春花は時折腰や下腹を撫で回しながら、の為に執務室を片付けていた。
 の足はだいぶ良くなっていたから、近い内に呉に向けて出立することになるだろう。それを見越して、必要最低限のものを選別して取り出す。後の物はある場所だけがわかるように整理して、行李の中に仕舞っておくことにした。
 は自分を連れて行ってくれるだろうか。
 ここのところ失態続きだった春花は、それだけが気がかりだった。
 ずっと生まれ育った蜀から離れて暮らすのは、春花にとってはなかなかに気の重いことだった。短い間だったにも拘らず、呉での生活は春花をほとほと疲れさせた。
 奔放な女主人のせいもあったが、そのが無造作に振りまく媚(と言い切るのは何だか気が引けたけれど)に釣られるように集まってくる強面の男達に、がいつ危ない目に遭わされるかとはらはらしていた気疲れが大きいと思った。
 中原から遠く離れたところで暮らしていたというは、本当に奔放で伸びやかだった。しかし、その奔放さも呆れるほどではなく、頑なで意固地なところは中原のどんな女にも勝るとも劣らなかった。
 いったいどんなところで生まれ育てばのような女になるのか、春花には幾ら考えてもわからない。
 当の本人が何処に行ったかわからないが、今日は医師が診察に来ていたはずだった。
 ここのところの長雨で母が少し体調を崩した為、登城の時間を遅くしていただいていた。診察に立ち会えなかったのは面目ないが、ここのところの具合を見ている限りの完治は近いと思われた。
 母の具合もだいぶ良くなったし、思い切って打ち明けたら何とか許してくれた。呉での生活は大変かもしれない、ひょっとしたら命を落とすかもしれないけれど、それでもに着いて行こうと心に決めていたから、今日ははっきりと同行の許しを得ようと気合を入れていた。
 お陰でなんだかお腹の辺りが痛い。
 早く話してすっきりしたいと思うのに、はなかなか戻ってこなかった。
 護衛兵でも着いていれば、そこら辺の遣り取りはもっと早いはずなのだ。にはいつまで経っても護衛が着く様子がない。
 が蔑ろにされているようで、春花は面白くなかった。
 あぁ、駄目だ、やっぱり私がさまについていて差し上げなくっちゃ!
 決意も新たに、再び扉に目を向ける。開く気配もなかった。
 溜息を吐いて今度は窓の外を見遣ると、窓枠にぺったりと張り付いた人影がある。
 あまりのことに声もない。
 異形の人影に、恐怖で足がすくむ。
 叫ばなくっちゃ、主の留守に化け物がやって来た!
 口を大きく開けるものの、あわわ、というけったいな声が漏れるばかりだった。
 こんなことでは呉に行ってもの足手まといになるだけだ、しっかりしなくちゃ、しっかり。
 念じている間に化け物はのそのそと室の中に入り込んできた。
 その背に己の主がしがみ付いており、あまつさえ『やっほー』等と呼びかけてきたのを見て、春花の怒りは別方向に点火した。

 魏延を宥めすかして、ようやくの執務室に行くことを了承させた。
 それはいいが、どうしても廊下から行くことを魏延は承知してくれなかった。
 故に窓から侵入することになり、恐らく春花に怒られるだろうなと考えその通りになった。
 正座するのは久しぶりだが、痛みはまったく感じない。
 治ったのだと思うと自然に笑みが浮かび、更に怒られる羽目になった。
「……ウ……」
 黙って成り行きを見守っていた魏延が、小さく唸り声を上げた。
 春花がびくりと肩を竦ませ、不安げに魏延を盗み見る。
 はそんな春花を見上げ、魏延と春花をきょときょとと見比べる。
「魏延殿は大丈夫だよ、春花」
 言っている意味はわからないし、魏延に対しても失礼だろう。
 春花は慌ててを諌めようとしたが、は魏延に微笑みかけ、ね、と首を傾げた。
 魏延はその微笑に応え、微かに頷いた。
「お茶淹れてくれる、春花。外に居たから、手も冷たくなっちゃって」
 魏延を誘い椅子を勧めるに、春花は慌てて飛びついた。
「あ、あの、でもさま……私、大事なお話が」
 今話してしまわねば、折角固めた決意が崩れてしまいそうだ。遠い異国の地で、主を守る重責に日々耐えていかねばならない。それでも尚、と振り子は旅立ちへと春花を促した。振り子を固定するには、との確約が不可欠なのだ。一度約定してしまいさえすれば、それが春花の決意の後ろ盾になってくれるはずだった。
 は春花に微笑みかけ、春花は主が己の嘆願を受け入れてくれたのだと一瞬だけ思った。
「呉には、連れて行かないからね、春花」
 しん、と沈黙が落ちた。
 春花は予想外の言葉に立ちすくむのみだ。反論することも出来ずにいた。
 は静かに微笑んだ。魏延に一礼して、客人の前で私事を行う無礼を詫びた。魏延はわかったのかわからなかったのか、首を傾げて二人を見ている。
「……あのね、春花。呉には、私一人で行くの。一緒に行ってくれるって気持ちは嬉しいけど……」
「何故ですか!」
 弾け飛ぶように春花が声を吐き出した。
「何故ですか、そんな……お一人でなんて、無理です、だって……!」
「どうして、無理? 私、呉に行った時は一人だったよ。ちゃんと生活できてたでしょ」
 憤りに身を焼かれているような春花と、それを静かに見詰めるはまったく正反対だった。
「わ、私がお入用ではありませんか!? もう、必要ないのですか!? し、失態続きだったから、だからですか!?」
「春花」
 は膝まづき、春花の顔がよく見えるようにした。
 泣きそうな顔をしている。
「春花、私が春花をいらなくなるなんてことは、絶対にない」
「なら」
「でも春花、私は仕事をしに行くの。自分の身もろくに守れない私が、春花を守って上げられることはできないと思うのね」
 春花は絶句した。
 守るべきは己であり、守られるべきはに他ならない。が何を言っているのか、理解できなかった。
「……春花が居てくれれば、それは心強いよ。でもね、それだけ。春花が危ない目に遭ったら、攫われたら、殺されたりしたら。私、役に立たない。ずたずたになっちゃう。それは春花が居ないことより辛いことだから」
 でも、と春花は言い募った。言い返せる言葉など何も持っていない。けれど、でも、という言葉は留められなかった。
 でも、でも、とそれだけを繰り返す春花に、は苦く笑った。
「もし私が呉で命を落として、春花が生き残ったとしたら? 春花は、平気で居られる?」
 居られない。
 気が狂ってしまいそうになるだろう。後を追うに違いない。
 黙って首を振る春花に、は小さくごめんね、と謝罪した。
「でもね、私一人だったら、きっと呉の人達も守りやすい。実際、守ってくれたし……。あんな強い人達が蜀の味方で居てくれるなら、それは蜀にとって物凄い力になる」
 私はそうあるように仕向ける為に呉に行くの。
「でも、私はまだ此処に来て少しだし、知識も経験も全然足りないし、だから春花を連れて行っても春花を上手く使って上げられないの。だから、ね、春花」
 もういい、と春花は激しく首を振った。
「……お母さんが、折角許してくれたのに……」
 春花の涙交じりの声に、は少し戸惑った顔をした。
 行かせたくないのも母の心情なら、行かせたいのも母の心情だろう。
「ごめんね、春花。でも、わかってくれて有難う」
 が春花の髪を優しく撫でると、春花は堪えきれなくなったようにわっと泣き出し、の胸に取りすがった。
 わんわん泣く春花を黙って抱きしめていると、背後からちょんちょんと肩を突くものがある。
 はっとして振り返ると、魏延が所在なげに立っていた。
「う、わ、あ、ごめんなさい魏延殿!」
 すっかり忘れていた。
 春花も涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、必死に涙を拭う。
「お、お茶、すぐにご用意いたしますね……」
 春花が駆け出そうとするが、魏延が大きく頭を振ったのを見て、何となく立ち止まる。
 の顔を困ったように見詰める魏延に、も何事かと首を傾げた。
「……ゥ……、呉、行ク……?」
 あまりに素っ頓狂な問い掛けに、は拍子抜けしたように目を丸くした。
「え、いやあの、伯符……孫策殿がお帰りになる時、一緒に船で……あの、まだ日取りは決まってないみたいですが……」
 行程を尋ねられているのかと思ったのだが、魏延はただ首を振るばかりだった。
「…………呉ニ行ク……ナイ……」
 輪をかけて頓狂な言葉に、と春花は顔を見合わせた。
 が呉に行かない。行かせないと言っているのだろうか。そういう風にも思えなかった。
 魏延はもどかしげに何度か頭を振り、手をぶらぶらと揺らした。
 春花には恐ろしく見えるのか、きゃっと叫ぶとの後ろに隠れてしまった。魏延の爪は鋭く長い。しかも、緑色に染め抜いている。
 毒々しいそれが、禍々しく思えても仕方なかろう。
 魏延は己の言いたいことを言葉に直すべく四苦八苦しており、春花の非礼に気がついた様子もない。
「……劉備……言ッテタ…………呉ニハヤラヌ……新シイ妻……劉備ノ元ニ来タ時……ソウ言ッテタ……」
 頭を殴りつけられるような衝撃があった。
 劉備が、新しい妻……つまり尚香にそう言ったのなら、それは事実だろう。
 を呉にはやらない。行かせない。
 そんなことが出来るのだろうか。同盟国の君主自らが直々にを望んでいたはずだ。これは、そう、諸葛亮から聞いたことだから、間違いはない。
 例え劉備が尚香の為にそうしようとしても、諸葛亮が許すわけがない。そんなことは君主としての裁量などではなく、新妻の関心を得ようとする夫のつまらないごますりに他ならないではないか。
 だが、しかしである。
 呉の側からそういうアプローチがあったとすれば、如何か。
 例えば、……例えば孫策が。
 繋がった。
 は頭の中で目まぐるしく再生される記憶の映像を呆然として見詰めていた。
――……お前、呉に来るの嫌なのか?
 確認するように問いかける孫策の顔。
――あいつが、お前を独り占めしたいなどと言い出すから、かっとして。約束が違う、蜀に居る間は俺に、と、だから
 憤りつつも訝しげな馬超の姿。
――……すまなかった
 突然素直に謝った馬超。
――……には、絶対ぇ内緒だかんな
 殺気すら篭めて念を押していた孫策。
――お前達にとっちゃ、嬉しくてしかたねぇんじゃねぇのか。俺だったら、素直に喜ぶぜ
 苦笑いして肩を揺する孫策。
――その代わり、お前ら本気で守れよ。劉備に話は通してあるけどよ、それでも何がどう転ぶかわかんねぇからな
 託すように、真剣に、頼むぞ、と言わんばかりの……。
 真っ青になって立ちすくむに魏延は何か悪いことを言ったのかと春花に問いたげだったが、春花とて何が何だかよくわからない。は呉に行くものと思い込んでいたし、自身もそう思っていただろうと思った。
 突然根底から覆された事実に、は完膚なきまで打ちのめされていた。
 置いていくつもりだったのだ。
 それと気付いて、何故もっと早く気がつかなかったのだろうかと悔やむ。
 行くと言ったのに、行きたいのだと懇願したのに、だがそうだ、孫策は結局の宣言を誤魔化してしまったのだ。
 何故だ。
 簡単だ。
 孫策は、やはりを置いていくつもりだったのだ。の望みを敢えて無視して、置いていくつもりだったのだ。
「私」
 の眦から涙が溢れ出し、後から後から零れ落ちていった。
「伯符のとこ、行ってくる……!」
 止める暇もない、昨日まで布で足首を固定して動かないようにしていたとも思えない、物凄い勢いでは室を飛び出していった。

 怒りで視界まで狭くなっている。
 更に、溢れる涙がわずかな視界をも曇らせ滲ませてしまう。
 優しくしてくれたのは、別れまでの短い時間を名残惜しむ為に感傷に浸っていたからなのか。
 笑いかけてくれたのは、もう会えなくなる己の思い出を美化するだけの意図からだったのか。
 情熱を叩きつけたのは、二度と味わうことのない肌の甘やかさを貪りたい為だけだったのか。
 そんなものはいらない。
 真っ平御免という奴だ。
 この怒りを叩きつけてやらなければ、到底収まるものではない。
 行きたいと言ったのは、私情からだけではない。
 行く、と決意したのは、己の為だからではない。
 職務を携えてのことだ。否、蜀の面子をかけてのことだ。
 そうじゃない、とは首を振った。
 かっこつける必要なんかない、私のこの感情は、ただ裏切られたことに対しての憤りだ。
 嘘つき。
 詰る言葉は、いつしか一つに集約されていた。
 嘘つき!
 の行く手を遮る人影があった。
 趙雲だった。
「……子龍、も?」
 孫策と馬超、それに趙雲もまた、あの卓を囲んでいた一人だった。
 ならば、趙雲もまた、を偽っていた者の一人だ。
「子龍も、私に嘘吐いてた、の?」
「あぁ」
 趙雲は、あっさりとそれを認めた。
 目の奥から、かっと赤い色が滲む。
「……ど、ど……」
 どうして、の一言が出てこない。怒りの感情が嵐となっての中をいっぱいにしてしまっていた。
 趙雲は静かに微笑み、の前に進み出、その脾腹を打った。
 声もなく崩れ落ちるの体を抱き留め、横抱きに抱え上げる。濡れた頬に頬ずりをすると、趙雲の頬もまた涙でしとどに濡れた。

←戻る ・ 進む→


Together INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →