何だかんだで遅くなってしまった。
 火照った顔を冷ますのに時間がかかったし、何より肌に移った馬超の匂いの始末に困ったのだ。
 練兵帰りというだけあって相当汗をかいていたらしい馬超に抱かれ、最中は心地よく感じていたものの、終わってからどうしたものかと頭を悩ませた。
 香油で誤魔化しでもすれば却ってバレバレだし、濡らした布で体を拭った程度では落とし切れそうもない。
 つい先程の春花のキレっぷりが物凄かっただけに、できる限り刺激を与えたくなかった。
 乾いた服を着込み、馬超と悩んでいたところに馬岱が戻ってきた。
 角を突き合わすように向かい合わせて腕組みしている二人に、馬岱は少し唖然としていた。
 どんな難題かと思えば実に他愛のない話だったから、拍子抜けした馬岱はくすくすと笑い出した。
殿はおみ足が悪いのですから、従兄上が抱きかかえていたからと言えば済む話ではありませんか。そう、馬でも見に行ったことにしては如何ですか。私はどなたともお会いしませんでしたし、厩の者も人払いさせましたから、会っておりませんし。そうなさったら如何でしょう、ね」
 馬岱と一緒に行ったとなるとどこかで目撃されているかもしれないが、馬超とで後から行ったということにすればそれほど追求されることもなかろう、ということで納まった。
 途中までは馬超が抱きかかえて送り、その後は杖を突きつつ歩いて執務室に戻った。
 春花に気遣ったのだ。
 だが、執務室には誰もいなかった。
 おかしいな、ととりあえず椅子に腰掛け、ぼーっとしていると星彩が戻ってきた。
「お戻りでしたか」
 星彩の何の気ない言葉にも、秘められた意図を感じては焦ってまう。
「お、遅くなりまして」
 むにゃむにゃと口の中で呟くと、星彩は廊下の外を伺ってから扉を閉める。
 かんぬきをかけるので、何事かと目を見張る。
 星彩は、の元に近付いてくると、お耳を、と言って屈みこんできた。
 豊かな胸元の谷間が露になり、同性ながらどきっとさせられた。色が白いのはわかっていたが、布地のもたらす陰が暖かな血色の朱を差していて、尚更猥褻な印象をもたらしていた。
 目が釘付けになってしまい、だから星彩の言ったことが一瞬理解できなかった。
「春花が、月のものを迎えました」
 はっ、と素っ頓狂な声を上げてしまう。
 星彩は口元にわずかに苦笑を浮かべ、もう一度同じことを繰り返した。
「つ、月のものと言うと、あの、月のもの?」
 我ながら何を言っているかわからなかったが、星彩は察してくれたようでこくりと頷いて返した。
「春花が」
 絶句してしまうが、よく考えれば春花とて女の子なのだから、いつかは初潮を迎えて然るべしなのだ。が驚くようなことではない。
 体の変調が、あの苛々を招いたのだとすれば至極納得もできた。
 のそばに居ればそれなりに『男女の仲』にあてられることも多かったろうし、生まれてこの方蜀から離れたことのなかった春花が、呉という遠い土地に旅した経験も体の変化を促す要因になったのかもしれない。
 春花が幾つかは知らなかったが、体が小さな春花は実に幼く見える。そうだと言われれば7〜8歳とても違和感がなく、それでは驚きを禁じえずに居たのだ。
殿が出かけられてすぐ、お腹が痛いと言い出して。厠に行ったまま戻らないので、心配になって見に行ったらうずくまってしくしくと泣いていたのです。理由を聞いたら、血が出ていると言って」
 知識はあったらしいが、自分の場合と結びつかなかったらしい。悪いことをしたから罰が当たって、死んでしまうのではないかと脅えていたそうだ。
 自分が居ない間に、と考えて、は情けなくなった。
 付いていて上げれば、そんな怖い思いをさせずに済んだかもしれない。
 顔色から察したのか、星彩はのせいではないと慰めてくれたが、の心は憂鬱だ。
「ともかく、一度家に帰らせました。しばらく休むよう申し付けましたが、よろしかったでしょうか」
 もちろんだ。
 星彩の気遣いに感謝して、は深く頭を下げた。
「春花のお母さん、家に居てくれるといいんだけど」
 病気でないにせよ、自分の体の中から勝手に血が流れ出すなんて、初めての経験なら落ち着かないに違いない。
 これはこういうものなのだと納得し、理解するにはそれなりの時間が必要だ。
 やはり自分が付いていた方がいいのではないかと星彩に尋ねると、星彩はいかにも可笑しそうに笑った。
殿がおそばに居ては、たぶん却って落ち着かないでしょう。長くとも5日6日の話ですから、殿もご辛抱なさって下さい」
 言い切られて、も不承不承頷いた。
 自分の時はどうだったろうかと思い出そうとしたが、遥か昔の話でよく思い出せない。
 星彩に尋ねると、さすがに覚えていたのか、少し頬を染めた。
「私の時は、母がそばに居てくれましたから、特に何も。母がすべて面倒を見てくれましたし、しっかり言い聞かせてくれましたから、それほど不安も感じませんでした」
 星彩の母は、確か夏侯の血筋の人だったと記憶している。
 攫われたのだか意気投合したのだかは知らないが、星彩という娘をしっかり躾けているのは間違いなさそうだ。
 いいお母さんだねと誉めると、星彩は恥ずかしそうにしながら、はい、と頷いた。
 親の影響は大きいよな、とは改めて感じていた。

 星彩が帰って、はふと思い立って諸葛亮の元を訪れた。
 突然登城したを見て、諸葛亮も少しは驚くかと思ったのだが、通されてみるといつもの穏やかな笑みを浮かべたいつもの諸葛亮が出迎えてくれた。
 何だかがっかりしたが、諸葛亮に肩を抱かれて椅子を勧められ、逆にこちらがびっくりさせられた。
 冷たいと勝手に思い込んでいた手は暖かく、そして大きかった。
「足の具合は如何ですか」
「お、おかげさまでだいぶ良くなってます」
 それは良かったと形式的な返事が返ってくる。
 諸葛亮はそれきり口を閉ざし、ただ口元に微笑を浮かべるのみで、は何を話していいのかわからなくなり俯いた。
 しばらくそうして沈黙していたが、諸葛亮はいつもの白扇を取り出し、はたはたと扇ぎだした。
「いけませんね、そのようなことでは」
 困った方だ、と嘯く諸葛亮に、は何のことかと目を丸くする。
「そんな風に顔を赤くして、俯いて黙り込んで。面白いではありませんか」
 面白いではありませんかって、はい?
 はぽかんと口を開け、諸葛亮を見詰める。
 途端、白扇に隠れてくすくすと笑い出す諸葛亮に、は顔を真っ赤にして俯く。
「ほら、面白い。これでは、呉の諸侯が貴女に夢中になっても仕方ないと思いますよ」
「む、夢中って、そんな」
 自覚がないと指摘され、は首を竦めた。
 諸葛亮は白扇を卓に置き、の顔を繁々と眺める。視線が顔にちくちくと当たって、くすぐったいような気がし、はもぞもぞと身動ぎした。
「百面相と言うのでしょうか、貴女は美しいひとではありませんが、表情が豊かで見ていて飽きません。無防備で開けっぴろげで、それでいて繊細で頑ななのですね。貴女を知れば知るほど、もっと知りたくなるような底の知れなさがある。不思議な方だ」
 誉められてんだか貶されてんだかわからない、とは冷や汗をかいた。
「自覚してやっているのならば、立派な処世術と言えましょうが……貴女のは無意識のなせる業ですからね。さて、どうしたものか」
 何の話だろう。
 が思い切って尋ねると、諸葛亮の顔から笑みが消え、憂鬱そうに溜息を吐いた。
「呉の……孫堅達が、貴女を気に入るだろうことはわかっていたのですよ。貴女の見える部分は、呉に向いているように見えますしね。ですが、予想以上に気に入られ過ぎたように感じます。呉に遣れば、二度と蜀に戻してもらえぬのではないか……私の危惧は正にそこにあるのです」
 二度と蜀に戻れなくなる。
 心臓が跳ね上がるようにどくんと鳴ったのが聞こえた。
「貴女の本質は、殿の……大徳にこそ沿うものと私は見ています。けれど、貴女は優し過ぎるから、囚われて囲まれてはいつかこの蜀を捨てかねない」
「私、そんなこと……!」
 諸葛亮の言葉に思わず叫んでしまうと、諸葛亮はを優しく諭すように一つ頷いて見せた。
 年下のはずの諸葛亮の頷き一つで、の言葉は閉ざされてしまう。
 これが器の大きさかと考えると、は唐突に、周瑜や次代を担う呂蒙や陸遜達と自分が渡り合っていかなくてはならないのだという現実を突きつけられたような気がした。
 周瑜達はの甘さを容赦なく突いてくるだろう。それは、蜀の外交にとっては大打撃となるはずだ。
 なまじ良くしてもらっていただけに、今度はおまけではなく正式な蜀の使いとして赴かねばならないことがの心を陰鬱にした。
「ほら、やはり面白い」
 突然諸葛亮が笑い出し、今度はずいぶん長くくすくすと笑い続けていた。
 訳もわからず笑われることほど腹立たしいものはない。
 が膨れっ面を向けると、諸葛亮はようやく笑うのを止めた。
「……貴女は、他者からの言葉に面白いように揺れる。己の保身や見得のためでなく、蜀のため、他者のためにゆらゆら揺れてしまう。そういう方は、この中原でもそうは居りません。だから皆、貴女に夢中になるのかもしれませんね」
「……そんなこともないと思うんですけど……」
 しかし、夢中なんたらという話はともかく、揺れ惑うのは本当だ。
 はいつも揺れている。揺らされている。
 情けないことだと思うし、もっとしっかりしなくてはと何度も誓ってきた。
 けれど、その誓いは何時の間にかあっさり破られ、何度も何度もふらふら揺れる。
「呉に……行かない方が、いいんでしょうか……」
 蜀の使節がこんな奴では、諸葛亮の面子どころか蜀の沽券に関わるのではないだろうか。
 自分の為に蜀が馬鹿にされるのは、どうにも我慢できなかった。
「残念ながら、行ってもらわねばなりません。孫堅殿たっての望みですし、貴女が呉の連中に心を許しても蜀への忠誠を捨てられる方ではないとわかっています」
 その点は安心なのだが、と諸葛亮は目を細めた。
「心配なのは、むしろ貴女自身の方です。呉の連中は躍起になって貴女を掌中に収めようとするで
しょう。貴女の中の蜀への忠誠が、貴女を引き裂いてしまうのではないかと……」
 それだけが心配なのだ、と諸葛亮は眉を曇らせた。
「何せ、孫堅殿はあの通りの男です。加えて、孫策殿は逆に裏表のない素直な性質ですし、孫権殿にいたってはお家大事なところがありますからね。孫家の男たちだけでもかなり手を焼きそうだというのに、家臣の連中がまた一癖も二癖もあるときている。貴女がもみくちゃにされてしまうのではないかと思うと、心配でなりません」
 あまり心配しているように感じられないのだが、気のせいなのだろうか。
 ほう、とわざとらしい溜息を吐くと、の顔をちらりと覗き見る。
「……あの、丞相。一つ伺いたいんですけど、いいでしょうか」
「何でしょう」
「丞相、呉での私のこと、何処までご存知なのですか」
 沈黙が落ちる。
「いえ、いくら私とて、呉での貴女のことなど想像でしかわかりません」
「その想像とやらを伺いたいんですけども」
 うーん、とわざとらしく唸る諸葛亮に、の目がわずかに釣り上がる。
 想像ですよ、と前置きし、諸葛亮は重く見せかけた口を開いた。
「周瑜の後を担うと見られる呂蒙、孫権を体を張って守ったという周泰、この両名は恐らくその資質から、貴女好みかと思います……貴女は存外、真面目で愚直な男がお好みのようですので」
 いきなりずばりと言い当てられ、はぐうの音もでない。
「好意を持つ相手には貴女はとても素直に反応しますから、たぶんこの両名とも貴女のことを憎からず思ったのではないかと思います。孫策殿は言うに及ばずでしょうし、弟君の孫権殿は兄である孫策殿に影響を受けやすかろうと思いますしね。となれば、孫策殿と気質の似通った甘寧もまた、孫策殿の客将たる太史慈などは貴女を憎く思う理由もなく。二喬も貴女にずいぶん懐いていると聞き及びましたし、孫堅の執着ぶりは殿に宛てた書面でわざわざ貴女の名を出すほど露骨なものですから」
 つらつらと名を上げていく諸葛亮の口は、わずかな淀みもない。
 居心地悪くなってきたは、首を竦めた。
 いいにせよ悪いにせよ、尻の座りの悪さに変わりはない。
「陸遜という若き将の名は聞いておりますが、私などを先生呼ばわりしているそうですからこれも貴女を憎く思う道理がない。下手をすると、貴女に私への感情を代行してぶつけようとするかもしれない……師と言うものは越えたくなるものらしいですからね……まして貴女は女性ですから、そのぶつけ方もそれ相応になっておかしくない」
「それ相応って何ですか」
「それ相応です」
 の嫌味な突っ込みもするりとかわし、諸葛亮は気遣わしげに白扇を仰いだ。
「名のある文官、武官が貴女に関して悪し様に罵っているという話を聞かぬのですよ。何でも、貴女に歌わせるのが呉の高官の誉れなどという話まで聞き及んでいるほどで。ですから、もし貴女を嫌っているとすれば周瑜殿ぐらいのもので、後は差はあれど貴女に好感を持っていると見て間違いなさそうですしね」
 ありえない、と思わず呟くと、諸葛亮は苦笑いを浮かべた。
「そう、有り得ないほどの好意を貴女は得ているのですよ。正直言えば、気味が悪いほどにね。ですから、私は心配だと……不安だと申し上げているのですよ」
 は口を噤んで黙りこくった。
 孫策の失踪に絡んで、皆、あの時の非礼を穴埋めしたいと思っているのだと理解していたのだが、諸葛亮の話を聞く限りではそうは思えない。
 モテゲーでもしてるのかと思うような歓待振りで、確かに気味が悪い。
 ラブラブフラッシュでもやっちまったかとやさぐれるが、そんなことはしていないしできるわけもない。
 呉に早く行って、できる限りのことをして来よう、と怪我の治療に勤しんできたのだが、何だか訳のわからない恐怖に駆られた。
 行ったが最後、籠に閉じ込められて出してもらえないのではないかという想像がぽんと湧き出して、頭の中から離れてくれない。
 あくまで蜀に戻ってくるのが前提の話で、実際そんな長いこと出向する心積もりはまったくなかったのだ。
 どうしよう、と青くなる。
 突然、耳に『くっくっくっ』という堪えきれずに漏れたと思しき声が届く。
 思考から立ち返ると、諸葛亮がそっぽを向いて肩を震わしていた。
 耳朶まで赤くして、笑っているのがはっきりとわかる。
「……丞相」
 ぷっと吹き出し、顔を俯かせ体をわなわなと震わせて堪えている。声は抑えているものの、諸葛亮なりの爆笑なのだろう。
 しばらくして振り返った諸葛亮の目元に、涙が浮いている。
 諸葛亮は指先で涙を拭うと、真顔に立ち戻って頷いた。
「貴女は、本当に面白い方だ」
 嬉しかねぇ。
 長々と諸葛亮の掌で弄り倒されただけだと悟り、は苦虫を噛み潰した顔を浮かべた。

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