目を覚ますと、辺りは既に薄闇に包まれていた。
 睫がやたらとごわごわしている。泣いたまま眠ってしまったのだろう。
 眠ったんじゃ、ない。
 目を擦りながら起き上がれば、壁にもたれた趙雲の姿があるのが視認できた。
「少しは落ち着いたか」
 いつも通り淡々とした口振りに、の中で何かが燻っていた。
 何でもない振りをした。
 趙雲は壁から身を離すと、の座っている牀に移ってきた。長椅子を少しマシにしたような簡易な寝台は、が使っているものよりは若干大きいようだったが、それでも狭く小さいものには違いなかった。
 しかとはわからなかったが、趙雲の執務室らしい。他に人気はなかった。
 すぐそこに居る趙雲との間に見えない壁を感じる。
 さっきまではわからなかったのだが、趙雲が近付いたことでその密度が圧縮されて固い透明な板切れの形になったように感じていた。
 黙ってを見詰めていた趙雲が、ふと吐息のような苦笑を漏らした。
「私は、お前の敵になったようだな」
 ぴく、と肌がさざめいた。
 敵という言葉は大袈裟のようでいて、的確にの心情を捉えていた。
「どうして、邪魔するの」
 趙雲も、孫策も、馬超も、自分が好きだといったくせに自分のやりたいことを妨害しようとする。
 敵だ、と思った。
 諸葛亮に『行ってもらわねばならぬ』と言われている。仕事なのだ。何故、邪魔をする。
 敵だからだ、と思った。
 の目から、再び涙が零れた。
 趙雲は頬杖をついてを見遣る。顔にはあまり表情はないのだが、呆れたような空気がそこにあった。
「お前はいったい、どうしたい」
 どこか棘のある問いだった。
 は涙を拭いもせず、目を細めて険しく趙雲を睨めつけた。
「私は、呉に行って……」
 そうじゃない、と趙雲は頭を振った。
「私達を、どうしたいのかと聞いている」
 思いがけない問いに、は黙り込んだ。
 趙雲は畳み掛けるように問い続ける。
「私達は、お前の望むことを望むままに叶えてやらなくてはならぬのか? お前のしたいことをしたいようにやらせてやらなくてはならぬのか? お前の甘えをすべて許し、お前の過ちを正してはならぬのか」
「過ち」
 聞き返したに、趙雲はこっくりと頷いた。
「お前は、孫策殿をいったい何者だと思っているのだ。そして、お前の立場はどのようなものだ」
 確認するまでもない。だが、趙雲は敢えてに問い掛けている。
 は嫌悪に口元を歪めながら答えた。
「……伯符は、呉の……跡継ぎで……私は、蜀の文官……」
 趙雲の目が静かにを射抜く。
 耐えられなくなったは、声を荒げて反論した。
「でもそれは関係ないじゃない! 呉の跡継ぎなら、嘘ついてもいいって言うの!?」
「お前が腹を立てているのは、そのことなのか?」
 それ以外、何がある。
 は趙雲を睨めつけた。
 仕事と私事を区別せず、が呉へ行くのを阻もうとしたのは孫策なのだ。嘘を吐き、を騙して置き去りにしようとした。
 だが、趙雲は首を振った。
「違うだろう、お前が腹を立てているのは、孫策殿がお前を置いていこうとしたことに、だろう」
 だから、とは言い返す。
 そうだと言っている。
 孫策が嘘を吐いて、を置いていこうとした、そのことに腹を立てていると言っているのだ。
 趙雲はしかし、違う違うと首を振った。
「わからぬか。ならば言い直そう、お前は、孫策殿に捨てられるのが嫌だったのだろう?」
 は。
 息を飲み、それきり言葉を失った。
 には趙雲が何を言いたいのか理解が出来なかった。
 趙雲は、軽く軽蔑するような目をに向けた。
「……お前は、孫策殿に捨てられるようで嫌だったのだ。だから、あれほど激怒してわざわざ孫策殿の元に押しかけようとまでしたのだろう?」
「違……」
「違わない」
 趙雲の視線は険しく、は湧き起こる怒りよりも強い恐れに打ちのめされて身を竦めた。
「お前は、蜀の一文官に過ぎない。その文官風情が、呉の跡継ぎに直談判など何様のつもりだ。孫策殿が『要らぬ』と言えば、後は呉の内政の問題だろう。蜀の文官が差し出がましく文句を言えた義理か」
 あ、とは叫んだ。
「……そう……か……そうだよ……ね……」
 正式でないにせよ、孫策は呉の正当な跡継ぎと定められた男なのだ。
 君主たる孫堅の意に跡継ぎの孫策が横槍入れたとすれば、それは如きが口を挟める問題ではない。劉備が承認したというなら尚更だ。
「……やっとわかったようだな。ならば、ついでだ。どうして目が曇ったか、教えてやろう」
 はおどおどとして趙雲から目を背けてしまった。背けざるを得ない羞恥心があった。趙雲の言わんとすることは、薄々察しがついていた。
「お前は、いつの間にか孫策殿と対等であると勘違いした。お前は、孫策殿に惹かれている。そして、我々がお前に惹かれているが故に、お前の意のままになると思い込んでいる。……何様なのだ、お前は」
 趙雲の言葉はすべて正鵠を射ている。
 耳というより胸の奥が痛い。鋭い刃で抉られたような痛みが走る。心臓がけたたましく脈打っていた。
 自分のことばかり考えていたことに、嫌でも気がつかされる。
 仕事というお題目を免罪符に、呉に行くのが当たり前で、何をできるかということばかり考えていた。置いていく人のことは何も考えていないと突きつけられる。馬超のことも、春花のことも、何もかもだ。
「……でも……だって……それが、一番いいって思ってたんだも……」
 声が震えている。
 甘えていると言われて、涙を見せるわけにはいかない。だが、込み上げる熱さを留め置くのは至難の技だった。少しでも自分の正当性を認めて欲しかった。本当に何も考えていなかったわけではない。
 認めて欲しいという考え自体が甘えだとしても、せめて、という気持ちは抑えられなかった。
「お前がそう思うのはお前の勝手だ。だが、何をどうしてもお前の過ちは取り消せはしない。認めろ」
 だが、趙雲は容赦なかった。
 堪えていた涙が堰を切って溢れた。
「だっ……だって……」
 春花を連れて行くわけにはいかない、危険だから。春花の身を案じたのだ。自分の独りよがりなどではない。
 馬超の願いを聞き届けるわけにはいかない。仕事なのだ。馬超が請うたからといって聞き入れれば、今度は馬超の立場が危うくなる。
 けれど、そうなのだ。
 これらはすべてが『こう』と決め付けたことで、相手がどう思うかなど考えもしなかった。すべて正しいと思うが故の好意だ。好意なのだから受け入れられなければならない……とどこかで考えていた。
 危なくてもいい、連れて行ってくれれば死んだっていい、と春花は言いたかったかもしれない。
 己の立場などどうでもいい、残ってくれさえすればいい、と馬超は言いたかったもしれない。
 言わなかったとしたら、それは偏にに辛い思いをさせないためだろう。
「でも……それじゃ……私は、どうしたらいいわけ……」
 何をどうするのが一番良かったのだろう。
「したいようにすればいい」
 趙雲の言葉は投げ槍で、無責任に過ぎた。
「ただ、相手がどう思ってそうしたのか、そう言ったのかを汲め。お前も文官のはしくれ、これから呉へ行こうというなら尚更だ」
 は愕然として趙雲を見詰める。
 今、何と言った。
 趙雲は、苦笑いを浮かべて体勢を崩した。
「本当に、私はお前に甘い。孫策殿を裏切ることになってしまった」
 どうしてくれる、と言う趙雲の相好は崩れており、優しげな目がを包んだ。
 の頬に流れる涙を指で拭う。後から後から零れてくる涙を、趙雲は面倒くさがりもせず拭い続けた。
 唐突な趙雲の肯定の言葉は、の胸の内にわだかまる暗雲にぽっかりと穴を開けた。素直に聞けずにいた言葉が、その穴からほろほろと落ちてくる。
「孫策殿がどうしてお前を置いていこうとしたか、わかるな」
 問われるまでもない。今なら理解できる。
「私が、病気で……うぅん、それじゃなくても、本当は呉に行きたくなくて、蜀に残っていたいって思ったから」
 まだ足りない、と趙雲は笑う。
「……私が、私には、その方がいいって思ったから……」
 趙雲は黙っている。
「私が、大切だから」
 だから、置いていこうとした。孫策は、自分の気持ちを犠牲にしてでもただがいいようにしようとしたのだ。
 込み上げる衝動に、趙雲の胸に飛びついた。
 趙雲はを抱き留め、優しく背を撫でてくれた。
「……お前は突拍子もないから、私も呉になどやりたくはない。私自身も、お前を傍に置いておきたい。いつも、いつでも手が届く位置に置いて抱きしめていたい。それはならぬことか? 欲するのもいけないと?」
 清廉な感情とは決して言えない。激しく渦巻く感情は、時に美しく透過することもあれば醜く濁りもする。
 捨てられないと足掻くのも捨てようと苦しむのも、同等に身を切り刻む痛みを伴う。
 それでも敢えて捨てようとした孫策の意志の強さに、趙雲はだから感じ入るものはあっても真似しようとは思わない。孫策もまた然りだろう。
 ふるふると首を振り、は趙雲の肩に頭をそっと乗せた。
 それぞれに想ってくれていることを、改めて実感した。
「……嬉しい」
 趙雲の指が髪を梳いていく。心地よさにうっとりとした。
「……でも、やっぱり春花を連れてはいけない。危ないし……お母さんにも頼まれているから。それに、やっぱり納得して送り出して欲しい。嘘、吐いてほしくない」
 わがままだ、と趙雲の声が直接体の中に響く。
 触れ合った肌から声が染み入ってくるのだ。
 落ち着いた。
 顔を上げると、自然に趙雲と口付けを交わす。
 ゆっくりと穏やかな口付けは、胸の内を幸福に満たした。
 唇が離れた途端、何故か無性に恥ずかしくなってきた。誤魔化すように話題を探す。
「で、でも、何も気を失わせなくったっていいでしょうよ」
 打たれた腹は痛くもなんともなかったが、何となく撫で回してしまう。
「お前があまりに怒り狂っていたからな」
 面倒で、と言われてが喚く。趙雲はそれを面白そうに見詰め、くすくすと笑った。
 趙雲と言う男は、何故かが怒れば怒るほど嬉しそうにする。そう言えば、孫堅もそんな感じだった。後で理由を問い詰めてやれと思いついた。たぶん嫌な顔をするだろう。
「……伯符、裏切ったって、大丈夫なの」
 お楽しみは後に取っておくことにして、気になることを先に問いかけた。
 趙雲は一瞬考え込んだようだったが、すぐに顔を上げ、さしてたいしたこともない、と嘯いた。
「そも、孫策殿の人選がなっていなかったのがいけぬのだからな」
 お前が疑問に思ったのだって、馬超の態度から類推してのことだろう、とに振ってくる。
 それはそうだ。だが、その物言いもどうかと思う。
「まず私に話を通しておけば、お前が出発当日まで、いやそれを過ぎても気付かぬように策を巡らせてやったものを」
「……イヤ、過ぎてもって。そんな鈍くないから」
 が反論すると、趙雲は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「お前が鈍くないというなら、私は神算鬼謀の如しだな」
 どういう意味だと問うと、そういう意味だと返ってくる。
 先程までの緩やかな空気が嘘のようだ。
 むっとして立ち上がるを、趙雲の腕が軽く引き留める。尻餅ついたを、趙雲はそのまま組み敷いた。
「ちょっと、退いてよー! 伯符のとこ、行ってくるんだからぁ!」
「……お前、私の話を聞いていたのか」
 どっと疲れが込み上げる趙雲を他所に、は何とか抜け出そうと必死にもがいていた。
「劉備様問い詰めるわけにはいかないし、伯符問い詰めた方が手っ取り早いもん! 気持ちは有難いけど、でもやっぱり嘘吐いたのは許せないっ!」
 身分差を考えろとも言ったつもりだったが、何処かに流されてしまったらしい。孫策は喜ぶだろうが、趙雲には面白くないことこの上ない。
 が怒るのは自分にだけであって欲しいし、が対等として真剣に思い悩むのも自分相手の時だけでいい。
 それがどうにもわからないらしいに、趙雲は実力行使を取ることにした。
「あっ、ちょっ、やだっ」
 襟を寛げ、舌を這わせ始めた趙雲に、は驚き更に暴れ始めた。
「暴れるな」
「暴れるでしょう、どうしたって暴れるって!」
 が暴れても、趙雲にはさしたる手間でもない。
 しかし、体が溶けるまでのわずかな時間の他愛無い遣り取りを、趙雲は心の底から愛しく思った。

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