姜維と指切りげんまんをし(姜維は指切りを知らなかった。面白がったが嘘を吹き込みまくったので、危うく姜維のトラウマになりかけたが、最後に暴露して事なきを得た。が、また機嫌を損ねてしまって宥めるのに手間取った)、が蜀で一番好きなあの場所へ連れて行ってもらう約束をした。
 姜維も多忙の身なので、何時とは確約しかねたが、それでも呉に行く前には必ず、と約束してくれた。
 春花が荷物を片付ける前に帰ってしまったので、雑多な荷物が室の端に積み上げられていたが、夜も遅いので明日にすることにした。
 諸葛亮からも執務室での居住の許可を得られたし、とはいえやはり仕事は休めと言われているし、やることはあまりない。
 尚香も、今は蜀の細かなしきたりを覚えるのに四苦八苦しており、に遊んでもらう余裕はないそうだ。どおりでお呼びが掛からないと思った。
 自然、劉備もお預けを食らう形で職務に追従していると言う。
 劉備は見た目とは裏腹に執務嫌いなところがあり、諸葛亮も手を焼いている。気を散らし過ぎて執務に集中できないらしい。それでいてあの笑みで上手く誤魔化してしまうものだから、諸葛亮直々に釘を刺しにいくのが日課なのだと言う。
 あまりに穏やかな日々に、はこの空の下で自分の知っている将達が戦を繰り広げていることが信じられないでいる。
 諸葛亮が教えてくれた、月英は異民族の平定に云々と言う話でさえ、何か絵空事めいた感じがしていた。
 いつかは自分も戦に出向く日が来るのかもしれない。
 想像はしてみるものの、自分が剣や槍を振るっている姿は現実味がまったくなかった。下手なコスプレをしているような気すらする。
 呉に行って同盟の絆を深める。
 これもまた大事な仕事だろうとは思うのだが、いかんせん何をしていいのかイマイチわからない。
 この間まで呉に行っていたのは行っていたのだが、やったことと言えば歌うの踊るの怒るの泣き喚くのと、正直ろくなことをした覚えがない。
 孫堅にいたっては、怒鳴りつけて説教までかました。
 何をしたらいいのかというより、何をしても受けいれられてしまう、あのお国柄が理解できない。
 本当はそうではないはずだ。年下の女からぎゃーすか言われたら、男というのはどんなに正論を突かれても(正論であるが故か)腹を立てるということは会社勤めで嫌というほど味あわされてきた。
 時代が違う、国が違う、慣習が違う。
 さりとて根本的なところは変わらないはずだ。
 それとも、孫堅達を会社の上司や同僚と同じにするのがまずもって間違いなのか。
 うーむ。
 考えてもいい考えは浮かばない。
 こういう時は寝てしまおう、とは牀に横になった。

 夢を見た。
 悲しい夢だ。
 青い、蒼い世界で、は一人立ち竦んでいた。
 一生懸命に名を呼ぶのだが、あの人は振り向いてくれない。
 どうして。
 嫌いになっちゃったの。
 私が、迷ってばかりだから。
 そうかもしれない。
 いい気になって、決めかねるなんて偉そうにして、罰が当たったのかもしれない。
 この世界に私は一人だけだ。
 一人だけ。
 たった一人だけ。
 どこまでも孤独だ。
 歩いていけば、誰かと巡り会えるだろうか。
 いいや、きっと何時までも孤独だ。
 でも、歩かなくては。
 私は歩かなくては。
 約束したのだから。
 行かなくては。
 何処へ?
 知らない。
 でも、行かなくちゃ。
 だけど、待たれているのは私でなくて、私の影だ。
 大きな影。
 黒い影。
 私を包み込んでしまう影。
 影があればいい。
 私でなくていい。
 暑い。
 重い。
 歩けない。
 助けて。
 誰か。
『…………  !!』

 ぱち、と音を立てて目が開く。
 視界の下半分を、やたらと太いものが塞いでいる。
 目を左右に向ける。
 左隣には闇が、右隣に孫策の寝顔があった。
 何で伯符が。
 良く寝ている。
 耳をそばだてればすこすこという鼻息が漏れ聞こえてくる。
 また、人の部屋に勝手に入ってきて。孟起に怒られても知らないよ。
 そこまで考えて、今夜からは宛がわれた執務室で寝泊りしていたことに気がつく。違和感に駆られた。
 執務室の牀は、一人用のごく狭いものなのだ。
 孫策の図体が横に転がるゆとりはない。
 では。
「どこ、ここ」

 そこでようやくはっきり覚醒したは、孫策の重い腕を押し退けて半身を起こした。
 見慣れぬ室だった。
 月の薄明かりの下では確たることは言えないが、それでもの執務室などではないことはわかる。
 無論、の借り受けた屋敷でも馬超の屋敷でもない。
「……どした、
 寝ぼけ眼の孫策が、夢現の態でを見上げている。
 暑いの重いのは、どうも孫策の体温と体重がもたらしたものらしい。何せ孫策は子供のように体温が高いのだ。
 夏はともかく、冬場は重宝しそうだ。
「いや、そんなこと考えてる場合じゃない。つか、ここ、どこ」
 孫策は、盛大に欠伸しながら『俺の室』と答えた。
 どおりで見覚えがないはずだ。呉ではともかく、蜀で孫策に貸し与えられた室になど、入ったことがない。
「な、何で私が伯符の室にいんの?」
 がしがしと頭をかく孫策は、髪を下ろしていた。先端をぱっつり切り揃えた髪は長く、けれど孫策の男臭さを損なうことはなかった。
 夜着がはだけて胸元の盛り上がった筋が露になっている。
 何かやらしいな、とは頬を染めた。
「……お前、覚えてねぇのかよ」
「な、何」
 孫策は半目でを見つめていたが、もう一度盛大に欠伸をしてから胡坐を組み直した。
「お前、廊下ふらふら歩いてたんだぞ」
 は声を失った。

 孫策の話では、はいつもの格好で歩いていたそうだ。
 退屈し過ぎて屋根の上で昼寝を決め込んだ孫策は、夜になって眠れなくなってしまい一人城の中を歩いていた。見咎められて室に戻れと言われるまで歩いていようと思ったら、誰も見咎めてくれなかった。
 よい夜ですね、だの大分しのぎやすくなりましたな、などと挨拶されるばかりで、誰も帰れと叱りもしない。
 諸葛亮から『下手に絡むと仕事の邪魔にしかならないし、悪戯はしても悪さは為さらない方だからほっておくように』と通達が出されているからなのだが、当の孫策は知らなかった。
 孫策をダシに劉備が執務をさぼるもので、こんな通達が出される羽目になったというのは閑話休題。
 とにかく、孫策はそれと知らされぬまま城内と城下を好き勝手うろうろしている。
 今宵はたまたま城内だっただけだ。
 そこでが歩いているところに出くわし、声を掛けても振り向きもしない。
 少し遠くの方を見て、ふらふらと歩いていくだけだった。
 良く見れば杖も持っていないし、まだ歩いては駄目なはずだと追いかけると、突然ぽろぽろと涙を零し始めた。
『行かなくちゃ』
 孫策が引き止めても、は孫策を振り切ろうともがいた。
『行かなくちゃ』
 どこへだよ、と孫策が尋ねる。
 何処かに行くというなら、自分が連れて行ってやろうと思った。
 けれどは激しく首を振り、私ではない、影を連れて行けと訳のわからないことを言い出した。
 私じゃなくていいんだ、だから影を連れて行って。
 どうも様子がおかしい、これは馬超が言っていた『病』なのではないかと孫策は気がついた。
 寝ているのかと尋ねてはみたが(それも馬鹿な話なのだが)、は首を振る。
 仕方なく、宥めすかしながら自分の室に連れて帰ったのだと孫策は締めくくった。
「うぇ」
 治っていなかったのかと血の気が引く。
 しかも、どうも馬超のところに居た時よりも悪化しているようだ。
 そう言えば何か夢を見ていたような気もする。
「……足、動かしたら駄目なんだろ」
 歩くなよ、と言われても、夢の中の話だからどうしていいかわからない。
 てっきり治っているものだと思っていたが、一人になってまた発症したのだろうか。
「どうしよう」
 孫策とて、そんなことを言われてもどうしようもない。
「そりゃあ、夜寝る時抱えてろってんなら幾らでも抱えておいてやるけどよ。その、何とか言う病の原因は何なんだよ」
 そっちのが先だろ、と孫策にしては真っ当なことを言う。
「原因かぁ……私もあんまり詳しくないけど、何かプレッシャーとかストレス感じるとなるとか……」
 孫策が怪訝な顔をしている。
「あ、えーと……重責感じたり、嫌なこと我慢し続けてたりすると起きたりするらしいって」
 言い直すと、孫策の顔がますます訝しげに歪む。
 まだ言い方が悪いかと言葉を探していると、孫策はの顔を覗き込んだ。
「……お前、呉に来るの嫌なのか?」
 え、と驚きの声を上げたまま、次の言葉を失っては黙り込んでしまった。
 孫策の言葉に、これ以上はないほど納得させられてしまった。
 呉に行くのが嫌だ。
 が無意識にそう思っていれば、執務室に泊まった今宵、症状が更に悪化したのは簡単に説明できるような気がした。
 呉に行かねばならぬことをまざまざと思い出す。
 諸葛亮からは行ってもらわねばならんと諭されもした。
 姜維からは、行かせたくない、一人で行かせることになるかもしれないと延々と愚痴めいた言葉を聞かされた。
 呉に行くのが嫌で、ストレスを感じている。
 すとんとパズルのピースがはまり込むような、明快な解だった。
「…………」
 孫策の顔が暗く沈む。
 当たり前だ。
 孫策は、を呉に連れて行きたがっている。呉で、自分と添い遂げてくれることを熱望している。
 そうだと認めるのは、あまりに酷い仕打ちだと思った。
「あの、伯符……」
 孫策の腕が、の体を捕らえて牀に沈める。
 腕の中に抱き込まれて、はうろたえて孫策を呼び続けた。
「……うるせぇ、寝ちまえよ」
 眠いんだよと言われれば、返す言葉がない。
 間近にある孫策の、固く閉ざされた瞼が何故か痛々しい。
 俯くように視線を逸らし、孫策の顔を見ないようにした。
 申し訳なくて、居た堪れなかった。けれど、謝罪は孫策の言葉を認めることになり、二重に孫策を傷つけてしまうに違いない。
 何も言えなかった。
 重い沈黙に囚われたまま、も何時しか眠りの淵に沈んでいった。

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