目を覚ますと、孫策の姿は既になかった。
 の起きるのが遅すぎるのだろう。普通は夜の明けるのと共に起き出すのだから。
 窓からは、朝の明るい日差しが差し込んでいた。
 改めて室を見渡すと、の執務室とは比べ物にならないぐらい豪華な作りの室だった。
 まず、広い。
 欄干には細かな彫刻が施され、赤黒い艶やかな木肌が掘り込まれた龍を生き生きと見せている。
 牀は絹で覆われており、見るからに柔らかな布はそこで休む者の安眠を保証しているかのよう
だった。
 どうやら、あれから歩き回ったりはしていないらしい。
 もっとも、孫策が抱きかかえていてくれたのなら当たり前の話だが。
 孫策はどこに行ったのだろう、と考え込む。
 押しかけたようなものだし、勝手にいなくなっては心配させるかもしれない。
 とりあえず、寝乱れた夜着と髪を直して、隣の室へと向かう。
 壁に隠れるようにして顔を覗かせるが、やはり誰も居ない。
 どうしよう。
 早く自分の室に帰りたかったが、伝言を託す相手も居ないのでは何とも仕様がない。
 格好が格好だったし、逆に今出歩くのはまずいかと思い直し、椅子に腰掛ける。
 遠くから人のざわめく気配がする。
 一人静まり返った室に居ると、世の中から取り残されてしまったような気がした。
 昨晩のことを思い出す。
 夢遊病の原因が、呉に行くのが嫌だという無意識の現われなのだとしたら、呉に行ったら今度はどうなってしまうのか。
 起きている間、つまり自分の意識的には呉に行くのが嫌だなどとは欠片も考えていはしない。
 凌統に、礼も言わずに蜀に戻ってきてしまった無作法を詫びなければとも思っていたし、大喬との約束もある。自分の為に命を落とした錦帆族の墓参りにも行きたかった。呉に行くのがの役割であり、仕事なのだ。
 嫌だなどと言えた義理はない。
 だが、これまでせいぜいベッドから落ちたことがある程度のが、ふらふらと出歩くというのはどう考えても異常で、何か理由があるに違いないと思う。
 その理由に思い当たるのが、呉行きの話だけとあれば、疑ってかかる余地もない。
「……そんなこと、ない……」
 口に出していってみるが、染み出るような不安が沸くばかりで決して落ち着けるものではない。
 嫌なら嫌だと認めてしまった方がいいのだろうか。
 けれど、やはり嫌だとは思えずにいた。
 まったく見知らぬ土地というわけではないし、皆が良くしてくれる。良くしてくれ過ぎる気もしたが、贅沢な悩みと言わざるを得ない。
 医師に相談してみようか、とふと思い立った。
 事情は説明してあったし、この時代にカウンセリングという概念があるかはわからないが、何でもぱっと察してしまうあの老人と話ができれば、何らかの糸口を見出せる気がした。
 孫策が戻ってきたら、何か羽織るものでも借りて室に戻って。星彩が居てくれれば、馬に乗せてもらえるかもしれない。先に訪問の約定を取り付けるのが先だろうか。
 一日の計画を頭の中で考えながら、とにかく孫策を待とうと扉を見やる。
 しかし、孫策はなかなか戻ってくる気配がなかった。

 結局、朝の生理現象に襲われたは、恥を忍んで外に居た護衛兵に声をかけた。
 孫策は劉備の元に出向いているという。
 が室内に居ることは孫策から告げられており、声を掛けられたら朝餉の支度をするよう命じられていたそうだ。
 だったらさっさと声掛ければ良かった。
 そんな後悔が過ぎったが、後の祭りだ。
 夜着のままでは外に出られず、何か羽織るものを借りたいと申し出ると、朝餉を持ってきてくれた侍女がの室からの着替えを持ってきてくれた。
 すっきりしてから朝餉も美味しくいただき、手を合わせてご馳走様をした。
 侍女は不思議そうにの仕草を見ていたが、何も言わずに空になった膳を下げていった。
 さて、とは改めて室を見渡した。
 何とはなしに孫策の室で朝餉を済ませてしまったが、よく考えればエライ話だ。孫策は呉の跡継ぎで、本来がその室で勝手していい相手ではない。
 自分の立場の不可思議さを、は改めて認識した。
 まだ孫策は戻らない。
 また護衛兵に声を掛け、一度室に戻りたいと申し出ると、護衛兵も困ったように笑みを浮かべた。
「お戻りになるまで、お待ちいただけませんか。そのように命じられております故」
 では、医師に手紙を出したいので道具を貸してもらえないかと申し出ると、護衛兵の一人がすぐに用意してくれた。
「すぐお戻りになると仰っておられたのですがねぇ」
 申し訳なさそうな兵の言葉に何と答えていいかわからず、は丁寧に礼を述べるに留めて仕事に戻ってもらった。
 足にわずかな痛みを感じる。
 やはり、昨晩ふらふら歩いていたという孫策の言葉は本当なのだろう。
 墨をずぃこずぃこと磨っていると、孫策が戻ってきた。
「おかえり」
 顔を向けると、孫策はぎこちなく笑った。
 たったそれだけなのだが、孫策の資質を損ねてしまっているような気がして、は自責の念に駆られた。損なう原因は、間違いなく自分のせいだと思ったから尚更だ。
 何でもない振りをするのが精一杯だった。
「ごはん、ありがとね。美味しかった」
 孫策はおざなりに、あぁ、うんと答えると、の対面に腰掛けた。
 片肘をついての手を見つめる。
「手紙をね、書こうと思って」
 孫策の疑問に答えるように、は説明を始める。
「医師殿にね。夢遊病の話はもうしてあるから、改めて診てもらおうと思って。早く治さないと、呉に行けないもんね」
 の言葉に、孫策ははっと息を飲んだ。
 敢えて気付いていないかのように振舞いつつ、は墨を磨る手に力を篭めた。
「凌統殿、怒ってるかもしれないよ。危ないとこ助けてやったのに、礼も言わずに戻っちまうなんて礼儀知らずだね、とか言ってさ。手紙書いたけど、もう届いてるかな? まだかな?」

 孫策がの名を呼ぶ。
 何を言おうとしているのか何となく察して、は言わせまいとするかのように言葉を続けた。
「周瑜殿もさ、礼儀とかうるさそうだから、怒ってるかもしれないね。何か、えらいことになってたけど、大丈夫だったのかな。お叱りとか受けてないといいけど」
、聞けよ」
「でも、孫堅様ってそういうのあんまり気にしない感じだよね、結局は敵の作戦だったわけだからさ、でも私、孫堅様にも手紙書いた方が良かったかな」
!」
 墨を置く音は、かつんと高いきれいな音だった。
「私、呉に行くよ」
 挑戦じみた、鋭い視線を孫策に向ける。
 孫策でさえもひるむような、思わず口を閉ざしてしまうような鋭さだった。
「私、呉に行くの嫌じゃない。……行かなきゃいけないって、思ってる。仕事だもん。足も、夢遊病も、
ちゃんと治して、私は呉に行くからね」
 そうしてまた、墨を取り磨り始める。
 しゃこしゃこと軽い音が響く。
……けど……」
「嫌じゃないもん」
 孫策には目もくれず、は不貞腐れたように墨を磨り続けた。
「私、呉に行きたいの」
 孫策は目を丸くしてを見つめる。
「行きたいの!」
 墨を磨り終わり、ぱしんと脇に叩きつけるように置くと、は筆を取った。
 ごとん、と音がして、目を遣ると孫策が卓に突っ伏している。
「……伯符?」
 何をふざけているのかと睨みつけるが、孫策は顔を突っ伏したまま身動ぎもしない。
 え、と小さく驚きの声を上げ、は筆を置いた。
「伯符?」
 ひょっとして具合が悪いのかと立ち上がり、孫策の横に回りこむ。足がもつれてもどかしかった。
 卓に手を突き、けんけんをするように歩く。
 硯の中の墨が、かたかたという音と共に揺れた。
「伯符」
 やっと孫策の肩に手が届き、揺さぶってみる。孫策はやっと顔を上げたが、その顔が赤い。
 熱でもあるのかと額に手を伸ばすと、邪険に払われる。
「どうしたの、伯符、具合でも悪いの!?」
 普段と違う様子に、の焦りに拍車がかかる。史実上では、孫策は病死ということになっている。呪い死にとも暗殺とも言われているが、既に死んでいてもおかしくない年代にいることをは思い返していた。
「……具合が悪いっちゃ、悪いかもな……」
 ぐったりとした態の孫策に、はおろおろと辺りを見回す。
「お医者様……」
「馬鹿、よせ、医者なんて」
「だって」
 孫策は深々と溜息を吐き、の手を取り膝の上に抱き上げた。
 ぎゅっと抱きしめられて、孫策の熱を直に感じる。
 どきどきと高鳴る心臓に困惑するが、ふと違和感を覚えた。
「……ん?」
 眉を寄せるに、孫策が力なくへらりと笑う。
「……昨夜から、お前抱えて寝てただろ?」
 孫策の足の間に、何か硬い感触があった。何かというのもおこがましい『何か』だ。
「そんで、『いきたいの』、なんつって聞いちまったらよ、つい」
 わはは、と恥ずかしがりつつ笑ってみせる孫策に、も勢い顔を赤らめた。孫策の両頬をつまみ上げ、ぐにっと引っ張ってやる。
「ひて、ひてーよ!」
「ばかっ!」
 離しついでに罵ると、はそっぽを向いた。
 まったくしょうのない男だ。シリアスの欠片もない。
 ご機嫌を取ろうとでもいうのか、膝を揺らしてあやすようにしながら、背後から腕を回してと呼び続けている。
 無視していると、首筋に湿った感触が押し付けられた。
 悲鳴を上げる間もなく抱き上げられ、奥に連れて行かれる。
「駄目だ、我慢できねぇ」
 切羽詰った声には甘いムードもへったくれもない。
 ばか、と罵る声が盛大に響き、隣の室へと空しく消えていった。

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