星彩の指示で馬超に使いを出し、と星彩は予定通り春花の家に行くことにした。
 馬超がどれだけ怒っているかと考えると憂鬱になるが、やってしまったことは仕方ない、とは開き直ることにした。春花に馬超のことを考えているのがばれたら、理由が正当であってもお叱りを受ける気もする。
 何と言うか、なんでこんなに愛されちゃってるんだろ……。
 術か呪いか掛かってでもいるのだろうかと考え込むほど、この世界でのは歓待されている。
 見目だけ取れば星彩や春花の方がよっぽど美しいと思うのだが、とは溜息を吐いた。
 それを見咎められ、正直に答えると、星彩はぽかんとしてを見詰めた。何を言っているのかわからないといった風情だ。
「だってさ、ホントにわからないんだもの」
 が口を尖らせると、星彩は困惑したように首を傾げた。口元には淡く苦笑を浮べている。
「……こんなことを言うのは無礼かもしれませんが、お姉さまのように賢くて才気溢れる方がそんなことを仰られると、嫌味を言っているようにしか思われませんよ」
「へ」
 逆にが困惑に陥る。
 星彩はああ、と何かに気がついたように呟くと、今度はにっこり笑った。
「お姉さまの国では、お姉さま以上に才気溢れる方がたくさん居られた、そうでしたね。でも、ここは中原です。お姉さまの歌う歌は天女の歌う歌ですし、お姉さまの話すお話はどんな賢人も知り得ぬ鬼界の話」
 星彩の言葉を遮ってそんなことないと驚き喚くに、星彩はくすくすと笑って話を続ける。
「お姉さまがどんなにそう思っておられても、他の者にしてみれば私の言った通りなのですもの、仕方ありません。お姉さまは、もう少し周囲の評価と言うものをご自覚なされた方が良いと思います」
 の国でどれだけ当たり前だとしても、この中原にないものならそれは貴重な宝になる。
 言われてみれば、にも何となく理解は出来た。
 金しかない世界に居れば、金は路傍の石に過ぎまい。
 ダイヤしかない世界に居れば、ダイヤはただのガラス以下だ。
 自分は、宝石の山の中の川原石なのだ。
 一声唸ると、は沈黙した。
 納得したと察したのか、星彩は口を閉ざし馬をゆっくりと走らせる。がどう納得したか知れば、執拗に言い募ったことだろう。

 春花の家は、割合すぐに見つかった。
 星彩の名を出すと、尋ねられた中年の女は、ひぇ、と一言叫んで家の中に駆け込んでいった。
 すぐに同じ年頃の男を連れて出てくると、男は女の亭主だと言って深々と頭を下げた。
「あっしがご案内いたしやす」
 男は馬の轡を取ると、ひっくり返りそうなほど胸を張って堂々と歩き始めた。
 ばね仕掛けのおもちゃのような足取りに、男の緊張が伺える。
 何だ何だと人が集まってきて、は気恥ずかしくなって俯いた。
 星彩は、意外なほど冷静で、何も臆するものはないように見えた。
 張飛の娘、未来の国母として生まれ育てられた星彩にとってみれば、こんな騒ぎは何と言うものでもないのかもしれない。
 その馬に大事に乗せられている自分は、いったいどう思われているかと考えると頭が痛い。
 案の定、星彩と一緒に居るあの女は誰だと囁かれる声が聞こえてきた。
 ただの文官でごぜぇます、これからよろしくお願いします、と思わずへこへこしたくなる。
 春花の家に着くと、先触れでも出されていたのか奥から女が飛び出してきた。
 少し太めの、肝っ玉母ちゃんといった風の女だった。
 面影が春花に通じるものがあって、春花の母親に違いないと察した。
 星彩の手を借りて馬から下りると、星彩は春花の母親にを紹介してくれた。
「まあぁっ!!」
 腹の底から叫び上げたような大きな声に、はぎょっとして後退りしかけた。
 春花の母親はそれには気付かなかったようで、恭しく拱手の礼を掲げ、頭を深く深く下げた。
 腰を曲げたまま涙を浮かべた顔を向ける春花の母親に、はただただうろたえた。
「貴女様が、様……まあぁ、私どものようなところにお出で下さるなんて、何てまぁ……」
 の名を聞いた野次馬の間にも、同じような動揺が走っている。
 口々に『様だと』『あれがあの様だそうだ』と話しているのが聞こえてくる。
 私はいったい何だと思われてるんですか!?
 小一時間ほど正座で問い詰めたい衝動に駆られるが、そうもいかない。
 ぐっと堪えて、春花の母の案内に従って門を潜った。

 春花の家は、曲がりなりにも門のある中流階級以上の佇まいだった。
 馬超や趙雲の屋敷とは比べるべくもないが、小さな庭があり、コの字型に小さな平屋が立っている。下女と思しき娘と年かさの女が一人ずつ、腰の曲がった老人が一人と、召使も揃っているようだ。それぞれ、と星彩に向け深く頭を下げている。
 春花はそれなりに裕福な家の出なのだと思ったら、そうでもないらしい。
様のお陰で、楽に暮らせております」
 ありがたいことですと母親が言うからには、これらは春花がに仕えてから与えられるなり借りるなりした家なのだろう。
 真正面の建物に入ると、質素ながら作りのしっかりした卓と椅子が置かれた室に入る。
 お掛け下さいませと進められ、おとなしく座ると、星彩はの背後に控えた。
 座らないのかとこっそりと耳打ちすると、星彩はが腰掛けているのに座れないという。
「私は、お姉さまの護衛ですから」
 頼むから止めてくれ、隣に座ってくれとせがむと、星彩は不思議そうな顔をしながら渋々の隣に腰を下ろした。
 先程の年かさの下女が盆を掲げて入ってきた。
 恐ろしいほどぶるぶる震える手に、も思わず緊張する。
「あの、良かったらお手伝いしましょうか」
 が申し出ると、下女はとんでもない、と裏返った声で答えた。
「そんなことを様にしていただくわけには参りませぬです!」
 甚だ怪しい敬語に、下女の緊張振りがよく現れている。
「さ、左様でございますか、申し訳ないです」
「いえ、そんな! あ、あの、ご気分害されたら相申し訳ありません、わ、私、高貴な方にお目通り適うのは初めてなもので……!」
 高貴な方と言われ、誰のことだああ星彩かと振り返る。
 星彩は黙って首を横に振り、貴女のことですと暗に指し示す。が自分の顔を指で指して確認すると、今度は首を縦に振った。
 はそのまま下女を振り返ると、下女も首を縦に振る。
「そんなバナナ」
 意味もなくギャグを飛ばすが、『バナナ』を知らない星彩と下女は目を丸くするだけだ。
「う、いや、私ただの文官だし、そんな緊張するほどのもんじゃ」
「何を仰います! 様は文官『様』で在らせられる上、臥龍と名高い諸葛亮様の覚えもめでたく、その溢るる才気ゆえに若き将達の華として愛でられ、あの呉の野蛮な将達をも魅了なされる歌姫と聞き及びおります……こうしてお目通り適うなど、私、一生の自慢ですわ!」
 誰のことですか。
 魂が抜けるような衝撃に高笑いしそうになり、は唇を引き結んで耐えた。
「……あの、それ、噂が先走り過ぎてますね」
 まぁ、なんて謙虚な、と下女は目元を押さえた。
「噂通り、いえ、噂以上のお方であらせられます。私、今日のこの感激を一生忘れません!」
 むしろ記憶を失ってくれ。
 タスケテー、と胸の内で投槍に呟いていると、春花の母親が血相変えて飛び込んできた。
「まだお茶も差し上げていないの!」
 下女は飛び上がるようにして慌てて茶を淹れ、春花の母は平伏するようにして下女の無礼を詫びた。
 ボスケテー、とやはり胸の内で呟くと、はお構いなくと渇いた笑みを浮べた。
 手土産に市場で購入した艶やかな葡萄を詰めた籠を渡すと、春花の母は本当に涙を零して押し戴く。
「まぁ、まぁ、様にこのようなお気遣いを賜るなど子孫に誇れますわ……!」
 そして、遂にはキレた。
「止めましょう」
 静かな、低いそれでいてはっきりとした声に、春花の母親も我に返ったらしい。きょとんとして頭を上げた。
「止めましょう、こういうの、私嫌いです。私、そんなに凄い人間じゃないですし……まだまだ文官としての仕事も覚えなくちゃいけないことがたくさんある、半人前です。それに私、春花のことは妹のように考えてますし、そしたら、春花のお母さんは私のお母さんでしょう。お母さんに頭下げられて、気分良く居られる娘なんて居ないじゃないですか」
 ね、そうでしょうがとまくし立てられ、春花の母親は思わずこくりと頷く。
「じゃ、そういうことで。お母さん、春花と会えますか。会えれば、ちょっと顔見て帰りたいんですけど、もし駄目ならこのまま帰ります」
「あ、あの、ちょっとお待ち下さいませ……」
「お母さん!」
 の恫喝が飛ぶ。
 春花の母は少し戸惑っていたようだが、『お母さん』と呼ぶの怒った顔を見て、苦笑して溜息を吐いた。
「……じゃあ、今呼んできますから。お茶でも飲んで、待ってて下さい」
 が言わんとすることを正しく理解したようで、敬語は使っているものの、貴人に対するそれではなくなった。
 もにっこりと笑い、はい、と頷いて下女の淹れてくれたお茶を礼を述べて戴く。
「美味しいですね、春花が淹れるお茶も美味しいけど、このお茶も凄く美味しい」
 笑いかけると、下女も引き攣りが取れた顔で、嬉しそうに笑って答えた。
「春花ちゃんにお茶の淹れ方教えたの、私なんですよ。それがご縁で、こちらに雇っていただいて。前は茶葉の商いをしていたんですけど、主人が亡くなって、続けられなくなったもんですからね」
 普段はあまり主従を感じさせずに勤めさせてくれる、いい家なのだと続けた。
「じゃあ、春花のおば様みたいなもんですね。春花は、私にも凄く良くしてくれてますよ」
 あちらが姉のようなのだと話すと、下女はにっこりと破顔した。
 子供が居ないので、春花が娘のようなものだと話してくれた。
「春花はお母さんが二人も居るんですね。こんないいお母さんが二人も居るから、春花はあんないい子なんですね」
 下女の目に嬉し涙が浮かんだ。
 星彩は二人の様子を見て、嬉しそうに微笑んだ。のこういうところが、星彩には好ましく映る。あまりにも謙遜し過ぎるし、自己批判意識も強過ぎる。
 もう少し楽にしたらいいのにと思っていた。
さま!」
 春花が駆け込んできた。
 三日目じゃまだ多いだろう、と要らぬ心配をしてしまうが、春花は元気なものだ。
 生理中は何か呪いとか人除けとかするのかと尋ねるが、ここでは特にそういうことはしないという。と言って外に出るわけにもいかないから、それが人除けと言えば人除けだろうということだった。
「なら、安心だ」
 の言葉に、春花はにっこり微笑んだ。
「何か、ご不自由はありませんか? 春花が居なくて、さまのおみ足のお世話をどなたがなさっているのかと考えると、春花はもう心配で心配で」
「それなら、私がしているから大丈夫」
 それまで黙っていた星彩が、突然口を挟んできた。
 ばしばし、と何か電気の弾けるような音が聞こえた気がする。
 がぎょっとして二人に目を向けると、二人とも口元は微笑んでいるのに目が異様にマジだった。
 げぇ。
 焦るを他所に、春花と星彩の舌戦が始まる。
「……とは言え星彩様もお忙しい身の上、やはり私のように細々とご面倒を見て差し上げられる専門の者が居らねば」
「いいえ、お姉さまはご自分のことはご自分でなさりたい方。私のお手伝いで十分ご満足いただけているはず」
「お姉さま!? 星彩様、その呼び方は幾らなんでもさまにご無礼では」
「お姉さまには許可をいただいていること。悔しいのなら、貴女もお姉さまにご許可をいただくといいわ」
「いいえ、春花は臣下の礼を弁えております。悔しいなどと、とんでもない!」
 言葉と裏腹に、春花はに険しい目を向けてくる。
 まぁ、春花が元気ならいいか。
 は冷や汗を流しつつ、春花の冷たい視線に耐えた。
 居合わせた春花の母も下女も、三人の様子にきょとんと目を見張るばかりだった。

 春花が割合元気なのも確認できて、と星彩は城に戻ろうと家を出た。
 閉じかけた門から春花の母が飛び出してきて、を呼び止めた。
「あの、様。一つだけ、伺いたいことが」
 家の中を気にしたように背後を振り返る春花の母に、は首を傾げて質問を促した。
「あの、様は近々もう一度呉に行かれるとか。それであの、やはり春花も連れて行かれるのでしょうか」
 母の目に、不安が色濃く映っている。
 そういうことか。
 はなるべく穏やかに見えるように笑みを作った。
「……いいえ、呉には、私一人で行くつもりです。春花を連れて行くつもりはありません」
 見るからに安堵した風な母親に頭を下げ、は星彩を促し馬首を城へと向けさせた。
「あの、私がこんなことを伺ったと言うことは……」
「わかってます、内緒ですね」
 春花の母が深々と頭を下げているのを振り返り見つつ、は帰途に着いた。
「……良いのですか」
 星彩の言葉には、様々な意味が含まれているだろう。
 恐らく春花はに着いて行くつもりでいるだろうから、が駄目だと言っても着いて来ようとするかもしれない。
 一人で呉に行くことに不安はないのかと問い掛けてもいよう。
 けれど、は胸を張って前を見た。
 日が傾き暮れ始めている。
 遠くから、市場の閉まる刻を告げる鐘がじゃーんじゃーんと鳴り響いているのが聞こえてきた。
「うん」
 短い返事に、のきっぱりとした決意が篭められている。
 星彩は、その決意の固さを察して押し黙った。
 自分が着いて行くと言っても、は拒絶するに違いない。それも、断固として。
 己が力になれぬと察して星彩は項垂れたが、星彩の前に座り彼方に傾いていく日をただ見詰めるは、星彩の様子に気がつけないでいた。

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