うやむやの内に星彩が護衛となって、は馬家を出た。
 必ず一度挨拶に来るから、と頭を下げると、馬岱付きの家人は複雑そうな面持ちながら、引き止めることなくを見送ってくれた。
 一度貸し与えられた屋敷に戻り、諸葛亮から賜った書簡などを積み込んで城に向かう。
 星彩のお陰か城門もすんなりと通行することができ、は昼過ぎには自分の執務室に腰を落ち着けられた。
 この頃になると、春花は自分のしたことを冷静に振り返ることができるようになったようで、しゅんとしょげ返っている。
 馬岱付きの家人を図々しいだの厚かましいだの詰っていたが、自分こそが図々しくて厚かましかったと半泣きだ。
 はそんな春花の頭を撫でて慰めると、執務室に連なる私室を片付けてくれるように頼んだ。
 体の小さい春花は見かけによらない根性の持ち主で、だからうっかりしていたのだが、呉への移動の疲れは以上に溜まっているに違いない。
 ここのところカリカリしていたのも、全部そのせいだと考えれば合点がいく。
 は、その足で馬超の執務室に向かうことにした。星彩や春花が供を申し出てくれたが断った。これぐらい一人で行くと言い張ると、ではせめて、と星彩は、春花の城への出入りの許可を取り付けられるようにと自ら手配を申し出てくれた。
 そうしてもらえれば有難い。春花は通いの侍女なので、城に上がれないではの面倒など見られようはずもないからだ。
 本来から主であるがやるべき仕事なのだが、馬超並びに馬岱の説得は骨が折れそうだったし、手配するなら早い方がいいに決まっている。
 礼を述べると、星彩は何と言うことはないと首を振った。
殿にとっては、春花が妹のような存在だということはよく存じ上げてます。殿の妹だというなら、私にとっても妹みたいなもの。どうか任せて下さい」
 ね、姐々、と付け足し、恥ずかしそうに笑う。薫るような清楚な華やかさがあり、こんな綺麗な娘が何の見返りもなしに自分を姉と慕ってくれるのは本当に嘘のようだった。
 戸惑いを押し隠し、お願いしますと頭を下げ、は馬超の執務室を目指した。

 馬超は生憎練兵の為に出ているという。
 といっても、城下近くでの話だからそろそろ戻ってくるだろうということだった。
 一度戻ろうとが背を向けると、既に顔馴染みの護衛兵はを笑って引き留め、中で待つように勧めてくれた。
「他の誰かならお叱りを受けるやもしれませぬが、逆に殿ならば、何故留め置かなかったとお叱りを受けましょうぞ。どうぞ私共を助けると思って、中でお待ちになっていて下さい」
 扉を大きく開けを誘うと、護衛兵は椅子を持ってきて窓際に置いてくれた。
 おみ足ご自愛下され、と言い残し、人懐こい笑みを浮かべて持ち場へ戻っていった。
 思うに、馬超配下の兵は軒並み気が利く者ばかりだ。馬岱の躾が良いのかもしれないが、なんとなく悪妻は夫を育てるという言葉を思い出した。
 馬超が『悪妻』だとは言わないが、馬超の無鉄砲さや危うさが部下を良い方に導いているように思えてならない。悪口ではなく、それが馬超という人間の魅力の証の一つなのかもしれないと思った。
 馬超も、の相手として申し分ないと春花は言っていた。
 だが、からすると恐れ多くて冗談でも言えない話だと思うのだ。馬超の相手として、自分が相応しいとは到底思えない。馬超に何をしてやれるかと考えると、本当に何もないのだ。
 孫策ならば、まだ歌を歌ってやればあやすことぐらいはできる。趙雲は、おかしな話を弄くって遊んでいるような節があるので、まぁいいとしよう。姜維は、の知る現代人の知識と、諸葛亮が寄せる信頼から目が曇っていると思えば何とか納得もできるようになった。
 では馬超はどうかと言えば、これがさっぱり心当たりがない。
 以前、『お前がいいんだ』と言い捨て、自分でもの何がいいのかわからぬと嘯いていた馬超だっただけに、未だに見当がつかないのだ。
 口を開けばガチで喧嘩になることもしばしばだったし、心の安らぎにはほど遠い存在の気がする。馬超がセックスに溺れるタイプには思えなかったし、ならばの体が、何と言うかいわゆる『名器』だとしてもそれで心を傾けるようには思えなかった。
 何がいいんだかなぁ、と考え込んでいると、窓の下を馬に乗った馬超が行くのが見えた。
 白馬に跨り、何やら馬岱と話しこんでいる風だが、のいる場所からはその声を聞くことは叶わなかった。
 笑っているから、軍や執務のことではなく他愛無い雑談なのだろう。真面目一方の馬超は、その点わかりやすい男だった。
 男振りが良いとは馬岱付きの家人の言葉だったが、こうして離れた場所から見下ろしていると、これだけ小さく見えるというのにこれだけ目立つ男も珍しいと思った。
 趙雲も目立つとは思うが、身に纏う服の色が他者と違うということもあり、同系色の服や鎧を纏う馬超とは少し条件が異なる。
 関羽や張飛のように大男というわけでもないから、何故あれだけ目立つのか不思議な気がした。
 じっと見詰めていると、突然馬超がこちらを見上げた。
 ぎょっとしている。
 あまりの驚きぶりに、やはりここに居てはまずかったのかと不安に苛まれた。
 護衛兵に出直す旨伝えようと立ち上がり、杖を突きつつ扉に向かう。
 何やら物音が聞こえ、あれ、と様子を見ていると、扉が大きく開いて馬超が飛び込んできた。
!」
「え、あ、はい」
 自ら扉を蹴破るようにして飛び込んできた馬超に、何事かと肝を冷やす。
 護衛兵も慌てて馬超の後に従い、室に飛び込んできた。
「如何なさいました、将軍!」
「何か急な事態でも!」
 馬超は荒く息を継いでいる。先程まで確かに下にいたはずなのに、どうやってこの短時間に移動できたのだろう。少なくとも馬は乗り捨てて来たに違いない。
 走ったには走ったろうが、ただ走ったのではなく、それこそ全力疾走してきたのだろう。それほど慌てる必要があったのだろうか。
「…………な、何故、がここにいる」
 呼吸を無理矢理整えた馬超は、護衛兵に向け腹立たしそうにを指差した。
「先程お見えになられましたので、私の独断で中にお通しいたしました……お許し下さい」
 護衛兵がうろたえつつも深く頭を下げ、馬超に詫びる。
「ちょ、違うの孟起。その人は、私の足の怪我を気遣ってくれてね、それで」
「そんなことは聞いてない!」
 馬超がを怒鳴りつけ、護衛兵までもが首を竦めてその声量に魂消る思いをしていた。
「お前は、屋敷に居たのではないのか! 何故こんなところにふらふらと出向いている! 早く帰れ!」
「だから、それを説明しにね、」
「説明は帰って屋敷で聞く、いいから今すぐ帰れ!」
 まったく聞く耳を持たない馬超に、はカチンとくるものがあって、売り言葉に買い言葉で怒鳴りだす。
「ああそうですか、でもね、あんたのお屋敷には戻る予定はないから、そちらのお手が空きましたら私めの執務室にいらしていただけますかね! 今日からそちらで寝泊りいたしますから!」
 しからば御免、と立ち去ろうとするの肩が、馬超にがっしり掴まれる。あによ、と不機嫌そうに振り返るの視線の先に、輪をかけて不機嫌そうな馬超の顔があった。
「なんだ、それは。どういうことだ!」
「だから、それを説明しに来たって言ってんでしょうよ! でも、そんなに忙しいんだったらもういい!私は執務室にいるから、後で顔出してくれれば」
「俺は今、訊いている!」
「今すぐ帰れって言ったの、そっちでしょ!」
 護衛兵がと馬超のどちらを諌めたものかおろおろとしていると、馬岱が小走りに駆け込んできた。目配せで護衛兵を立ち退かせると、大きく息を吸い込んでぴたりと止めた。
「お二人とも!!」
 罵声の応酬が止まり、驚いた顔をした二人が馬岱を振り返る。
 馬岱は苦笑し、少し首を傾げてみせた。
「お二方とも、私が室に入ってきたことも存じなかったご様子。しかも扉を開け放したままで……それがどれだけ傍迷惑でみっともないことか、おわかりいただけますか?」
 苦言を呈され、頬を染めてわずかに俯くのも同時で、二人を見ていた馬岱は必死に可笑しさを堪えていた。

 馬岱が茶を淹れ、と馬超は卓越しに向かい合って座る。何だか会談じみた雰囲気になってきた。
「えぇと……何から、話したらいいかな」
 落ち着いて話そうと思うのだが、何をどこから話せばいいのか見当がつかない。
「まず、どうして城に上がられたのか、そこから話していただいてもよろしいですか」
 馬岱が助け舟を出す。
「従兄上が、執務室に殿が居たと仰って。ですが、殿は屋敷に居られるはずだと思っておりましたから、私もそれは驚いたのですよ。人は、何かあった時に居るはずのない場所にその現身が現れるという話もありますから、まさかそれではと思ってしまって。従兄上もきっと、私と同じように思ったのでしょうね」
 そうでしょう従兄上、と振られ、馬超は複雑そうな面持ちで唇を尖らせながら頷いた。
 たぶん、それは馬超が喚き散らした断片から推測したことで、馬岱はそんな風には考えなかったに違いない。
 現に、馬岱は徹頭徹尾冷静を貫いていて、動揺した素振りすら見られない。
 確かに突然といえば突然に過ぎる訪問だったので、も少し反省した。
「……うん、あの、実はね……孟起の家でずっと寝泊りしてるの、春花が物凄く気にしててね。ほら、足の治りもちょっと悪かったじゃない、だから余計ね、心配してたみたいで」
「だが、ここ最近は良かったはずではないか」
 話の腰を折るかのごとく馬超が口出ししてきたが、馬岱に諌められて口を閉ざした。
「んー、ほら、普通はあんまり人様のうちで養生とかってしないわけじゃない? たぶんそれで、何か煮詰まっちゃったんだろうね。あの子、真面目だからさ、役にたってないとか色々考えたんじゃないかな」
 まさかに嫁にいって欲しくないと喚いていたとは言い辛く、は必死に取り繕った。
「まぁ、それでね、だったら執務室で寝泊りしちゃえば、警備の心配も要らないしいいんじゃないかってことになってさ。善は急げってことで、さっき城に来たわけなの。ね?」
 苦しい言い訳と言わざるを得ないが、元々が無茶に過ぎる話なのだ。仕方ない。
 馬超が戻ってきてから挨拶するのが筋だとも考えていたし、だがそれでは馬岱辺りに丸め込まれるのは目に見えていた。春花や星彩がを急かしたのも、恐らくは馬岱の邪魔が入ると見越してのことだろう。
 こっそり馬岱の表情を盗み見れば、ずっとこちらを見詰めていたらしい馬岱の苦い顔付きと目が合う。
 納得していませんよ、と文字に記して書いてあるようだった。
「……あのね、春花、年頃じゃない? だから、ちょっと神経質になってるところもあるのね。呉に行って帰って、ゆっくりできるかと思ったら私が孟起んとこ行っちゃって、孟起のお屋敷で慣れないとこ一生懸命やってさ、たぶん疲れてるんじゃないかと思うの。だからさ、私でできることなら、なるべく聞いてあげようって、そう思ってね」
「もういい」
 馬超が不機嫌そうに頬杖をついた。
「……要するにお前は、俺のことより侍女のご機嫌の方が大切だと、こう言いたいのだろう。ならば構わん、勝手にするがいい。俺はもう、知らん」
 今度は貴様か。
 内心吐き捨てたくなったが、馬超がやさぐれるのも無理からぬことで、は頭を抱えた。
 どちらの気持ちもわかるし、かと言ってどちらかの言うとおりにすれば、もう一方がへそを曲げることになる。
「私だって、孟起の家に居たくない訳じゃないよ」
「だから、もういいと言っている!」
 苛立たしげに茶腕を取り上げた馬超は、その熱さに思わず茶碗を落としてしまった。
 茶碗は卓上で跳ね上がり、に向けて襲い掛かった。
「あっつ!」
 反射で悲鳴を上げて立ち上がると、よろけてひっくり返りそうになる。
 馬岱がさっと抱きとめてくれたが、の着物は腰から下が茶で濡れてしまった。
「大丈夫ですか、殿!」
 馬岱が手巾を取り出すが、拭きとったりすれば茶の持つ熱をの肌に押し当てることになりかねない。
「だ、大丈夫です……お茶自体は、それほど熱くなかったから」
 肌が少しぴりぴりする気もしたが、火傷と言うほどのものではない。
 しかし、お陰で着物は濡れてしまい、が指で摘み上げると茶の雫がじわりと浮き上がるほどだった。
「……着替えないとダメかな」
 ぽつりと漏らしたの言葉に、馬岱はの体を抱き上げる。
 突然のことにが馬岱を見上げると、馬岱はにっこりと微笑み、を隣続きの室へと運ぶ。
「茶で濡れただけですから、しばらく干しておけば何と言うこともありますまい。従兄上も、本日の執務は午前の練兵だけですからどうぞお気になさらずに。私は馬の様子が少し気にかかるので、しばらく従兄上のお相手をお願いしてもよろしいですか」
 やたらと説明的な言葉を一方的に押し付けて、馬岱はを簡素な牀に降ろすなりさーっと姿を消した。
 馬超が複雑そうな顔をしてやって来て、の隣に座った。
「……干してやる、早く脱げ」
「え、あ……うん……」
 そうは言っても、下着の方にまで染みてしまっているから、脱げといわれると全部脱がなくてはならない。
 とりあえず上着を脱ぐと、馬超が椅子の背に掛けて干してくれる。
「……その下も」
 薄い着物だったので、肌が透けて濡れているのがもろにわかる。しかし、これを脱いでしまうと裸同然になってしまうのだ。
「う、いや、これはいいよ」
「今更何を言う」
 とっくに全部見た、と言われれば確かにその通りなのだが、昼日中の明るい日差しの中で一人裸になるのはどうにもいただけない。
「いいから脱げ、また風邪などひかれては厄介だ」
 3Pをした夜のことを思い出し、ぎくりと体を強張らせるが、よく考えれば馬超が知る由もない。単に、星彩から伝え聞いたことを言っているのだろう。
 そろそろと脱ぐと、馬超は何の気なしに脱いだものを取り上げ、干す。
 室の中は割合暖かで、全裸といえど風邪をひく恐れはなかった。
 隣に腰掛ける馬超は、敢えてから目を逸らしているようだ。じっと虚空を見詰めている。
「……昼になったら、ここに来い」
 独り言のような言葉に、は馬超の横顔を見詰める。
「どうせ、歩く練習をするのだろう。ならばここに来て、岱に茶でも淹れてもらえ。そうしたら、許してやる」
 勝手に家を出たことを許すと言うのだろう。
 呉に向かうまでの間、少しでも側に居たいと希われているような気がした。
「……うん、わかった」
 沈黙が落ちた。
 しんと静まり返った室の中で、どれくらいの時間が経ったのだろう。馬超の手がの手に重ねられた。
 も馬超も、何も話さない。
 またしばらく時が経つ。
「……暇だ、な」
「そうだね」
 間。
「……その……服が乾くまで、暖めてやろうか」
 馬超の手が、じんわりと汗をかいているのがわかった。
 は気付かぬふりをして、馬超の肩にそっともたれかかる。
「……うん」
 まだ昼だ、と言う言葉は飲み込んだ。風邪をひくほどではないが、少し寒いのだ、だからと自分に言い訳する。
 心臓の鼓動が早まった。
 肩に馬超の手が回る。
 唇は、相変わらず熱いほどだった。

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