泣くことはない。
 わかっているのだが、涙は止まらなかった。
 絶対に自分のことだ。自分のことで何か話している。
 確信しているからこそ、悔しい気持ちが抑えられない。
 何を話しているのか定かでないが、本人の前でこれ見よがしに過ぎるのではないか。隠すんだったら全部隠せと腹立たしくなる。
 何も知らずに能天気にしているのも馬鹿だとは思うが、知らない間は幸せでいられる。何も疑わずに何も気付かずに生きていられることが罪だとは思わない。時と場合によりけりだろうが、この場合は孫策と馬超への憤りが勝った。
 馬岱が戻ってきて、一人でぼろ泣きしているを見て驚き立ちすくむ。
 てっきり馬超と仲良くしているだろうと、ゆっくりめに帰ってきたのが仇となった。
 状況が把握できず、けれどを放っておくことも出来なかったので、馬岱は意を決しての傍らに向かった。
「……殿、どうしたのですか。何故泣いておられるのですか」
 問われても、困ったことにには返事のしようがない。
 腹を立てているのだ。
 それは間違いない。
 だが、ではどうしたら腹立ちが納まるとか涙が止まるとか考えると、さっぱり答えが出てこない。
 悔しい、悔しいという気持ちばかりが先にたって、馬岱を困らせている自分にも腹が立って、ヒステリーを起こしそうだった。
「ちょ、ちょっと待ってて下さい。私、今、キレる寸前で……!」
 キレると言って馬岱に通じるかも判断が付かないが、馬岱はの様子に察するものがあるのか、の傍から離れていった。
 が、すぐに椅子を携えて戻ってくるとの斜め前に置き、自ら腰掛けた。
 の膝の上の手を、そっと包み込んでくれる。
 男らしい、大きな骨ばった手は、片手での両手を包んでしまえそうだった。
 馬岱は懐から手巾を取り出すと、の涙を優しく拭う。
「涙が、涙を呼んだりするのですよ」
 泣きたくない時は、だから目元に布をぐっと押し付けてやるといい。意外に効果がありますから、と続けた。
「……泣きたくないって、どうしてわかるの」
「それはもう、悔しそうな顔をして口をひん曲げておいででしたからね」
 馬超の子供の頃とそっくりだと、懐かしげな顔で笑った。
 やや乱暴に目元を拭われると、擦られた肌がじんわり熱くなったが、涙の勢いはだいぶ納まっていた。
 そのまま馬岱から手巾を借り受け、目元を押さえる。
 布の隙間から馬岱を覗き見るように伺うと、馬岱はにっこり笑って返してきた。
「ごめんね」
 照れ臭さから小声で謝罪すると、馬岱はどういたしましてと柔らかく笑ってくれた。
「貴女は私に謝らなくていいんですよ。私は、貴女のことがとても大切なのですから」
 前にも言いませんでしたかと問われ、は顔を赤らめて押し黙った。
 星彩にも先日言われたばかりだ。貴女は尊いと、これまで言われたことのないような最大限の尊敬の言葉だった。
 一人が延々と同じことを繰り返していることになる。大事だ、大切だと言葉にして言ってくれている人達を信じられず、そんな馬鹿なと記憶の中に埋没させてしまう。
 馬鹿だなぁ、と改めて思った。
 こんなことでは、いつか本当に見捨てられてしまいそうだ。
「猛省します」
 の言葉に馬岱は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに微笑みかけてくれた。
 馬岱はに代償を求めていない。そういう人が居てくれるのは、とても心強いことだと思った。
 その時、扉の向こうから伺いを立てる声が聞こえてきた。馬岱が手配した食事が届いたらしい。
 馬岱の顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「温かいうちに戴いてしまいましょう」
 馬超に対するほんの少しの意趣返しだとわかり、も同意の笑みを浮かべた。

 入室の礼もなくずかずかと入ってきた馬超は、重い息を吐き出すと気を取り直したように奥に進む。
 そこに、と馬岱が差し向かいで仲良く食事をしている姿を見出し、愕然とした。
「お……お前達」
「従兄上、お帰りなさい。遅かったですね」
「先に食べてるよ」
 と馬岱は悪びれもせず、箸すら置かない。
「な、お、俺の食事は……」
「茹で栗あるよ」
 冷たくなってしまった栗の入った袋を差し出すと、馬超の顔に怒気が浮かぶ。
「お前、な!」
「帰ってこないのが悪いんじゃん」
「そうですよ、従兄上。殿は一人で泣いていたんですからね」
 も馬超もはっと馬岱を見遣る。
 それは、とが留めようとするが、馬岱は意にも介さず言葉を続けた。
「灯りも点けないで、椅子に腰掛けてしくしく泣いておいででしたよ。従兄上が泣かせたんですからね」
 反省を強要され、馬超は複雑な面持ちでを見遣る。
 で、よもや泣いていたことを暴露されるとは思わず、肩をすくめた。場の空気が冷めたものに変わり、馬岱がいつもどおり濁してしまおうと口を開きかけた時だった。
「……すまなかった」
 突然馬超が素直に頭を下げ、二人を驚嘆させた。こんなに素直に謝るとは、どちらも思っていな
かったのだ。
「な、従兄上」
「ど、どうしたの孟起! どっか悪いの!?」
 食って掛かるような勢いに、馬超の顔がみるみる赤くなる。
「何だお前達、俺が素直に謝っていると言うのに、その態度は! 悪いと思えばこそ頭を下げたのに、具合が悪いとは何事だ!」
 いやだって、ねぇと二人は顔を見合わせる。
 馬超は腹を立てたように、卓の上に並べられた皿から指で摘んで口に運び出す。
「ちょっと、もう、孟起! お箸使いなよお箸!」
「うるさい、面倒だ。腹に入れば何でもいい」
 が馬超を叱り付け、馬超は不貞腐れているせいもあってかの言うことを聞こうとはしない。
 何事もなかったように仲良く喧嘩する様に、馬岱は笑みを禁じえなかった。

 食事が済み、馬岱は空いた皿を纏めて厨房に下げに行った。
 給仕を下げてしまったから、これくらいは自分がやると言って、が引き止めるのにも応じない。
 二人でいられて楽しかったですから、とさも馬超にあてこするように言い捨てると、従兄の雷が落ちる前にそそくさと退室していった。
「……馬岱殿って、偉い方なんだよね?」
「知らん」
 からかわれた馬超はまたも不貞腐れ、の問いにもぶっきらぼうだ。
 はしかし、馬岱のような地位の高い者が洗い物を下げているのを人に見られたらと心配になる。笑い者になりはしないかと思うのだが、馬超は一向に介さない。
 蜀の将は、自分のことは自分でやる者が多い。西涼にいた頃ならまだしも、その土地に馴染むのに長けた馬岱がすることだからと平気な顔をしている。
「……玄徳様も?」
「大徳殿も戦場にある時はそうだ。城では、さすがに見目が悪いからと軍師殿に止められているようだがな」
 それはそうだろう。自分の皿を片そうとして、諸葛亮に見つかってお小言を食らう劉備の姿は容易に想像できた。
 馬超の指が、のほつれた髪をすいていく。
 心地よい指の動きに、言い知れぬ快楽を感じる。
「抱きたい」
 率直な言葉に、は瞑っていた目をぱっと開いた。
 馬超も意図せず漏らした言葉だったのか、やや顔を赤らめている。
「……いや、うん、そうだ。お前を、孫策殿のところへ連れて行く約束をしていた」
 唐突に抱きかかえられ、は思わず身じろぎした。
「約束って、私知らないよ!」
「俺と孫策殿の約束だ」
 勝手な言い分に、カチンと来た。
 のことなのに、何を二人で勝手に話を進めているのだ。自身の意思を端から無視したやり口に、は猛烈に抗議する。
 武芸では足元にも及ばずとも、口の饒舌さではに分がある。馬超はすぐに言い返せなくなり、
ぐっと詰まった。
「言い返せないんでしょ、ほら、やっぱり私の方が道理に適ってるんじゃない、だから言い返せないんでしょ!」
 単に反論する為の時間を与えてもらえないだけで、馬超とすれば言いたいことは山ほどある。
 孫策から話を聞かされて、絶対に秘密だと念押しされなければ怒鳴りつけてやりたい。
 言ってはいけないと思うから、他の理屈も上手く考えられなくなる。そこをがんがん頭ごなしに怒鳴られれば、それは腹も立つと言うものだ。
――絶対ぇ言うなよ。男と男の約束だかんな。
 孫策の声が、頭の中でくわんくわんと響いている。残響を伴うそれに、が耳元できゃんきゃん騒ぐ声が重なって、馬超は遂に限界を迎えた。
「だいたっ……」
 を抱えて両手は塞がっている。なので、強硬手段を取るとしたら方法は一つしか残っていないのだ。
 唇を塞がれることは初めてではないが、場所が場所だけにの抵抗は激しい。
 まだうるさいとみて、馬超は更に口付けを深くし、対するは更に抵抗を激しくする。
 馬超が口を解放してやれば黙るのだが、馬超は半ばパニックを起こしているからが黙るまでと逃げようとする唇を追いかけては塞ぐ。
 は、人に見られない内にと何とかして馬超を引き離そうとするのだが、制止の言葉も馬超によって封じられてしまって叶わない。
 堂々巡りを延々と繰り返す二人を、月が見下ろしていた。

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