は、わかっていたつもりでわかっていないことが如何に多いかと言うことを改めて知った。
 星彩は美しい娘だ。それでいて賢く、武にも精通しているとは言い難くとも通じており、蜀の将来の国母として望まれるのも至極当然と思われる。
 ただでさえ目立つ存在の彼女は、孤高を愛し、群れるのを嫌う資質だ。
 それは、蜀の未来を担う重責から、人と交わり無用の人災を招かぬようにと言う彼女なりの心遣いからに違いなかった。父である張飛はともかく、敵国の寵臣たる夏侯家の血筋たる母から、おそらく幼い頃から噛んで含むように言い聞かされていたに違いない。
 とにかく、そのせいもあり一人たたずむ星彩はとても目立つ。
 それが。
「……お姉さま!……」
 振り向き様ぱっと笑顔に変わり、大急ぎで駆け寄ってくる星彩は、更に更に更に目立つ。
 まずいよなぁ。
 星彩の笑みとは裏腹に、は口元が引き攣るのを自覚した。
 の他にも、この星彩の様変わりに苦い思いをしている者が一人いる。
 はっとするほど頬を紅潮させ、事もあろうに『お姉さま』と声高に叫び一直線に駆けていく様を見て凍りつく。
 今まで年の近い、気の許せる友人を持たなかった反動なのだろう。
 関平はそう思い、自分を納得させつつも深々と溜息を吐いた。
 あの星彩が、よりにもよって同性のに胸をときめかせている。恥じらい浮き立つ表情を浮かべているのを張飛が見たら、ひっくり返るか喜んで祝杯を挙げるかのどちらかだろう。何せ嫁には行けない相手だから、張飛としては何の心配もなく見ていられる。女同士でどうこうという考えには及ばないに違いない。
 関平とて、しばらく前までそんなことがあるとは夢にも思っていなかった。そういうことがある、ということは何となく知っていたのだが、よもや星彩がとは思いも寄らない。
 それほどに星彩は孤高かつ端麗なひとだったのだ。
 何処で何が如何違ってしまったのか。
 頭痛を覚えて関平は眉間を押さえた。
「あ、関平殿」
「本当に。何をしているんでしょう」
 親の心子知らずと言うが、悩める関平の胸の内も知らず、二人は馬上に仲良く乗り合わせ、かっぽかっぽと蹄を鳴らす。
 星彩は酷く機嫌が良く、鼻歌でも歌いだしそうな勢いだ。
「あの、星彩殿」
「……その、殿付けはおやめ下さい。殿は私のお姉さまなのですから、どうか星彩と」
 でなければおかしい、話が合わないと星彩は頑なに主張した。
「はぁ……えぇと、あの、……星彩……?」
「はい、何でしょうかお姉さま」
 うきうきと浮き立つような晴れやかな笑みに、は何とはなしに『ええのんか、これでわしはホントにええのんか』と何処の方言だかも定かでないツッコミを入れた。
 が落ちないようにと星彩はを前に抱き、ぎゅっと胸を押し付けてくる。
 またそれが気持ちがいいと言うか、恥ずかしいと言うかでは危ない世界への入り口に立ってしまいそうだった。
 いや、立つなよ、むしろ立たないように気をつけろよ、年上として。
 現代の性の乱れも問題視されているが、儒学でかっちりしているはずのこの世界も意外に乱れまくっている。一夫多妻制ならいいとかそういう世界なわけで、推奨すらされているのだからかっちりしているとは必ずしも言えないかもしれない。
 情報伝達も遅い時代の話であり、地方に行けばまだまだ『夫婦』のカテゴリーが存在しないところもあるかもしれない。
 それは大袈裟としても、娯楽が少なければ男と女、あるいは大雑把に二人以上が揃えば存立する『娯楽』として性交渉がクローズアップされるのは仕方ない。簡単かつこれほど熱中できる『楽しいこと』は少なかろう。
 表裏一体と言うか、取り締まる側が厳しく戒める必要があるほど乱れていたと考えれば、さもありなんと納得できた。
 はっはっは、しかしそれもまた嫌な話ですね。
 笑い事ではないのだが笑わずにはおられない。
「……どうかなさいましたか、お姉さま」
 星彩が心配そうに覗き込んでくる。たわわな二つの果実がぐにっと押し付けられて、人間の体にどうしてこんな気持ちのいいものがくっついているのか不思議にすらなった。
 男がおっぱい好きなのわかる気がします、先生!
「何でもないデスよ、あの、春花のところに寄ってもいいかな」
 昨日星彩に頼んで、医師に診察の依頼の書簡を届けてもらった。星彩はすぐに医師のところに書簡を届けてくれ、口頭で『明日にでも来るといい』とわざわざ伝言を持ち帰ってくれた。その上今日は馬まで出してもらって、文句のつけようもない。つけたら罰が当たる。胸の感触ぐらいは耐えなければ嘘だ。
「そうですね、医師殿の手が空き次第と言うことでしたから、先に医師殿の診察を受けられて、時間があるようでしたら、ということで如何ですか」
 ぱきぱきした星彩の答えには一分の隙もない。
 じゃあそういうことで、できれば手土産も何か持って行きたいと言うと、星彩はにっこりと笑った。
「市場が開いていれば寄りましょう。叶わぬなら、時期柄果樹が実っている頃でしょうから、道々何か見繕うこともできましょうし」
 室内に閉じこもりがちで忘れていたが、季節は秋なのだ。
 空を見上げれば青い色は澄み切って、薄い白があちこちにしゅうっと刷かれていた。
 蜀は一年を通して暖かな国だが、一歩外に出れば様々な気候が存在している。
 あらゆる意味で豊かな国なのだ。
「私、この国すごい好きなんだー」
 何の気なしにぽつりと呟いた言葉に、星彩は不思議そうにを見詰め、背後からを抱き締めた。
「……はい、私もこの国がとても好きです……私も、この国をもっと好きになりたい……お姉さまのように」
 星彩が男だったら思わず恋に落ちてしまいそうな、熱い囁きだった。

「いや、まぁ男にお姉さまって言われて喜ぶのはどうなのか」
「何?」
 は厚布で仕切られた室に押し込まれていた。視界の中に人影がないので一人だと思い込んでいたのだが、どうも隣に医師の老人が居たらしい。いつものツッコミを受けては首をすくめた。
「独り言でござるでしょう」
 苦ぁい視線を感じ、は再び首をすくめた。
 一応室を区切っている辺り、患者のプライバシーは守られているらしい。もっとも、犀花のように独り言を言っていては台無しだが。
 この時代の医師は、占い師だの祈祷師だのと大差ない扱いと言うのが本当のところのはずだから、それよりは多少現代に近いのかもしれない。
 ずいぶん待たされているが、明日にでもというならじゃあ明日とねじ込んだのはの方だから、しかたない。なかなか繁盛しているようで何よりだ。患者としては病の不運に見舞われているわけだから、の心の声を聞いたら怒り出しそうだが、から見ると医師の老人は如何にも『赤ひげ先生』じみていて貧乏臭そうなイメージが強かった。
 少しでも儲かってやる気を維持していてくれた方が、世の為人の為の気がしたのだ。
「待たせたの」
 医師が布を捲り上げて入ってきた。
 昼時を回っていて、は医師が何時食事を取るのかと心配になった。
 の顔色から何事かと尋ねてきた医師にそう答えると、医師はからからと笑っての前に腰掛ける。遠慮会釈なしに足を捲り上げ、膝に乗せると包帯を取り除く。
「……少し、無茶をなされなかったかね」
 いつもながら、ぴたりと言い当ててくる。
 実は、と夜中歩き回っていた件を話すと、医師の眉間に皺が刻まれた。
「夢を見ながらうろつきまわるというは、方寸の中に何か良からぬ怪が住み着いているからと聞く。その怪の正体を暴くは、なかなかに難しい」
 医師殿でも無理ですかと畳み掛けるが、わしでは無理じゃと簡単にいなされてしまった。
「……なるたけ正直に生きることじゃな。難しいと思うが、思うままに生きるのが何よりと思う。あの将軍のところでなら、何とかなるじゃろ」
 は、無言で苦笑いしてみせた。
 馬超の屋敷からは出てしまっているのだ。執務室での生活、なおかつ春花が何時出てこられるかわからない上に、これまで以上に春花の行動に規制が掛けられる。城の中なのだ。馬超の屋敷は万事がに甘かったからまだ良かったが、城の中でも同じようにとはいくまい。城の開かれている時間も、当たり前だが取り決められているし、春花の通う時間を考えるとかなり厳しい。
 できることは一人でやらなければならないのだ。
「それを先に言わんかい。ふーむ、どうしたものかのう……」
 足の方は、歩き方さえ気をつければ杖がなくても大丈夫な程度には回復しているという。だが、眠りながら歩いていて気をつけられるはずがない。
「将軍に通ってもらうことはできんのか。一晩に一度くらいなら、構わんのだが」
 盛大に吹き出すに、医師は怪訝な顔を向ける。
「……いや、まぁ、将軍もお忙しい方じゃろうからな。だが、お前さん確か他にも誰か相手が居るのじゃろう」
 がぎゃあ、と叫び、立ち上がろうとするのを医師は足首を捕らえることで軽々と抑えた。
 重心を取れず、どん、と音を立てて椅子の上に崩れ落ちたに、医師は涼しい顔を向けた。
「安心せい、人には言わぬし、これを教えてくれた奴も、わしが無理やり聞き出したほどじゃからわし以外に口を滑らせはしまいよ。……じゃから、わしが言いたいのは二人以上ならなんとかならんか、ということじゃ」
 以上、という言葉に無論一晩に一回なら、と余計なことを付け足しての動揺を誘う。
「……やかましいな、お前さんは」
 誰のせいかと小一時間ほど問い詰めたくなったが、相手が医師なので我慢した。
「お前さんはどう思っているか知らんが、そんなことはよくあることじゃ、人の口には上らんだけで。あまり気に病まんがええ」
 それが病の元かもしれん、と言われれば、成程それも原因としてはありかと納得した。
 医師は更に、は少し単純に物事を決め付け過ぎるきらいがある、いい方に単純ならいいが、思い悩み苦悩する方だから始末に負えんとずばずば付け足した。
「心の病など、きっかけがあれば簡単に治ることもある……が、悪くなるきっけの方が多いというのがままならんでな。とにかく、思い詰めんよう、根を詰めんよう気を楽にな」
 そう言われればそうなのかもしれないが、言うほど容易くなさそうだ。
 とにかく、足は思ったより悪くなっていなかったことは良かった。
 は医師に礼を述べ、退室した。

 思ったよりは悪くなかったと星彩に告げると、星彩は我がことのように喜んだ。
「お昼はどうなさいますか。市場に寄るならそこで何か見繕ってもいいのですが」
 星彩の言葉に、そーだねー、と呑気に答えかけたは、あることを思い出して真っ青になった。
「やべ、孟起……!」
 昼は馬超の元に通うと約束していたのだ。今日は医師のところに行くと、連絡するのをうっかり忘れていた。
 生真面目な馬超のことだから、の来るのをひたすら待っているに違いない。しかもおとなしくではなく、馬岱に当り散らして倍返しされ、苛々を加速させながらに決まっている。
 増幅した苛々が頂点に達すると、馬孟起の『正義回路』にスイッチが入り、『正義の為に!』という掛け声と共に五虎将軍キンバチョーに変身するのだ。
「……あの、お姉さま、どうなさったのですか?」
 一言呟いたまま固まってしまったを案じ、星彩が恐る恐る声を掛けるが、の顔は白っ茶けて目は遥か遠くを見詰めている。
 うわ言のように呟かれた現実逃避、という聞き慣れない言葉に、星彩はただ首を傾げた。
 気に病むなとの医師の命令は、自ら気に病む原因を大量生産してしまうには、遵守するのはなかなかの難題であった。

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