諸葛亮の勧めで夕餉を共にした。
 執務室での簡素な食事に文句などなかったが、月英の姿が見えないのが気にかかった。
「彼女は、今は辺境の地で異民族の平定を行っているはずです」
 淡々とした諸葛亮の言に、恋しさや別離の悲しみは感じられない。
 の視線から悟ったのか、諸葛亮は悠然として微笑んだ。
「寂しくないと言えば嘘になりますが、我々は夫婦たる前に蜀の臣なのですよ。それに、常に共にあるのが真の夫婦という訳ではありますまい」
 共に在るべき時に共に在れば良い。そうやって、どんなに間が空いたとしても在るべき時に自然に寄り添えるのが理想の夫婦像なのだと諸葛亮は笑った。
 いいなぁ、とは素直に羨んだ。
 自分もそんな男と添いたい。
 だが、求婚されていると思しき面々は皆我がままで、がそうありたいと願ったところで了承してくれるかさえ甚だ怪しい。
 が思い悩んでいる時、室の扉を守る護衛兵から姜維の来訪を告げられた。
「丞相、急なお呼びとか……」
 急ぎ足で室に飛び込んできた姜維は、の顔を見るなり絶句して立ち竦んだ。
「えぇ、呉とのこれからの関係について、を交えて話をしようかと。そんなところに立っていないで、こちらにいらっしゃい」
 執務室付きの兵が、姜維の為に席を用意する。
 姜維は俯き、どこか遠慮がちにと諸葛亮の間の辺に腰掛けた。
 あからさまに視線を避ける姜維に、もまた落ち着かないものを感じる。
 呉での遣り取りは姜維を酷く傷つけたし、もう嫌になってしまったろうかと思うと胸が痛んだ。
 しばらく呉の話や蜀の内政などの話に花が咲き、食後の茶を啜ってお代わりを繰り返した。
 諸葛亮の話は細やかでわかりやすく、それがの為であろうことは容易に察しがつく。
 早く気遣いされなくてもいいようになりたい、例えば姜維のようにと視線を向ければ、ぱっと逸らされる。
 露骨な振る舞いに、も鬱になってきた。
「……さて、そろそろ私は執務に戻りましょう。姜維、貴方に殿をお願いしても良いでしょうか」
 形だけは問いかけだが、実質は命令以外の何物でもない。
 姜維は困惑を浮かべつつ、静かに頭を下げた。
「……私、一人で戻れますけど……」
「いけません、まだ無理をなさってはいけないと医師殿から命じられているはずでしょう」
 完治しなければ呉へは行かせられないと、殿も頑張っておられるのですからと付け足され、は諸葛亮に従うことにした。
 劉備の名を出されては従うより他はない。
 姜維はぎこちなくを抱き上げる。
 ふわりと裾が揺れ、の体を容易く抱えた滑らかな動作に、姜維の男としての力強さを垣間見た気がした。
 二人は諸葛亮に頭を下げて室を後にした。

「重くない?」
「いえ」
 それきり沈黙が落ちる。
 ぎこちなさが重い空気を生み、肌に痛いほどだ。
 こんな時に限って誰も通りがからない。
「……怒ってるの?」
 耐え切れず、口を切ったのはの方だった。
 を抱きかかえた姜維の歩みがぴたりと止まる。
「怒っている? 私がですか?」
 心外と言わんばかりの口振りに、は羞恥に似た憤りを覚え、言い訳を連発する。
「だ、だって、さっきから目も合わせてくれないし、丞相の命令にだって何か嫌々従ってるみたいだったしさ、何か……嫌われちゃったかなって思ったんだもん、しょうがないじゃない!」
 が腕を振り上げるもので、体勢を崩してを落としかけるのを何とか踏みとどまり、姜維はを睨めつけた。
「そ、それを言うなら殿だって! 私の言った言葉も、もう忘れられているのでしょう!」
 姜維の言葉というと、呉で、『を諦めてもいい』と言っていたあの言葉だろうか。
「……違います。本当に、忘れてしまったのですか」
 責めるような、不貞腐れた声で姜維はをじっと見詰める。
 何だったろうか、とも必死に考えてみるが、今一つ思い当たることがない。
 うんうん唸り続けているに、姜維は深々と溜息を吐いた。
「……貴方の元に誰も残らなかったとしても、私が居りますよ、と申し上げたではないですか。忘れてしまったのですね」
 それはもうずいぶん前の話だ。
「わ、忘れてはないよ、ちょっと思い出せなかっただけで」
「それを忘れたと言うんです。……もう、結構です」
 わずかに頬に赤みが差しているのは、姜維が怒っている印だろうか。
 そっぽを向いた姜維の口は少しへの字で、眉も吊り上がっている。
 不機嫌を露にする姜維に、は肩を竦めて口を閉ざした。
 しばらく沈黙が続き、廊下を踏みしめて歩く姜維の足音だけが響く。
「……私が、もっとわかってさえいれば、貴女に辛い思いをさせずに済んだのです」
 ぽつり、と染み入るように細い声が漏れた。
 様々な感情が入り混じり、混ざり過ぎて色を失くしてしまったような声だった。
「私が、丞相の命を正しく汲み取ってさえいれば、貴女をあんな風に責めずに済んだはずなのです。私の未熟が、貴女を傷つけてしまった。……私は、それが情けなくて、悔しいのです」
 だからの前には姿を見せられなかったと姜維は告白した。
 例え交流のない馬超の屋敷に居たとて、同じ諸葛亮の部下、まだ命を解かれていないことを考えれば姜維はの直属の上司に当たる。理由は幾らでも作れたし、会おうと思えば何とでもなったのだ。
「貴女に、自分は未熟すぎて相応しくないと、そう思ったものですから」
 の室の前には護衛兵は居ない。
 城の奥深くに賊が忍び入れるとは思わないが、早急に何とかしましょうと姜維は独り言のように呟いた。
「いいよ、私の命なんか狙う奴いないよ」
 それぐらいなら劉備や諸葛亮の警備を増やした方がよほどいいように思われた。
 姜維はを牀の端に降ろすと、困ったように見下ろした。
「一度狙われておきながら、何を仰っておられるのです」
 姜維の脳裏には、気を失って倒れ伏したの姿が今も焼きついている。
 を襲った凶刃を弾いたのは、本当に寸でのところだったのだ。
 一瞬の判断の迷いがの命を奪っていたかもしれないと思うと、姜維はぞっとして鳥肌がたつ思いがした。
「あれは、そもそも子龍のせいでしょ。私なんか、おまけみたいなもんじゃない」
「なりません、だいたい賊が狙うのは命だけとは限りますまい」
 が不貞腐れたように頬を膨らませるのを、姜維は駄々っ子をあしらうようにいなした。
「お金だって持ってないよ、装束とかだって、装飾だって、私あんまり持ってないんだから」
 ぶちぶちと文句を垂れるの唇を、姜維は自分のそれでそっと塞ぐ。
 驚き固まるの体を腕の中に巻き締めた。
「一番大切なものをお忘れです。殿、貴女自身こそが賊の狙いだったらどうなさるおつもりなのですか」
「……今、目の前に賊がいるのはどうしたらいいわけ」
 赤くなりながらも白い目を向けるに、姜維はくすくすと笑った。
 不意に素に戻り、の隣に腰掛ける。
「だいたい、帰りの船の中では普通にしていたではありませんか。何を持って私が怒っていると思われたのです」
 最後に会ったのは諸葛亮の種明かしがあった時なのだから、何かあると察するならその時以外考えられないのではないか。
 そして、最後に会った状況から類推すれば、姜維がに対して怒ることなど有り得ず、むしろ自分に対して凹んでしまったと考えるのが妥当だろう。
 言われてみればその通りなのだが、は常日頃から春花なり趙雲なりに叱られていたもので、三段論法的な思考を保てなくなっていた。
 どちらかというと被虐的な気性の方が勝っていたから、何かあれば『自分のせいか』と考えてしまうのだ。
「……そんなで、本当に呉に向かわれるつもりですか」
 嫌だなぁ、行かせたくない、と珍しくごねる姜維に、は何と声掛けていいかわからない。
「孫堅も好色そうな目で貴女を見ていたし、他の家臣も何だか貴女のことをちらちら見ているし、特にあの陸遜とかいう奴、あいつなんか丞相のこともあってかやたらと貴女にべたべたするではないですか」
 抱えた膝におでこをつけているから表情までは伺えないが、姜維はひたすら嫌だ、行かせたくないを繰り返している。
「……私、蜀の臣だもん。伯約こそ忘れてるじゃない、私、蜀の臣だよ」
 この蜀の為に職務を全うするのだ。
 そう誓った。他ならぬ姜維が証人のはずだった。
「呉に行く前に連れて行ってくれた場所、もう一度行きたいってずっと思ってた。また、連れて行ってくれる?」
 が姜維を覗き込むようにすると、俯いた顔が恥ずかしそうな笑みを浮かべているのが見えた。
「……そうでしたね……殿は、この国が、蜀が大好きなのでしたね」
 二人で微笑みあって、やっと仲直りできた気がした。
「……ですが、呉に行かせたくないという気持ちに変わりはありません。今度は殿も趙雲殿もいらっしゃいませんし、そうなると私が出向く口実はほとんどなくなってしまいます。下手をすると貴女一人で呉に行かせなければならぬやもしれません。むしろ、先方はそう望んでいるのでしょうし」
 同じようなことでさんざ諸葛亮にからかわれたが、言っていることは間違いではないのだ。
 執務の鬱憤晴らしにされたのだと思っていたが、ひょっとしたらがあまり思い詰めないように先手を打ってくれたのかもしれない。
「……私さ、あんまり賢くないけど、でも頑固だからさ、一回こうって決めたことはあんまり変更しないしできないしさ。ちゃんと今でも、蜀の為に何かしたいって気持ちに変わりはないよ」
 だから信じていて欲しかった。
 誰か一人でも、は頑張っているはずだ、は蜀を裏切らないと信じてくれていれば、それは自身の力になると思えた。
「姜維が信じてくれたら、私、一人でも頑張れるって思う。姜維が信じてくれてたら、私はそれを信じて頑張れるから」
 はい、と姜維は大きく頷いた。
 信じる、どんな時でも蜀への忠誠は変わらない、自分と同じだと信じると互いに誓った。
 照れ臭くなって、顔を見合わせて笑う。
「……ねぇ、あの場所に連れてってくれるって約束は?」
 姜維は口を閉ざし、何か言いたげな眼差しでを見詰めた。
「何」
殿から口付けてくれたら、連れて行って差し上げてもいいです」
 露骨に強請られ、の顔が赤くなる。
「だって、私からしたら賊扱いになるのでしょう?」
 さも可笑しげにくすくす笑う姜維に、は目を吊り上げ、口をむっと突き出す。
 姜維の隙を突いて飛び掛り、押し倒して口付けてやった。

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