星彩に連れられ自室に戻り、湯浴みさせてもらって朝食も食べさせてもらって、後の記憶はさっぱりだった。
 目が覚めると執務室の狭い牀の中で、を挟んで星彩と春花が対峙していた。
 うはぁ、竜虎相打つデスカー。
 見なかったことにしとうございます、と上掛けの中に潜り込もうとするを、春花が目敏く見咎めた。
さま、二度寝はなりません二度寝は! いったい何時までお休みになられるおつもりですか!」
 今何時くらいと聞き返すと、昼をとうに過ぎた時刻だった。
 まだ眠かったが、仕方なく起きだすことにした。
「……春花、もう大丈夫なの」
 まだ4日めのはずだ。
 春花は頬を染め、俯きつつもが心配だったのだ、と告白した。
 自分の体よりもの身を案じて出てきてしまう。
 そんな春花が愛らしく思えて、は思わず涙目になった。
「いやん、春花……愛してるわっ」
 が叫ぶと、春花の顔が一気に沸騰した。ぼん、と音を立てて湧き出すような勢いだった。
「な、ななな、何ということを仰るのですか、さまはっ!」
 単なる言葉遊びのようなものだが、こちらではそうはいかないのかもしれない。
 は照れ隠しに舌を出し、素直にごめんね、と謝った。
 背後からみり、と何かを握り潰すような音がした。ん、と振り返ると星彩が静かに佇んでいる。
 しかし、その拳は薄く血管が浮き上がる程に固く固く握り締められていて、みり、というのは巻き締められた手の肉が悲鳴を上げている音だった。
 ぎゃあ。
 は冷や汗をかきつつ、上掛けを畳みながら星彩に微笑みかけた。
「ご、ご飯美味しかったねー、背中も流してもらっちゃったし、助かっちゃった」
 話しかけられた星彩は、ふっと表情を緩ませてを振り返る。
「いいえ、でも、お姉さまったら食べながら眠ってしまうんですもの、びっくりしました」
 今度は春花の顔がぴきりと引き攣る。自分の仕事を盗られたとでも思うのだろうか。
 うあぁ、もう。
 どうしようと策を考え込んでいる間に、春花と星彩の舌戦が再び始まってしまった。
「星彩様、私が居ない間にさまの面倒を見ていただきどうも有難うございました。ですが、春花もこの通り登城できるようになりました。この上は、どうぞ春花に後をお任せ下さりませ」
「いいえ、春花。お姉さまを運ぶのは貴女では無理でしょう。お姉さまのことは私に任せて、貴女はお姉さまの身の回りのことをしてくれればいいわ」
 これが『年下の癖に』だの『立場を慮れ』というような埒もない口論なら却って諌めやすいのだ。だが、この二人は身分も立場も超えた対等の状態で正論のみを言い合うから性質が悪い。
 静かにヒートアップしていくものだから、どこに導火線が潜んでいるのか見当が着かない。
 あうあうと、口の回らない酔っ払いのようにおたついていると、来客の声が聞こえてきた。
 馬超だった。
「……ぅあっ、ごめん!!」
 昨日の今日だ。
 毎日、昼には顔を出すと約束したにも関わらず、は二日連続で約束を破ってしまった。
 急ぎ牀から降りようとして、足が絡まって滑り落ちそうになる。
 助けてくれたのは孫策だった。
 ひょいと横抱きに抱き上げる。
「まだ寝てたのかよ」
 誰のせいだと睨めつけるが、春花と星彩の前で迂闊なことは言えない。もっとも、星彩は察しているようだが。
 孫策も馬超と一緒に迎えに来たらしい。むしろ、孫策が馬超を引き摺って迎えに来たようだ。
 と目が合うと、馬超は顔を赤らめてそっぽを向く。
 朝方、『しばらく会わぬ方が』と言っていたことを思い出した。
 馬超は、知っている。
 問い詰めれば、嘘が下手な馬超のことだから喋るかもしれない。
 じっと見詰めていると、突然頭突きされた。
「おっ前、んな怖い顔すんなって」
「い、痛いなぁ、もう!」
 本当はそれほど痛くない。不意打ちをくらって、それでつい文句を言ってしまっただけだ。
 けれど、春花と星彩は過剰に殺気立った。
「お姉さまに何を!」
「そうです、何をなさるんですか孫策様!」
 食って掛かる二人に、孫策はきょとんとしている。
「何って……なぁ?」
 を振り返るのが、更に二人を煽る。
「お姉さまから、離れて」
「何で」
 二人の殺気は相当なものだが、孫策はまったく怯まない。
「そ、孫策様、同盟国の跡継ぎというだけでこの傍若無人、春花は許せません!」
 春花が吠えるも、孫策は動じもせず、面倒そうに頭を掻いた。
 いつもなら逃げ腰の及び腰でたじたじになる孫策が、落ち着いて……というより、むしろ呆れているのを隠そうともしない。
 二人の顔をゆっくりと見渡す。
「……あのな、お前ら。がどんだけ好きかわかんねぇけど、あんましつっこくすっと、逆にの迷惑になんだよ。もうちっと考えて動け」
 な、と一声発したまま、春花も星彩も固まってしまった。顔が赤く染まっている。屈辱なのだろう。
「い、言わせていただきますけれど! 孫策様、既に奥様が居られるではありませんか! そのような方が、さまをお望みになるのは如何なものでしょうか!」
 妾を持つのは悪いことではない。跡継ぎを作らないことこそが罪悪と、中原で最も力を持つ儒学はそう謳っている。
 だが、妾が正妻より上の立場でいられるかと言えばそんなことはまず在り得ない。妾は妾だ。天子や権力者の妻達は、きっちりと順位をつけられ力関係を定められている。それだからこそ争いも少なくて済むのだろうが、それでも正妻の立場に比べれば妾の立場は如何にも頼りない。
 春花はそれが言いたいのだろう。言いたいことはわかるが、今言うべきことでもない。
 短気を起こしての意趣返しとしか見えなかった。聡い春花にしては、ずいぶんな愚行である。
 それだけ悔しかったと言うことか、と馬超は春花を憐れんだ。
 春花自身も泣きそうな顔をしている。自分の言葉に傷ついているのだろう。
「……しゅ……」
 は掛ける言葉を見出せぬまま、春花の方へと手を伸ばした。
「それでも、好きだかんな」
 ぽつり、と孫策が漏らした。
「俺は、滅茶苦茶こいつが……が好きだから。絶対ぇ嫌な思いなんかさせねぇ。絶対ぇだ」
 が孫策を見上げると、孫策は苦悩したように眉を顰めていた。
 おもむろに息を吸い込み、ぶはぁっと大きく吐き出した。生暖かい空気の塊がの顔を直撃する。
 文句を言いかけたに、孫策はいつもの笑みを向けた。
「俺も、ちったぁ成長しただろ? 周瑜に良く怒られてっからな!」
 わはは、と笑う孫策に、も何と言っていいかわからない。
 思わず孫策の頬を指で捻り上げる。
「ひてぇ、あにすんだよっ」
「う、うるさいうるさい、何となくよ何となくっ!」
 何となくで同盟国の跡継ぎの頬を捻り上げる奴があるか。
 馬超は頭痛を覚えて額を抑えた。
 孫策は気にした様子もない。楽しげに笑っている。
 よく笑えたものだ、と感心する。馬超は自分の顔を撫で摩りつつ、星彩と春花に向き直った。
「……もし未だ済ませてないなら、共に昼餉でもどうだろうか」
 気まずさに俯いていた二人は、馬超の申し出に驚いたように顔を上げた。
「……よろしいのですか」
 星彩はおずおずと口を開く。馬超もぎこちないながら笑みを浮べた。
「構わん、岱に言いつけてこよう」
 馬超が踵を返すのを見て、が慌てて呼び止めた。
 呼び止められたわずかな時を使い、気づかれぬようにそっと息を飲み、振り返る。
「何だ」
 堂々として、いつもと変わらず少しイラついたような馬超の声に、は拍子抜けする。
 何か違う、どこか違う、きっと自分に隠し事をしているからだと思っていたのに、呼び止めた馬超はあまりにもいつもと変わらなかった。
 戸惑い、首を傾げるに、馬超は更にイラついたように眉を寄せる。
「何だ、早く言え」
「……あ、う、な、何でもない……」
 疑り深くを覗き込む馬超に、は首を竦めた。
「何だよ、そんなら一緒に行けばいいじゃねぇか」
「……夜着のまま行かせる気か。着替えさせろ、その間に俺は岱に申し付けておく」
 言われてみれば、は未だに夜着のままなのだ。
 湯を使った時に孫策の夜着は脱いだものの、食事を済ませたら少し眠りたいから、と自分の夜着に着替えていた。
 仕方なかったのです、目が覚めるとそこは修羅場だったのですから……。
 心の中でレオっぽいナレーションを流すと、は春花に服を出してくれと頼んだ。
「星彩ど……星彩、悪いけど着替え手伝ってください」
「俺は?」
「外に出てろ」
 すげない態度に、だが孫策はぶちぶち文句を垂れながら外に出て行った。
 扉が閉まる音がして、はやれやれと肩を落とした。
「……あの、さま……」
 申し訳ありません、と頭を下げる春花を、は笑って抱き寄せた。
 行き過ぎがあったとしても、春花が心の底からを心配してのことだとわかっていた。
「わかってるよ、春花は私が好きで、心配で言ってくれてるんだもんね」
 言葉は無力だ。だから、わかっていることでもわざわざ口に出して言ってやらなければいけないこともある。
「星彩も、ありがとね」
 頬を染め、もじもじとしている星彩は年相応に見えた。
 暴走するのは、何も二人だけではない。偉そうなことを言っていた孫策とて、馬超も趙雲も姜維さえ暴走する。勿論、もだ。
 大切な人が居るって、凄いことなんだなぁ。
 改めて感動していると、春花が心配したように上目遣いで見上げてきた。
「うむり、好きと言うことは素晴らしいことだ!」
 どこかで聞いたような台詞を口にした途端、腹の虫が鳴いた。
 寝てても腹が減るのは、実に不条理な気がした。

 孫策は廊下を早足で歩いていた。
 柱の影に、見慣れた人影を見つけて立ち止まる。
「よ、子龍」
 したっと手を掲げて笑いかける孫策に、趙雲はいつもの薄い笑みを向ける。決して冷笑に見えないのが、この男のずるいところだろう。
「何を企んでおられるのです」
 いきなり切り出され、孫策の顔に動揺が浮かぶ。
「……お前な。いきなりンなこと言うなよ。びびっちまったじゃねぇか。……ねぇよ、何にも」
「先程馬超が険しい顔をして行き過ぎました。あのような嘘の吐けない男に秘密を漏らすから、私などに嗅ぎ付けられる羽目になる」
「馬超と俺と、何で関係してるってことになんだ」
「この先には、馬超の執務室があります。貴方の歩きようは、何か焦っているようでした……そう、誰かを追いかけているような。イラついても居られた、何故居ない、何処に行ったかと探すかのように辺りを見回しても居られた」
 趙雲はまるで教え子に回答を答えるように淡々と答える。
 孫策は渋い顔を隠そうともしない。
 まったくこいつは、とぶつぶつ口の中で呟いているのが聞こえた。地声が大きいので、呟きも呟きにならない。
 しばらく思い悩んでいた孫策だったが、終いには腕を大きく天に翳すようにした。降参したらしい。
「あぁ、畜生、おっ前ホンットいい性格してんのな」
「お陰さまで」
 褒めてねぇと言いつつ、孫策は趙雲に背を向けた。
 趙雲も黙って後を追う。
「ついでだ、馬岱も巻き込む。馬超一人じゃ、どうも心許ねぇからな」
 孫策の歩き方は常のそれに戻っていた。
 覚悟を決めた、というところか。
「ホントは、あんま関わりのある奴増やしたかねぇんだが……ま、しかたねぇな」
「孫策殿」
 趙雲が呼びかけると、孫策は不思議そうに趙雲を振り返った。
「それは、馬超には言わぬ方が良かろうと思われます」
 孫策は何のことかとしばらく考えこんだ。
「心許ない、等と聞けば、あの男は腹をたてて暴れましょう」
 説明されてようやく合点のいった孫策は、ぷっと吹き出し体を揺すって笑い出した。
「違ぇねえ」
 いつもの笑みだった。少し、気が楽になる。
 併せるように微笑んだ趙雲の目がふと曇った。
 孫策に悟られないようにと何気なさを装い空に視線を向け、遠くに灰色に煙る雲が立ち込めているのに気がついた。
 雨が降りそうだな、と思った。

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