孫策に抱えられてやってきたを、馬超は傍目には冷静に見上げた。
長く苦楽を共にしている馬岱からすると、腸が煮えくり返っているのが口の端のわずかな引き攣りからいとも容易く察せられるのだが、敢えて火に油を注ごうとは思わないので黙っていた。
を椅子に座らせると、孫策は馬超に向かって『悪ぃ』と気安く頭を下げた。
一国の跡継ぎとも思えぬ気安さだ。
馬超からすれば、考えられぬに違いない。案の定、無言を維持してはいたがその眉間に微かな皺が寄ったのを馬岱はこっそり確認している。
「いや、我慢しようとは思ったんだけどな、歯止めが利かなかった。すまねぇな、約束したってのに」
お詫びといっちゃ何だが、急いで連れて来てやったから勘弁しろ、と孫策は胸を張る。
そんな言い様があるかと怒鳴りたいのを、馬超は必死に堪えた。
が口をぱくぱくさせたり、がっくりと力を失くして卓に突っ伏していたりするのが目に入っていた。怪我して弱っているを巻き込んで喧嘩するのは、あまり喜ばしいことではない。
「折角だから、一緒に昼飯でも食おうぜ。な!」
厚かましくも昼食まで強請る孫策を、だが馬超は追い返そうとは思えずにいた。一度懐くととことんまで人の懐に入り込んでくる、この孫策という男の不思議な魅力に魅せられているのかもしれない。
「だが」
「……何かおっしゃいましたか、従兄上?」
馬岱の問い掛けに首を振って答え、馬超は口を閉ざした。
だが、むざむざをくれてやる気は毛頭ない。
胸の内で呟いた言葉は、決意と言って良かったかも知れない。
表面上は和やかな食事が始まった。
と言っても、はずっとむすくれていたし、馬超は食事中の会話をあまり好まない。
孫策は何か言いたげに馬岱を見やったりしていたが、馬岱は同席を避けて背後で控えている。口を挟めるわけがなかった。
本来ならば馬岱も同席しての食事になる予定だったが、孫策の乱入によって馬岱自ら同席を遠慮している。孫策こそが闖入者であって、馬岱とて楽しみにしていた食事を邪魔されて面白く居られるはずもない。程度の低い意地悪かもしれないが、助け舟を出そうとも思わなかった。
「ご馳走様」
は野菜を煮付けた一皿を空にすると、早々に食事を終わらせた。
「何だよ、もっと食えよ」
孫策が勧めるのは筋違いのような気もするが、言っていることは間違いではないので馬超も同意して頷いた。
「全然動いてないから、太ったんだもん。せめて食事量くらい制限しないと」
「何だよ、もっと肉つけろよ。その方が、抱き心地いいんだからよ。な、馬超」
これには同意していいんだか悪いんだかで、馬超も返答に窮する。
はむっとしたように立ち上がると、室に帰ると言い出した。
「ん、じゃあ俺はメシ食ってるから、お前は先帰ってろ」
孫策は鳥の足を咥えてを振り返る。
「あんたの室に帰るんじゃないからね!」
「あ、そうなのか? まぁいいや。馬岱、お前、送って遣れよ。杖、置いてきちまった」
馬岱は一瞬怪訝な顔をし、馬超を振り返る。
馬超も何かおかしいと思いながらも、では何がおかしいのかと考えるとよくわからない。
とにかく、と馬岱にを送るよう指示し、の姿が壁の向こうに消えるのを見送った。
孫策はまだ鳥を貪っている。
指に着いた脂を舌で舐めとっているが、その表情が何処か硬くなっているのを馬超は何となく察した。
「……どうした」
馬超の問い掛けに、孫策はちらりと目をやると、食べかけの鳥を静かに置いた。
「あの、な。お前に、ちっと、頼みてぇんだけどよ」
「……何だ」
頼みごとというのも珍しいが、孫策がこのように言い渋るのも珍しい。万事豪放磊落な気質の男なだけに、気鬱になられると何処となく落ち着けない。
いつの間にか、俺もすっかり飲まれているな。
馬超は内心苦笑したが、孫策の手前顔には出さなかった。
孫策は、未だ言いにくそうに口篭っている。
「俺でできることなら引き受けよう。早く、言ってみるといい」
馬超の力強い言葉に決心を固めたのか、孫策はこくりと頷いて改めて馬超に向き直った。
「あの、な」
「うむ」
「俺、しばらくを独り占めしてもいいか?」
重たい沈黙が落ち、馬超は無言で立ち上がった。
孫策も何事か察して椅子から立ち上がり、じりじりと卓から後退る。
馬超は立てかけてあった竜騎尖を手に取ると、くるりと孫策に向き直った。
扉を守っていた護衛兵が、中から突然沸き起こった異様に派手な破壊音と怒号に飛び上がるのは、その数瞬後である。
は馬岱に抱えられ、自分の執務室に戻ってきた。
執務室には誰も居ない。
姜維が手配すると言っていた護衛兵も、未だ来ていないようだった。
「……春花殿は」
誰が居らずともこの娘だけは居るだろうと思っていた春花の姿も見えず、馬岱はに問い掛ける。
男の馬岱に『初潮を迎えたのでたぶん今日はお休み』とはさすがに言えない。昨日少し体調を崩していたので、お休みすると思うと答えると馬岱はにっこりと笑った。
何が可笑しいのかと思っていると、馬岱はまた微笑んだ。
「殿は、下の者にもお優しいのだなと感心していたのですよ。私の見てきたご婦人方は大概、自分の召使が休みだと言うだけでご気分を害されるものでしたしね」
そんなものかとは眉を顰めた。
自身、今は休職中の身の上で何をしているわけでもない。春花が休みでも生きていけなくなるわけではなし、春花とて今頃初めての経験に怯え戸惑っているだろうと思う。それをわざわざ引っ張り出そうとは思わない。
馬岱はますます可笑しそうに笑い、そういうご婦人方には居る居ないが重要であって、何をさせるさせないは重要ではないのですよ、と付け足した。
「何時までも、優しい殿でいらして下さいね」
馬岱に面と向かってそんなことを言われると、何だか面映くてしょうがない。たいしたことをしているつもりではないのだから、余計だ。
その時、星彩がやって来た。
入室の許可を求める声に、慌ててどうぞと声がける。
中に入ってきた星彩は、馬岱の顔を見て少し訝しげな目を向けた。
「馬将軍のご昼食にお付き合いいただきましたので、送って差し上げたところなのですよ。では、私は戻ります。後のことはお任せしてもよろしいでしょうか」
「承りました」
拱手の礼を取り、互いに頭を深々と下げる。
目の前で取り交わされる姿勢も正しい挨拶に、ただ腰掛けている自分がまるで貴人か何かのように思え、は何となく顔を赤らめた。
馬岱の後姿を見送っていた星彩が、ふとの頬の紅潮に気がつく。
「どうなさいました」
心配げな星彩の声に、は言葉の選択に四苦八苦しながら思ったことを伝えた。
わかってもらえるか自信はなかったが、星彩はにっこり笑って頷いた。
「何となくですが、私も似たような思いをしたのでわかります。……私は父の膝に抱かれて座していたのですが、父の部下が挨拶に現れては父と私に挨拶をしてくれるのです。その時の私は、本当にまだ幼い、ただの子供でしたから……何故皆、頭を下げて寄越すのか不思議に思いました。当然、彼らは父に頭を下げていただけなのですが、その頃にはまだわかりませんでしたし」
挨拶相応の立場になければ、その挨拶に篭められた意味もわからずむずがゆい思いをする。むずがゆさもわからない程鈍くなかったことには感謝しますがと言って、二人でひとしきり笑いあった。
確かに、そんな傲慢な人間にだけはなりたくない。
笑って、笑いが途切れた辺りで突然、でも、と星彩は付け加えた。
「殿は、私にとっては尊い人ですから……きっと、馬岱殿にとっても」
尊いと言う言葉に、は目を白黒とさせた。
とてもそんな上等な人間ではないのだが、どうして皆そんな風に自分を敬ってくれるのだろう。
の問い掛けに、星彩はただ穏やかに微笑む。
「だって、趙雲殿や馬超殿、姜維殿まで殿に夢中なのですよ。推して知るべし、というものではありませんか」
としては、だからそれは何でなのだと聞きたい。
星彩は知らないかもしれないが、姜維とは最終防衛ラインを割ってこそ居ないが、その寸前までは済んでいる。後の趙雲馬超孫策に至っては、最終防衛ラインどころか地下マントル寸前まで侵入を許しているようなもので、今妊娠しても誰の子かわからない有様だ。
こんなことが正常であるわけがない。
星彩は、じっとの顔を見つめていた。
「でも、皆が皆、殿をあきらめたくないのだから仕方ないではありませんか」
びっくりして顔を上げると、星彩はころころと笑う。
「何でわかったのか、そんな顔をなさっておいでですよ。だって、殿はすぐ表情に出るからわかりやすいのです。そこまでですと、いっそこちらが罪悪感を覚えてしまうくらい」
丞相の任命は、意外に適切なのかもしれません、と星彩は微笑んだ。
「……私は、殿が無理にあの方々を切り捨てる必要はないと思います。失いたくないと言う気持ちは、私もよくわかりますから。殿もお辛いかもしれませんが、災難と思って諦めては如何ですか?」
災難で済めば話は早い。
だが、が気にしているのはあくまで相手のことなのだ。ごときに、才ある将がこだわっていていいものなのか。
それを、は心配している。
けれど、星彩はあっさりとが気にすることではないと言い放った。
「あの方々は、殿に捨てられることをこそ恐れていると思います。手には入れたいのでしょうけど、それが叶わぬならせめて傍に、それさえ叶わぬならせめてお心の中に、自分と言う存在を刻みたいと思っておられるのではないですか。そんなことを殿が気になさる必要は微塵もありません。それは、あの方々の『我がまま』なのですから」
「え……でも」
「殿のお心は」
ぴしりと星彩の声は鞭打つようにを打つ。
「殿のものです。刻むとか手に入れたいとか、それはあの方々の都合、欲望に過ぎません。思うのは向こうの勝手、ですがそれを入れるか入れないかを決めるのは殿の勝手なのです。殿が今、誰も選べないでいるからこそ、あの方々は勝手をしたいようにしているだけなのです。いいですか、それはあの方々の勝手なのですから、殿が気になさる必要はないのですよ」
ある意味、悟らされたような気がした。
勝手に向こうが想ってくれるのを、留め諌めるのはがしていいことではない。
けれど、がそれを受け入れるかどうかを決めるのを、相手が決めるのもまたしていいことではないのだ。
「……私、でも時々、嫌だって言ってんだけど……」
星彩の目がぎらりと光り、は慌てて宥めに掛かる。
「あ、でも、その後相手も傷ついてるみたいだし、やっぱり全部が全部言葉で説明できるもんじゃないよね!」
そうなのだ。
が突っぱねた時、趙雲は、馬超は、孫策は、姜維は、それぞれがそれぞれに傷ついていた。
恋愛なんて、どうしたって上手にできるものではないのだ。
傷つき、傷つける、それは当たり前のことなのだ。相手の心を見誤って暴走すれば、それは恋愛ではなく一方的な欲望に転ずるのだろうから、この微妙なバランスを維持していることこそが恋愛をしているという証なのかもしれない。。
「……れ、恋愛か」
おかしな話だが、ようやく自覚ができた気がする。
自分は今、恋愛をしているのだ。
幼い、未熟で経験不足な自分を認識した。
だが、認識できただけ一歩前進なのかもしれない。
「……う、何か、うん、ちょっとだけわかった気がする……」
星彩に礼を述べると、星彩は晴れやかに笑った後、表情を曇らせた。
「私も、その中の一人に入りたかったです」
男に生まれていたら、と深々と溜息を吐かれ、はぎょっとして星彩を見詰めた。
冗談か何かの揶揄かと思うのだが、星彩の無表情な顔からは何も読み取れない。
の視線をどう受け止めたのか、何か決意したように星彩は顔を上げ、の方に向けてずずいと身を乗り出した。
「……わ、私、お役に立てたでしょうか」
星彩がどもる時は、大抵ろくなことを言わない。
わかっていながらも、眉目秀麗な顔をどアップに近付けられると言い返せないのが悲しい性だ。
「あの、殿のお役に立てたご褒美と言っては何ですが、あの、今度から、殿を『お姉さま』とお呼びしてもいいでしょうか……!」
厚かましいでしょうかと頬を染める星彩に、は否とも言えずに脂汗をたらりと流した。
十字架の代わりになるもの、何か探すか。
頭の中は常に自分を茶化してくる。
我ながら嫌になった。