孫策がの室を訪れると、は床にうずくまってうんうんと唸っていた。
 傍に屈み込んでじっと見下ろすのだが、一向に孫策に気付く気配がない。

 堪えきれなくなって呼びかけると、の背中の辺りがぴくりと反応した。
「…………」
「…………」
 沈黙の応酬があった。
「貴様のせいでっ!」
 がばっと立ち上がったの勢いに押されることもなく、孫策はの半泣きの顔を見詰めた。
「どした、何かあったか?」
 鼻の先が触れそうなほど近いというのに微動だにしない孫策に、仕方なくの方が引いた。
「……あった。ありました。いっぱいありました」
 おいでおいでをして孫策を卓に招く。
 先程まで魏延が座っていた席に掛けさせると、は卓の上の茶碗を片付ける。
「誰か、来てたのか」
「魏延殿が。もうお湯冷めちゃったから、水しか出せませんでございますよ」
 が怪しいながらも敬語を使っているのに気付き、孫策はそっとを伺った。
 とにかく『他人行儀が嫌い』というのもあったが、が敬語を使って寄越す時は、大抵孫策に対して何か憤っている時だ。
「……何か、俺、したか?」
「ほほう」
 の目が冷たく孫策を見下ろした。
「身に覚えがないと仰せか」
「……だからお前、なんだよその言い回し」
 はわざわざ壁際に置かれた燭台を卓に持ってくると、孫策に向け差し出した。
「吐け」
「わ、馬鹿、危ねぇって!」
 小さいとは言え燃え盛る炎を突きつけられ、孫策はのけぞった。
 秘密にしていることは確かにあったが、それをに告げることはできない。告げれば怒り狂うだろうし、孫策の言葉を聞こうともしないに違いない。既に前例があった。
 心の病を抱えたままで呉に連れ帰っても、の身にいいことがあろうはずもない。
 が大切だ。
 気が強くて頑固で聞き分けがなくて、ほっておくと何をしでかすかわからない、狙いを定めぬまま放つ矢のようなが好きで好きでたまらない。
 こんな破天荒な女は見たことがなかった。
 ただ奔放と言うわけではない。深い情を持ち合わせ、己の信念に見合う知恵と知識を秘めている。
 この天の下でたった一人の女。
 だからこそ、ここに置いていってやろうと心に決めた。
 孫堅がどう考えているかはわからない。あの親父は、昔からこの上もなく頼もしい代わりに、この上もなく厄介な男なのだ。
 英雄、と称する意見に反する気はないが、英雄と言う『特別』であるが故に胸の内を吐露しない悪い癖があった。
 一つだけわかっていることがあるとすれば、に深い興味を抱いているということだけだろう。
――そうなんだよな。
 孫策には、何よりそれが気に入らない。惚れたはれたではない。『興味』なのだ。
 孫堅がに惚れたというなら、遠慮なく宣戦布告してやることができる。事実、孫権にはそうした。
 けれど、孫堅がに惚れているかと言うとどうもそうではない。だから、孫策も喧嘩を売りそびれているのだ。
 とは言え、孫堅がを欲しがっているという一点に関しては間違いようもない。
 なので、尚更を呉に連れて行くわけにはいかないのだ。
 が燭台を突きつけてくるのを避ける振りをして、孫策はすすっと扉まで後退した。
「……んだよ、迎えに来てやったっつーのに、なら俺ぁ帰るからな」
 誤魔化して扉の取っ手に手をかけると、は卓の上に燭台を置き、腕組みして孫策を睨めつけた。
「まだ誤魔化そうと仰るか。ネタァ上がってるんでござるですよ?」
「……何が」
 もはや奇天烈な言い回しにも気を回せない。確信じみたの言葉に、孫策は己の動揺を押し殺すのが精一杯だった。元々、嘘は得意ではない。
「子龍が、吐いたんだ……ですからね」
「げ」
 一声呻くなり、孫策は固まった。
 巻き込めと言って無理矢理仲間に入ってきた癖に、速攻でバラしている。
 だから嫌だったんだと臍を噛むが、今となっては後の祭りである。
「……連れて、いかねぇぞ」
「そんなの、伯符が決めることじゃないでしょ」
 の声は厳しい。
 怒り狂ってくれた方がまだ誤魔化しやすい。こうも冷静では、この前のように有耶無耶にすることもできない。
 どうするか。
 この手の策略は乳兄弟に任せきりにしていただけに、咄嗟の判断がつかずにいた。
 蛇に睨まれた蛙のようにだらだらと脂汗を流す孫策に、の肩からふっと力が抜けた。
「……何で、連れて行きたくないの?」
 意外な問い掛けに、孫策も目を丸くする。
「ど、どうしてって……そりゃお前」
 夢を見ながら出歩くなど、尋常ではない。それが呉に行くことへの嫌悪からくるとすれば、呉に連れて行かないのが一番の治療ではないか。
 は気鬱そうに重い溜息を吐いた。
「……そりゃね、ホントにそれが原因ならね」
 扉前で固まっている孫策を、は手を引いて椅子に連れ戻す。燭台も、元の位置に戻した。
 椅子を孫策の横に引き摺ってくると、すぐ隣に並べて腰掛ける。
 いつものとは様子が違って、孫策はやや焦りに似た感情を覚えた。
 問われて正直に答えると、は足を投げ出して踵で床をこつこつやり始めた。
「そりゃあ、ちょっとはね、成長するよ私も。伯符だって、前だったら私を置いていこうって思わなかったんじゃない?」
 前に蜀に来た時は、何が何でも連れて行くと駄々をこねていたのは孫策なのだ。
「……あー、そう言われりゃ……」
 そうかな、と顎を掻く。
 そうだよ、と相槌を打つと、は孫策を見上げるようにして見詰めた。
「私ね、それが普通だと思ってる。人は、変わっちゃうもんだよ。だから、怖いし……信じられない」
 言葉とは裏腹に、の口元には微笑が浮かんでいる。
「でもね、全然変わんないのも変だし怖いよね。だからさ、なるべくいい方に変わっていきたいなって」
 いつ嫌われるか、そう考えて怯えるのはなかなか直せそうにもない。ならば、信じる気持ちの方を強くしていこうと思う。
「話戻すけどさ、夢遊病……夜、ふらふら出歩くのね、あれだって理由ははっきりしないわけだよ。だからもし、伯符が一人で呉に帰ってもまたふらふら歩いてるって可能性もあるわけだよ」
「でもよ」
 孫策が身を乗り出すのを、はわかってると言って押し留めた。
 現段階で最も可能性が高いのは、それなのだ。
 呉に行かなくて良くなったとして、治らない可能性も確かにあるが、と言うことは治る可能性だって否定できない。
「要は、やってみなくちゃわからないってことだよね」
 だったら、呉に行ってみたっていいだろう。
「呉に行って、それで悪化するようならその時に帰ってくればいいじゃない?」
 孫策は口を噤んだ。言いくるめられる予感に、苦虫を噛み潰すような顔をした。
 もそれに気がつくと、苦笑を浮かべた。
「……あのさぁ、でも、伯符だって孫堅様をどうやって説得する気よ。生半じゃ通らないでしょ、あの人」
 人の父親をあの人呼ばわりするのも何だけど、と言っては笑った。
 それを言われると、弱い。
 具合が悪くなったと言えばしばらくは何とかなるかもしれないが、今度はでは良くなったらという話になるのは間違いない。
 その時はその時と思っていたが、行き当たりばったりで誤魔化される孫堅ではないのだ。
「つか、伯符、何処まで話通してあるのよ」
 劉備に話を通してあるらしいことは魏延から聞いた。だが、諸葛亮がむざむざ許してくれるとは考えられなかった。
「……お前のとこは、君主より軍師のが強ぇのかよ」
 呆れたような孫策を、は『あぁ強いさ』といなして話の続きを促す。
「劉備に話した時には、諸葛亮も居たぜ。でもなぁ、羽扇ぱたぱたさせて、笑うだけなんだよな、あいつ」
 の気質を見抜いていた諸葛亮は、敢えて反対もせずに見守っていたのだろう。が了承するわけがないと思ったに違いない。事実、その通りになっている。
――こうであるべき、という信念は時に愚かで薄弱です。
――ただ、相手がどう思ってそうしたのか、そう言ったのかを汲め。
 諸葛亮と趙雲の言葉が蘇った。
 分かり合うためには冷静さを欠いてはいけない。どんなに愚かな振る舞いでも、裏に何か隠されていることがある。
 悪意ならば敵対してもいいだろう。毅然としてなめられぬように立ち振る舞わなければなるまい。
 だが、そこに一片の善意があるのならば、話はまったく変わってくる。誤解ならば、解くこともできるからだ。
「まだまだだよねぇ……」
 溜息しか出ない。
 孫策も、の隣でばつの悪そうな顔をしている。
「……あのさ、子龍のこと、怒らないでね。私が伯符のとこに怒鳴り込みに行こうとしたの、止めてくれたの子龍なんだから」
 怒りに任せて飛び込んでいたら、どんな酷いことを言っていたか想像もつかない。ぞっとした。
 孫策は口を尖らせたが、ん、と眉根を寄せた。
「……子龍がお前に教えたんじゃねぇのか?」
 どうも話の順序がおかしいと孫策は渋面を作る。
 が事の次第……魏延が劉備の元で聞い及んだことを、うっかりに話してしまった件を話して聞かせると、孫策の口元に嫌な笑みが浮かんだ。
「……ってぇことは、責められるべきは劉備だってことだな?」
 立ち上がり室を出て行こうとするのを、は慌てて引き止めた。劉備に手を出されるなら、趙雲と遣り合ってくれた方がマシだ。
 何とか他の話題を、と考えあぐねて、扉の寸前でようやく思いついた。
「あっ、あのさっ、私、足、完治したんだよ! 何かお祝い頂戴!」
 取っ手に手を掛けかけた孫策が、くるーりと振り返る。
 何とか気を反らすことに成功したと喜ぶのも束の間、ひょいと抱きかかえられて奥に運ばれる。
「……よし、お祝いだな、任せとけ」
 途中、衝立に気付いて覗き込んだ孫策が、盥に水張ってあるなら上等だと嘯くのを聞きつけ、は顔面蒼白になった。孫策の『お祝い』が何か察しがついたのだ。
「だっ、駄目、アレ汚れてるからっ!」
「……そんなに汚れてるようには見えねぇぞ」
「見えなくても汚れてるから、駄目っ!」
 寝台に運ばれ、寝かしつけられて上から覆い被られてしまった。
 見下ろす孫策の目が、何処か険しい。
「……お前、さっき魏延とかいうのが来てたって言ってたな」
 言外に『まさか』を匂わされ、もカチンときた。
 魏延の名誉を汚されたような気にもなったし、何より尻軽扱いされたことが気に食わない。
「そんなわけないでしょ、ただ……!」
「ただ、何だよ」
 憤りのあまり、言わなくていいことを話しかけてしまった。慌てて黙ったが、孫策が聞き逃すはずもない。
「な、な、何でもない」
「何でもねぇことあるか、言え」
 狭い寝台では逃れようもなく、膝を割られた挙句に肩に乗せられてしまった。
 恥ずかしい体勢で何か固いものを足の間に押し付けられ、揺らされる。
 すぐに反応を返す体が恨めしい。
 陥落しかける体を必死に律しようと、は無駄な努力に勤しんだ。

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