が杖を突きつつ馬超の室に辿り着くと、中には馬超と馬岱、孫策と何故か趙雲が居た。
 体を重ねた男達が雁首揃えているのを見るのは、あまり心臓にいいことではない。相手がお互いに承知していることとは言え、落ち着けようはずもなかった。
「歩いていいのか」
 久しぶりに聞く趙雲の声は静かで、時間が経ったことを感じさせない。
 最後に会ったのは何時だったか、とは記憶を辿り、そんなに経っていないかもしれないと言う事実と会うのが孫策を含めての淫事以来だったということを思い出した。
 みるみる顔が渋いものに変わり、それを見ていた趙雲は可笑しさを堪えるように目を細めた。
 それがまたの癇に障るのだが、趙雲は素知らぬ振りだ。
「さ、殿。何時までも立っていてはおみ足に悪いでしょう。こちらへどうぞ」
 馬岱が手を差し伸べて空いた椅子へと導いてくれる。さり気なく馬超の横に掛けさせる辺りが馬岱の上手いところだ。
 星彩も空いた椅子へ、春花はの背後に控えた。
 昨日まで置いていなかった筈の卓は、恐らく人数が増えた為に慌てて用意させたものだろう。馬岱が合図すると、盆に料理の皿を掲げた女達が入ってきた。
 遅めの昼餉を向かい合わせて取る。
「……子龍、どうしてここに居るの?」
「居てはまずいのか?」
 鸚鵡返しに返してくるので、の眉がむっと顰められる。
 星彩はきょとんとして二人を見比べていたが、おもむろに口を開いた。
「趙雲殿、いつもはそのようなことは仰らないのに、どうしてお姉さまにはそのような物言いをなされるのです」
 え、とは口を噤んだ。
 気がつけば趙雲も同じような顔をしている。
「……そうか。気がつかなかったな」
 趙雲はあっさりと事実を認め、に軽く笑いかけた。
 何だか急に恥ずかしくなって、思わず視線を避けてしまう。顔が熱くなった。
 には、ということは、趙雲にとってがある意味特別な存在だと言うことだろう。
 特別も特別、何度も告白をされている。
 大切だ、好きだ、愛している。
 だが、はその言葉をどこか夢の中で聞いているような心持で受け止めていた。
 趙雲が、まさかそんなという気持ちが絶えずある。
 何度も、本当のことだと認識しようと努力はしていた。しかし、しばらくするとやはり言葉は空気に溶け、記憶の隙間へと沈んでいってしまう。
 疑り深いということもある。それ以上に、あの趙雲がという気持ちが強い。
 そんなことを言えば、馬超や孫策、姜維なども皆そうなのだが、趙雲に対しては特にそういう気持ちが大きい。
 視線を集めていることに気がついたは、照れ隠しに目の前の膳を掻き込み始めた。
 苦笑じみた空気が広がり、皆もに習って食事に集中する。春花一人が、主の男らしい仕草に苦虫を潰していた。

 しばらく執務室で書簡と戯れる日を過ごした。
 星彩でさえ多忙になり、来客もなかったの室に今日は医師が診察に来てくれていた。
 の足を診ていた医師は、にっこりと笑う。
「もう足を縛る必要もなかろう。ただし、足を使う時は注意してな」
 の顔にも笑みが浮かぶ。
 礼を述べ、いくつかの注意に頷き、は医師の最後の診察を終えた。
 蜀に戻ってからずっと掛かってきた医師だけに、の尊敬の念は深い。あれほど痛み、歩くのに不自由していた足は、今は嘘のようにすっかり良くなっていた。
 体が通常であるということが、これほど有難いと言うことをは改めて実感した。
 このことは、ずっと忘れないようにしよう。
 感動は些細なことでも忘れなければ、心のアンテナを広げることに繋がろう。
 人と人の絆だけが、が外交を担う術になる。誠意と熱意だけでは足りない。他人の心を汲み読み取る能力を磨こう、と思い立ったのは、つい最近の話だ。
 容易いことではない。
 ただでさえ鈍いには、この能力を磨こうにも磨く元すらないかもしれない。
 だが、外交の為に必要な知識や経験は、それこそ得難い至宝だ。それに、が今からそれを得ようとしても既にそれらを納めただろう周瑜や呂蒙達に敵うはずがない。別の切り口がどうしても必要だ。
 だからこそ、信頼し、信頼を得られるように人を慈しもうと決めた。醜い感情も悪しき感情もあるだろう。それらと向かい合って尚、その人柄を見出し絆を結ぶべきかどうかを定め、定めたならば一途に信頼する愚鈍さを持たなくてはならないが、元より楽にこなせる仕事ではないとわかっている。
 頑張ることなら、にもできることのはずだった。
「それはそうと、夜出歩く方は如何かな」
 は微笑んだ。
 幸いにして、ここのところは症状は出ていない。もっとも、孫策が抱きかかえて眠ってくれるからだと思う。
 ここのところの長雨で、急に冷え込んできていていた。孫策の平熱の高さは心地よい湯たんぽのようで有難い。は冷え症なのだ。
 の冷たい足を、孫策は自らの足で挟んで暖めてくれる。
 冷てぇな、と笑われる。
 その目はいつも、心底優しく緩んでいる。
 孫策は、何があろうと信じていい人だ。決して自分を裏切らないだろう。
 呉に行ったら、必要以上に孫策を頼ってしまうかもしれない。それは注意しなければならなかったが、それでも頼れる人が居てくれるのは有難かった。
「呉に行くのだったかな」
 医師は顎鬚を撫でながら、にこにことしてを見遣る。
 が頷くと、医師は大きく頷いた。
「行く前には、わしにも一つ連絡を寄越してくれんかね。薬を幾つか煎じておくからの。向こうで病になれば、それを飲むといい」
 大切な国の行く末を担う者の一人に、医師として出来る限りのことをしてやりたいのだと言って笑う。
 必ず連絡すると約束して、は医師を見送った。
 さて、と腕まくりをし、諸葛亮の執務室へ面会の申し込みに向かった。

 諸葛亮の室に向かうと、すぐに室に通された。
 相変わらず山のような書簡に囲われていたが、諸葛亮は黙々と竹簡を片していく。
 片した後から書簡が運び込まれるのを見て、はこっそり『無限竹簡地獄』などと考えていた。
「……何か今、可笑しなことを考えていたでしょう」
 不意に声がして、見遣るといつの間にか諸葛亮が顔を上げてこちらを見ている。
 人の考えを見抜くのが本当に上手い。が求めるのは、実はこの諸葛亮の『天眼』と称すべき能力なのだ。ここまで極めなくてもいいから、輪郭だけでも得たいと望んでいる。
 対周瑜と言うことで、自然諸葛亮の能力を得たいと思ってしまったのかもしれない。
「何で、わかりました?」
 いつもなら口篭って黙ってしまうのだが、少しでも会得の為のヒントが欲しくて質問する。
 諸葛亮も少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んで筆を置いた。
 執務の卓から離れると、別室の小さな円卓にを誘う。
「ご質問の答えから答えるならば、ごく簡単に言って貴方はすぐ顔に出る方だからですよ」
 さも可笑しそうに口元が緩むのを見たのだと言う。
 ヒントもくそもない、は恥ずかしくなって俯いた。
「……貴女には自覚がないやもしれませんが、貴女が貴女であることこそが一番の能力なのですよ」
 諭すような口ぶりに、は顔を上げ、ついでに身を乗り出した。
 諸葛亮も思わず苦笑するがっつきようだった。だが、にしてみれば構っていられない。足が治った以上、呉に出立する日は明日とも知れないのだ。
「……自分を鍛錬することは良い心がけです。何一つ無駄になることはありません。まず、それを覚えていて下さい」
 普通と言えば普通の助言だ。
 だが、それも諸葛亮が言ったとなると値千金に思える金言だった。
 うんうんと頷くに、諸葛亮はただ黙って笑う。
「貴女が貴女で居た呉で、貴女を憎んでいる者は今や希少でしょう。貴女の性質が、呉にて歓待される証です。正直、余計な知識や考えは逆に貴女にとっての不利となりかねません」
 それは、とが遮ろうとするが、諸葛亮は指先の仕草一つでそれを留めた。
「貴女は努力こそが尊いと考えておられるようですが、何もしないことが何かを為そうと足掻くよりも良いこともあるのです。天ですら星を巡らせるもの、ましてや人の心は移ろい易くその色を様々に変えていくもの。こうであるべき、という信念は時に愚かで薄弱です。……私の言いたいことが、お分かりいただけますか」
 わかるが、わかりたくない。
 それがの正直な思いだった。
 努力が必ず報われることはない。それが現実だ。
 けれど、努力したことが何にもならないと思っては、努力のし甲斐がない。認めたくなかった。
 またもや顔に出ていたのか、諸葛亮はくすくすと笑う。
「そう思うところもまた、貴女の良き資質だと思います。貴女が貴女であれば、この蜀に良き風が吹くのは間違いなく……ですから、貴女は貴女のやりたいようになさるのが良いのですよ」
 どうも、今ひとつはっきりしない。
 謎めいた話の展開は諸葛亮の得意とするところだが、常であればが自ら思考し答えを手繰り寄せる為のヒントが散りばめられていることが多い。
 今回に限っては、それらが何故か感じられない。
 あるいは逆に、の中に諸葛亮のヒントに見合う答えがない、ということなのだろうか。つまり、答えはこれからが見つけるだろう、というような。
 諸葛亮はただ黙して笑うのみだ。
 時間が来たのだと察して、は退室の挨拶を述べ、室を辞した。

 諸葛亮の室に赴いたのは、怪我の完治を報告することもあったが、他に仕事をもらえるのではないかと思ってのことだ。
 何もしていなかったのは、怪我を治すのに専念せよと言うお達しがあってのことだ。治った以上、怠惰な日々とはお別れしなくてはなるまい。
 怠惰と言うと御幣があるように感じるほど色々あったのだが、すべてプライベートの話なので致し方ない。
 早くこの世界の情熱の熱さ激しさに慣れたいものだ。
 蜀は暖かな国だが、それでも冬支度に備えて皆が皆働いているに違いない。
 姜維のところに顔を出してみようかな、と踵を返すと、誰かがさっと柱の陰に隠れたのがわかった。
 蜀、成都の城にあって、に隠れる事情がある者が居るとは思えない。居るとすれば、それは……。
 の顔が青ざめる。
「誰」
 詰問するつもりが、喉が震えて上手く声が出なかった。は生唾を飲み、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
「誰、隠れてないで出てきなさい。私にいったい何の用なの」
 今度は落ち着いて声が出せた。
 蜀の文官として、賊ごときに怯んではならないと言う思いもある。
 しばらくの沈黙を置き、柱の影からひょっこりと顔を出したのは魏延だった。
「な……」
 なぁんだ、と一気に気抜けした。
「魏延殿、何してらっしゃるんですか」
 ひょこひょこと近付くと、魏延はどこか落ち着かなさげにきょろきょろと辺りを見回した。
「……私、一人ですよ。ひょっとして、何か相談事ですか?」
 諸葛亮の室に居たと知っていれば、魏延が落ち着かないのも無理はないのだ。何せ、諸葛亮は魏延を嫌っている。
 だが、としては諸葛亮が魏延を嫌うのはポーズなのではないかと疑っているところもある。
 集団である以上、些細な歪が生じるのは仕方がない。その歪が思わぬ結果を招くことを嫌って、諸葛亮は自らその歪……つまり、魏延を嫌って見せているのではないかと思う。
 魏延は見た目こそ恐ろしいが、中身はごく純朴な男だ。わかっていれば嫌う者は少ない。そういう魏延だからこそ、敢えて辛く当たり、軍の中の統率を取っているのではないか。
 嫌な話だが、嫌われ者がいることで集団は団結を強くすることがあるのだ。魏延の性質ならば、彼に味方し擁護する者もいるだろう。また、完璧と見受けられる諸葛亮にも人間臭さを感じることができる。何と大人気ないと諸葛亮を非難することで、不完全な己の晴らしようもない鬱憤を晴らすこともできるのだ。
 の勝手な推測ではあったが、当たらずとも遠からずと言ったところではなかろうか。
 魏延は、小走りにの元に駆け寄るとその体を掬い上げて走り出す。
 悲鳴が上がりかけるのをぐっと堪え、魏延の顔を見上げる。何がしたいのかわからない。
 魏延の顔は仮面に隠されており、目だけが覗いていたが何を考えているのかまでは察しようがなかった。
 器用に窓枠や組み合わされた石のわずかなとっかかりを伝い、を抱えたまま屋根の上に飛び上がった。
 当たり前だが人気はない。
 冷たい風が吹き抜けて、は身をすくめた。
「……歌……」
 魏延がようやく口を開いた。
「う、歌? 歌、歌って欲しくてこんなとこに来たんですか?」
 こくりと頷くのを見て、は眩暈を起こした。
「……人……見ラレルト……迷惑カカル……」
 はっとした。
 魏延がを気遣ってこの場所を選んだのだとわかった。だが、それが屋根の上であることには何ともいえない苦さを感じた。
 そんなに気を使わなければならないのか、という悔しさと悲しさが綯い交ぜになる。
「……あのね、魏延殿。そんな、気を使うこと、ないんですよ?」
 歌が聞きたいと言うなら、その場で言えばいい。それで被る迷惑ぐらい、どんと構えて受け止めてやる。
 がそう主張すると、魏延は困り果てたように首を傾げた。
「それに、ここ、寒いですよ」
 だから降りましょうと言うのを阻んで、魏延がぎゅっと抱きしめてきた。
 心臓が跳ね上がる。
 魏延は、再び首を傾げてを覗き込む。
 こうすれば確かに暖かい。暖かいが、どうしたものだろう。
「…………我……怖イカ……?」
 沈黙を恐怖からと受け取ったのか、魏延の声は心細そうに聞こえる。
 そんなわけがない。
 うー、と唸っていたは、魏延の腕の中で突然歌い始めた。
 歌いながら見上げれば、魏延の口元が綻んでいる。
 仕方ない人だなぁ。
 一曲歌い終わったら、もう一度魏延を説得しようと心に決めて、は歌を続けた。
 の歌声は、冷たい風に溶け、かき消されていった。

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