夜明け前、馬超は夜着のまま廊下に滑り出た。
 辺りに人の気配はなく、遠くで家人が朝の支度に蠢いている気配があるのみだ。
 馬超は辺りを見遣ってから、足音を殺してそっと歩き出した。
 目当ては、言わずもがなではあるがの室である。
 昨夜は馬岱の意趣返しを喰らい、を抱き締めることも叶わなかった。
 疲れ果て、恐らくは昏々と眠り続けているだろう。わかってはいたが、ならばせめてその寝顔なりを見たかった。思い返せば、と二人になったことがない。やっと戻ってきたというのに、ただ空間を共有することすら叶っていないのだ。
 蜀にまで届いた噂の歌も聞いた。
 それほど騒ぎ立てるようなものでもあるまい。皆が、何をそれほど熱中するのかわからなかった。
 どうでもいいから、を返してもらえないかと……自分の物になったわけではないのだから、『返してくれ』というのもおかしな話ではあったが、切実にそう願っていた。
 おかしな茶々入れが続いている。だから、自分もおかしな行動をとってしまうのだ。
 趙雲・姜維辺りが聞いたら、口を挟む余地もないほど言い篭められるようなことを、馬超は本気で考えていた。
 諸葛亮の言うとおり、戦績も挙げたし新たな同士も蜀勢に加えた。
 少しくらい、いい目を見させてもらいたい。
 馬超のささやかな望みは、まさに室の扉に手をかけた瞬間、きっちり朝服に着替えた従弟によって阻まれた。
 いったい何時の間に忍び寄っていたものか、馬超の後ろで腰に手を当て、渋い顔をしている。
「いけませんよ、従兄上。だいぶお疲れのご様子ですし、足の方もあまり芳しくないという話ですから」
 怪我を負ってから日こそ経っていたが、船での生活が良くなかったのか、の足の治りはやたらと遅かった。ひょっとしたら、変に捻ったままになっているのかもしれないということで、今日は評判の医師に掛かるのだということだった。
「……少し、顔を見るだけだ」
「顔を見ただけで満足できると、はっきり誓えるのですか」
 できるわけがないと決め付けた顔で、馬岱は馬超を睨めつける。
 こうなると、馬超も面白くない。口を尖らせて反論に転じる。
「お前は、俺を何だと思っているのだ」
「我が最愛かつ唯一の主であり、誇らしい従兄殿だと思っておりますよ」
 馬岱の華美な装飾が施された言葉に、馬超は一瞬たじろいだ。
 素直なのだ。
 心の波が率直に現れる、だからこそ自制が効きにくいし、自分などがしゃしゃりでなくてはならなくなる。
 馬岱は小さく溜息を吐くと、馬超に止めを刺すべく言葉を手繰った。
 と、室の扉ががたがたと揺れ、小さく隙間が開いた。
 ひょこ、と顔を出したのは、誰でもない、だ。
「……孟起、出かけるの」
 寝惚けているのは見るからにわかるのだが、寝乱れてだらしなく寛げられた襟元から、柔らかな曲線が覗く。
 思わず固まる男二人にも気付かず、はぽーっとして馬超を見上げた。
 よく見れば、裾口も乱れ、白い膝頭が剥き出しになっている。
 馬岱も思わず目を逸らすような、しどけない姿だった。それ故に淫靡な、誘うような色気がある。
 突如、の指が馬超への頬へと伸ばされ、唇をするりと撫でた。
 ぞくりとして肌が粟立つ。
「いってらっしゃい」
 言うなりは奥に引っ込み、扉がぱたん、と音を立てて閉まった。
 夢でも見ていたかのような、一瞬の出来事だった。
 固まってしまって動かない従兄の背に向け、盛大に溜息を吐くと、馬岱は従兄の腕を取りずるずると引き摺って行った。
 登城の支度をせねばならなかったのだ。

 城に上がると、馬岱は何やら用があると言って出て行った。
 戻るまでに報告書をやっておけと念押ししていかれたのだが、馬超はもうそれどころではない。
 が触れた唇から、ぞくぞくとした愉悦の波が立て続けに放たれて治まらない。
 波は体を浸食し、馬超を酷く追い立てた。戦で溜まっていたこともあろうが、それにしても今回のは酷い。
 が蜀を離れていたのは夏の間だけだ。それほど長い期間というわけでもない。
 けれど、馬超は確実に飢えを感じ、手元にがいるにも関わらず癒すことができない矛盾に苛立っていた。
 午後は休暇が与えられている。
 昼には屋敷に戻り、をこの手に抱こう。本当に抱くのは後でも構わない、だが、この腕でを抱き締めなくてはもう駄目だ。
 湧き上がるような欲求に、馬超は口元を押さえた。そうでもしないと、何かが溢れてきてしまうような気がした。
 外が騒がしくなり、騒音が急速に近付いて来る。
 わぁわぁと聞こえる音の中に、耳障りな声を聞き取り、馬超は目を細めた。
 室の扉が開き、現れた闖入者は孫策だった。
「よっ」
 馬超に向かってでさえ気さくに声を掛けてくる。馬超には、その気さくさがどうにも鼻をついて仕方ない。
「……何か御用か、孫伯符殿」
 ぴりぴりとした空気に、孫策は首を傾げる。
 気を取り直したように辺りを見回し、誰も居ないと見るや再び首を傾げる。
は?」
 当たり前のようにを求める孫策に、馬超のこめかみにぴしりぴしりと血管が浮き上がる。
「……当家の屋敷で養生していただいている。それが、何か」
「ふーん、そっか」
 もう用はないと言わんばかりに、孫策は馬超に背を向けた。
 そのあっさりとした態度に、馬超は限界を迎える。
「ちょっと待て、何処に行くつもりだっ!?」
 へ、と孫策は首だけ馬超に向けた。
「え、お前んち」
 冗談ではないと馬超は歯を剥く。
 屋敷には、よく躾けられた家人が揃っている。出掛けに言い含めてきたから、孫策ごときが顔を出さずともが不自由するようなことは何もない。
 何より、自分の屋敷でまでのうのうとに触れる孫策の姿を拝むのは御免だった。
「……お前、何かりかりしてんだよ」
 不思議でたまらぬ、と言った様子で孫策は首を傾げた。
「昨夜、お前んちに行ったんだろ。一緒だったんだろ。じゃあ、ちっとくらい俺が顔出したっていいだろうよ」
 一緒、ではなかった。
 ぐっと息を飲み、歯を噛み締める馬超に、孫策はますます訳がわからぬと言うように首を横に傾げる。
「……一緒じゃ、なかったのか?」
 孫策の声には、哀れみが多分に漏れ出していた。
 癇には触るが、事実その通りであり、真正直な馬超には虚栄に満ちる嘘などつけなかった。
「……あー……」
 何とも言えない溜息混じりの声に、馬超は屈辱に焼かれるのを耐えた。
「まぁ、あの、元気出せよ、な? お前も、結構大変なんだなぁ」
「貴様などに同情される言われはない!」
 堪えきれなくなって怒鳴り散らす馬超にも、孫策は大人の余裕を見せうんうんと頷くばかりだ。
「いや、わかるぜ、お前の気持ち! 何か、すげぇ情けない気になるよなぁ、そこに居んのに、手も出せねぇの。あれはたまんねぇよな、ホンットよくわかるぜ」
 馬超は歯軋りして恥辱に耐える。時折、歯の隙間から、う、とかく、とか言う声が漏れるのがまた、孫策の同情を引く。
「まぁ、そういうことなら俺は我慢するわ。俺は呉で顔合わせられるしな」
「……何?」
 初耳の話に、馬超が耳敏く反応を示す。
「あ? 、蜀には里帰りで戻っただけで、また呉に来ることになってんだぜ?」
 聞いてないのか、と首を傾げる孫策に、馬超は難しい顔をして黙り込んだ。
 突然執務の卓から離れ、立てかけてあった槍を手にする馬超に、孫策は思わず身構えた。
 衛兵がごちゃごちゃ言うのが面倒で、いつも腰に下げている覇王を押し付けてきてしまった。
 無手の不利に汗が滲むが、馬超は孫策を顧みることもなく外に飛び出して行く。
 わぁわぁという音が遠退いていき、孫策は呆気に取られたまま室に残された。
 どうしたものかときょろきょろしていると、また誰かが大声で話しながら近付いて来る。馬超が戻ってきたようでもない。
 孫策が扉が開くのを待っていると、飛び込んできたのは馬岱だった。
 馬岱は、中に居たのが馬超ではなく孫策であることに驚きを隠せないようだったが、床に散らばった書簡から、何かを察したらしい。溜息を吐き、扉の外を気遣わしげに見詰めた。
「……何か俺、まずいこと言ったか?」
 問われても、孫策が馬超に何を話したのか知らない馬岱には、判断がつかない。
 とりあえずと馬岱が床に散らばる書簡を拾い始めると、孫策が手伝ってくれる。どうにも気安い性格のようだ。
「折角、諸葛亮殿に許しを得て来たというのに……」
 溜息を吐きつつ書簡を卓の上の箱に納めると、馬岱は孫策を振り返った。
「よろしければ、茶など如何ですか。呉の話など聞かせていただければ、幸いなのですが」
 孫策は、ん、と頷きはしたが、珍しく立ち止まったまま動こうともしない。
 馬岱が不思議に思って問いかける。
「うん、茶はいいんだけどよ、お前誰だ?」
 名を名乗らないで居たのは馬岱の不手際だが、顔すら見知っていないとわかり、馬岱は頭痛を覚えた。
 本当に、興味のあること以外には散漫な注意力の持ち主らしい。
 ある意味従兄と良く似ている。
 これは、相当の難敵だ。
 ただでさえ己と良く似た敵を打ち破るのは難しい。加えて、この孫策という男は、従兄にはない素直さと率直さを兼ね備えている。人の奥底に無邪気に飛び込んでくる孫策と構えて侵入を拒むような馬超とでは、孫策に軍配を上げざるを得ない。
 偏屈なところがあるだから、あるいはとも思うのだが、楽観はできない。
 考え込む馬岱の胸の内を知ってか知らずか、孫策は不思議そうに馬岱を見つつ、笑みを浮かべている。馬岱から見ても男振りのいい、屈託のない笑みだった。
 従兄上も、もう少し愛想が良ければ話も違うのだが。
 顔の作りの良さでは、中原を見渡しても引けは取るまい。無愛想なのが、まず誤解の元であり玉に瑕なのだ。蜀入りの時も、それでずいぶん苦労した。
「お前、苦労してんだなぁ」
 いつの間にか眉間に皺が寄っていたことを指摘され、慌てて表情を作る。
「周瑜みてぇだな」
 孫策はからからと笑うが、美周郎と並べられる面映さが、逆に馬岱を冷静にさせた。
 従兄に不利だというなら、己がその不利を埋めるまでだ。
「……お茶を淹れましょう。こちらへどうぞ」
 何はともあれまず情報。
 これは、戦の定石だ。当の本人から情報を得るのもおかしな話だが、構っていられない。
 ただ、馬超がに無体をしていないといいのだが、とそれだけが心配だった。

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