、星彩は春花の小さい手を取り、大きく頷いた。
「わかるわ、貴女の気持ち。……男だったら殿を他の奴には渡したりしないのに、でも、女だからこそ殿の側に居られる。そんな気持ちの板挟みになるのでしょう?」
 春花が弾かれるように顔を上げ、また涙をぼろぼろと落とした。
「……私、さまとずっと一緒にいたいのです。でも、誰にも取られたくないのです。男の人なんかにさまを好きに扱われるのは、とてもとても嫌なのです。男の人はみんな、さまを連れて行ってしまう、私の分のさままで全部連れ去ってしまう、私はそれが嫌なのです。悲しいのです」
 星彩は、春花の言葉一つ一つにこっくりと頷いている。
 の見立てとしては、思春期にありがちなヒステリーの一種だろうと思われた。大事な友人に彼氏が出来て、途端付き合いが悪くなった時に感じるアレだ。
 友達が複数ならばわいわいと騒いで、あいつはもうハブだ、女の友情なんて所詮はもろいのだと罵ったりやっかんだりも出来ただろうが、春花の場合は事情が少し特殊で、それこそ無二の親友であり唯一の愛情と信頼を向けていた相手のことだけに、煮詰まりすぎて少し歪になってしまったのだろう。
 要するに、に対して春花の女の独占欲が剥き出しになったのだ。
 には今ひとつわかりにくい感情だったが、察することも出来ないではない。
 ただ、やはり自分がその対象になっているのには理解しがたいものがあったが。
 あれだけ趙雲のことを気に入って推していたのに、こうも手の平返したように態度を改めるということは、趙雲との間に何かあったのだろうか。
 この間の3Pがバレたとか。
 当たらずとも遠からずな気がして、はそっとやさぐれた笑みを漏らした。少女から女への過渡期、ただでさえ純潔だ清潔だと過敏になる年頃の娘に、3Pやったのがばれでもしたらただでは済むまい。
殿」
「ぅひゃい」
 冷たく鋭い声に考え事から引き摺り戻され、はすっ頓狂な声を上げた。
「春花のしたこと、たしかに少し言い過ぎにも思えるけど……でも、これはすべて、殿の身を案じてのことだと思います」
 それはよくわかっている。
 がこくこくと頷くと、星彩はこくりと頷き返してきた。
「それに私も、殿は一度ご自分のお屋敷に戻られた方がいいと思います……やはり、いくら警備が行き届かぬからと言って、それで馬将軍が殿の面倒を見るというのは筋違いに思えますから」
「え、いや、だから、帰るのはいいけどせめて直接お礼なり言ってからとか」
 それから移動してもいいのではないだろうか。
「ええ、ですから、殿は一度お屋敷に戻られて荷物をまとめ、そのまま城に向かいそこで寝泊りされればよろしいかと思います。城に出向いてから馬将軍に挨拶に赴き、事情を説明してお礼なり謝辞なり申し上げられては如何でしょうか。これなら、警備の必要もありませんし。春花のことは、私が掛け合って何とかいたします。それでいいでしょう?」
 星彩は確認を取るように春花を振り返った。
 春花も、星彩の言葉を聞いているうちに頭が醒めて己のしたことを理解してきたのだろう。恥ずかしそうにもじもじしていたが、やがて頭を深々と下げた。
 大岡裁きのように鮮やかに解決策を提示する星彩に、は思わず拍手を送った。
 星彩は頬を染め、面映そうにを見上げる。
「……私も、春花の気持ち、わからないではありません……本当に、殿の周りの男達は好き勝手しているように見えますから」
 声にわずかな怒気が見え隠れし、はどっと汗をかいた。
 が焦るいわれなど何もないのだが、それでも、何故自由にさせていると叱られたような心持ちになったのだ。
「……ご、ごめんね、何か」
 思わずびびりながら頭を下げると、星彩は再び頬を赤らめて俯いた。
「いいのです、だって……さまは、わ、私の姐々……ですもの……」
 珍しく震える頼りなげな声に、も釣られて頬を染める。
―――何じゃこの妖しげな空気は。
 たらりと汗が流れるのを感じる。
 脇目に、春花がむっとしているのが映る。
 蜀もまた、端のほうとは言え情熱大陸に存在する国だったのだ。
 は、これ以上事がややこしくならないようにとひたすら念じるばかりだった。

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