星彩に見送られ、城に戻ってきた。
 夕飯は市場で買ってきた茹で栗と梨、豚の焼いたのの切り身ですませることにした。
 お湯をもらいに行こうと杖を取ると、ちょうど馬岱が尋ねてきた。
「……どちらかお出かけでしょうか」
 珍しく困ったという顔をしている馬岱に、ただお湯をもらいに行くつもりだったと告げると、安堵したように深い溜息を吐いた。
 何かあったのだろうか。城の門はそろそろ閉まる頃合で、この時間に馬岱がを尋ねてくるということは、馬超も城に残っているということだろう。
 泊まりでしなくてはいけない任務でも戴いたのだろうか。
 問い掛けると、馬岱は苦笑いしての体を横抱きに抱え上げた。
「……従兄上が、不貞腐れてしまって。殿の顔を見るまで帰らないと言うものですから、こんな時間になってしまって」
 あぎゃ、とは一声呻いて渋い顔をした。そんなに怒っているとは思わなかった。というか、忘れていた。
 どうも一つこと以外には気が回らないというか、終わったものだと勝手に思い込んでしまうようだ。もうとっくに城から帰っていると思っていたし、謝るのも明日でいいだろうと思っていた。
「じゃあ、食事とかどうするつもりです?」
「それは、城の厨房の者に申し付けました故、何とでも。一人二人の食事くらいなら何とでもなるようになっておりますから。一食抜いたとて別に構うことでもありませんしね」
 それよりも、と馬岱は尚も足を早める。
「あの従兄上のご機嫌だけは、どうにもなりません。殿にお願いするよりないのです」
 そうまで見込まれると、逆に不安になってくる。
 馬岱のような『手練』が宥められないものを、が宥められるのだろうか。
「孟起、昔はそんなに我がままな感じ、しなかったんだけどなぁ」
 出会った頃を思い出すと、つんけんしつつも何くれとなく面倒を見てくれていたように思う。むしろ、が振り回していたように思えた。
 馬岱は真面目な面持ちでの目を覗き込んでくる。
「恋をすると、人は我がままになるものなのです」
 はぁ。
 そんな言葉を直に聞く羽目になろうとは、も思っていなかった。

 馬超の執務室に一歩足を踏み入れると、は驚きのあまり言葉を失った。
 何とか体裁は整えているものの調度品は根こそぎ片付けられており、壁には何かで削ったような跡が縦横無尽に走り、窓の一部は穴が開いて夜風が吹き込んでいた。
「な」
 一音漏らすのが精一杯のに、馬岱は同情するように深く頷いた。
 恐らくこの傷をこさえた張本人は、不貞腐れて足を執務机の上に投げ出している。机の上には竹簡どころか筆も墨もない。
 仕事もせずに日がな一日こうしていたと言うのだろうか。
「午前は練兵でしたので、その間に片付けさせたのですよ。昨日一日ではどうにも片付かなかったもので。理由を伺っても決して答えては下さらないし、練兵場に直行して、終わるとすぐ殿を迎えに行って。でも、いらっしゃらなかったでしょう、ですからその後はずっとこんな有様で」
「岱、余計なことを言うな」
 馬超の荒い言葉に、馬岱もはいはいと苦笑して応じる。
「よろしくお願いします」
 に耳打ちすると、馬岱はすたすたと外に出て行ってしまった。
 どうも、理由を探るところから始めなければならないらしい。しかし、何をどうしたらこんなになるのだ。
 天井にまで跡が付いているあたり、獲物は槍なのだろうか。ならば、やはり馬超自身が付けたものかもしれない。
 呆として上を見上げていると、馬超が小さく咳払いした。
 視線を向けると、わずかに頬を紅潮させた馬超が気まずげにそっぽを向いている。足はいつの間にか下ろされていた。
 態度からして、話をするきっかけをくれたのだろう。
 ならば、馬超の方にも話したいという意思があるのだ。自分からは言い出せなくとも、と話をするつもりはあるのだ。
 は机を回り込んで馬超の元に向かう。足のことがあるからゆっくりになってしまうが、あらぬ方を見ている馬超が、を強烈に意識しているのは何となくわかった。
 小さな子供が、母親を振り向かせたくて泣き喚いている様を思い出す。
 本当にどうしようもなく子供だ。
「孟起」
 字を呼ぶと、腕が伸びてくる。
 腕はの腰に巻きつくと、強い力で自分の元へと引き寄せた。
 膝の上に抱き上げられ、目の前には俯いた馬超の被る兜がある。白い房飾りがさらさらと流れ落ちていくのが綺麗で、は黙って見詰めていた。
「……短気を、起こした」
 ならば、やはり壁の傷は馬超の残したものだったのだ。
 は、そう、と短く答え、己の体に巻きつく馬超の手をあやすように軽く叩いてやった。
「あいつが、お前を独り占めしたいなどと言い出すから、かっとして。約束が違う、蜀に居る間は俺に、と、だから」
 口篭り、ぼそぼそと呟く馬超の言葉をは頭の中で整理した。
 恐らく相手は孫策だろう。時間の都合もそれなら合致する。
 孫策は、蜀に居る間はを馬超に託すとでも約束したのだろう。勝手な話に腹立たしくもなるが、今は詮無きことだ。
 そんなこんなで馬超と孫策は仲良くなり、共に同衾するまでになったのだろう。
 それが、突然孫策が約束を反故にするようなことを言ってきた。
 何故かの胸はどきんと大きく跳ね上がった。
 孫策の行動が何を意味するかは判然としない。けれど、何か得体の知れない不安がを押し包もうとしていた。

 馬超の手に力が篭る。
「俺は、お前を呉にはやりたくない。この気持ちは今でも変わらん。呉は、遠過ぎる」
 兜に隠れて馬超の表情ははっきりしない。けれど、固く目を閉じて眉根を顰めた顔が思い浮かべられた。
「だが、お前が蜀の為に命を懸けようという時に、俺の女々しい感情でお前を引き留めることも出来ん」
 相反する感情が、馬超の中に嵐を起こしているのか。
 は、その嵐の元が己であることに言い知れぬ幸福を覚えた。
 良くない、馬超は本気で悩んでいるのだからと自分を諌めはするが、それでも邪な愉悦は抑えられなかった。
 あの錦馬超が、自分をこれほどに想っている。
 こんな美しい男が、自分のような女に狂ってしまっている。
 応えるつもりがないならしてはいけないと留める声を、は敢えて無視して馬超の顔を上げさせた。
 少し驚いた風な馬超と目が合う。
 緊張して体が震えた。
 目を閉じ、恐る恐る顔を前に進めると、唇に噛み付くような衝撃があった。
……」
 唇に触れていた温かな感触が離れて行き、馬超の腕が背中をかき抱く。服を引き裂くようにひっきりなしに指が背をかきむしっていく。馬超の中の激情を垣間見たような気がした。
……俺は……」
 求められているとわかる熱の篭った声に、はしかし首を振った。
「馬岱殿が」
 一言だったが、馬超を醒ますには効果覿面だった。
 直情的とは言え何処か照れ屋なところがある馬超には、馬岱に『事』が済むまで外で待っていろなどとは到底言えたものではない。
 それでも納得しがたいらしく、むっと尖らせた馬超の唇にから軽く口付けを施し、やっと機嫌を直させた。

「早かったですね」
 扉の外に居た馬岱は、と馬超の顔を見て開口一番そんなことを言った。
 どういう意味だ。
 からかっているつもりはないらしく、馬岱は至極真面目に驚いている。真面目に驚くというのも何だが、本当に驚いているようだ。
 馬岱はその心積もりで待つつもりだったようだが、待たれているとわかってそんなことが出来るか。
 は顔を真っ赤にして馬岱を睨めつけた。
「あぁ、まぁ、その……よろしければ、夕飯をご一緒に如何ですか」
 どうせ泊まりだから、その後は従兄上の見張りをしていただけると助かります、と続け、今度は馬超が驚きの声を上げた。
「何、まさかこれから執務をやるというのか!?」
「当たり前です、午後の執務にまったく手をつけられなかったのは何処の何方ですか。文官殿ほどでなくとも、将軍職にあればこれくらいの執務をこなしていただかねば困ります」
 馬岱がぴしりと言い放つ。
 うぐ、と唸ったまま言葉もない馬超に、は可笑しさを堪えきれずに笑い転げた。
 槍で薙いだ跡のある室で食事をするのも何だから、との室に移動することになった。
 馬岱は、の室に膳を運ぶよう申し付けてくると言って厨房の方に向かった。必然的にを運ぶのは馬超の役割となる。
 を抱きかかえ、馬超はゆっくりと歩く。
 道すがら足の具合や夢遊病の話を説明してやると、馬超は半ば嬉しそうな、半ば気の毒そうな複雑な顔をした。
「何が原因か、心当たりはないのか」
 これまで何度か聞かれたことを、改めて聞かれる。
 孫策から、『呉に行くのが嫌なのではないか』と指摘され、正直その線が濃そうなのだが、それを馬超に言う気にはなれなかった。
 呉に行くのがが出来る最良の仕事だというなら、呉に行かねばならんと思う。
 やれることなど少ないのだ。普通の家事仕事なら、子供の春花の方がよっぽど上手い。武芸の素質がないとなれば、頭を使って働くしかないが、改めて一から仕事を覚えよとなると、マニュアルもない仕事なだけにちと荷が重過ぎる。
 やれることがあるだけマシなのだ。だったら、呉に行くべきだ。
 本当の自分とやらが何を考えどれほど呉に行くのを嫌がっていたとしても、それは単なる甘えに過ぎない。
 頑張ればできる。やってやれないことはない。
 はここ最近の座右の銘を、胸の中で繰り返した。
 突然、馬超が歩みを止めた。
 何事かと馬超を見上げると、厳しい顔をしている。視線を辿ると、孫策が壁にもたれて立っていた。
 気まずそうに馬超を見遣る孫策は、いつもの覇気もなく口元に苦笑を浮かべている。
「……あー……また、出直すわ」
 じゃあな、と軽く手を掲げ踵を返す孫策に、馬超は鋭い静止の声を投げかけた。
「逃げるのか、貴様!」
 孫策の背から、一気に殺気が放たれる。
 まずい、とは冷や汗をかいた。
 孫策は、傍から見れば飄々として気さくな男だが、ことプライドの面においては美学と呼んでいい思考の持ち主だ。つまらない意地に拘ることはないが、『逃げた』と侮蔑され我慢できるような男ではない。
「……何だと」
 低い声が猛悪な空気を孕む。の背筋がぞくりと震えた。
 しかし馬超は、微塵も揺るぎはしなかった。
「逃げているではないか! この間もだ! 理由を言え、と言っている!」
 は必死に馬超を諌めようとするが、馬超も孫策もが見えていないかのようにお互いを睨めつけ合っている。
 何がどうして喧嘩になったのかは定かではないが、恐らく自分が原因だろう。の焦りは増すばかりだった。
「ちょっ、ねぇ、孟起も伯符も、落ち着いてよ、ねぇ!」
 の声にも答えぬまま、口を引き結んで相対する二人だったが、突然ふっと力を抜いた。
「……、置いて来い」
「わかった」
 何がわかったのかわからないが、馬超は孫策の横をすり抜けの執務室に向かう。
 すれ違い様、ははっしと孫策の手を掴み、目で自分にも説明しろと訴える。
 馬超は歩みを止めない為、孫策はに連れて行かれる形で後を追う。
 孫策は笑ってはいるが、いつもの底抜けの明るい笑みではない。どこか困ったような、陰りのある笑みだった。
 そんな笑い方しないで。
 泣きたくなるような不安に怯えて、は孫策の腕を掴む手に力を篭めた。
 ますます困ったように軽く首を傾げ、孫策はを愛おしげに見詰める。
 拾えないのに可哀想な捨て犬を見つけてしまった、そんな目をしているように見えた。思い込みだろうか。それとも、自分が捨て犬のような顔でもしているのだろうか。
「……ー」
 ぽんぽん、と軽く頭を叩き、孫策はいとも容易くの指を引き剥がした。
「男同士の大っ事な話だかんな」
 お前は来るな。
 笑いながら念を押し、の返事も聞かずに孫策は立ち止まった。
 どんどん遠くなる孫策の姿を見詰め、は矢も盾もたまらず馬超に取りすがった。
「孟起!」
「……孫策が、来るなと言っただろう」
 の執務室に入ると、すぐ岱が来るだろうからとだけ言い残し、馬超は去った。
 置いていかれたは、何故か悔しく、心細く、ただ閉ざされた扉を睨んで涙を落とした。

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