馬超が単騎で屋敷に戻ると、出迎えた家人は驚きつつも馬超に微笑みかけた。
「やはり、ご心配であらせましたか」
 何のことかと思うのだが、家人は馬超の手から奪い去るように手綱を受け取ると、とにかくお急がれませ、と馬超を急かした。
 すっかり勢いを殺がれた馬超は、それでやっと屋敷の中に張り詰める空気に気付いた。
 中に入ると、桶を抱えた家人が馬超を出迎える。
 やはり馬超の姿に立ち竦むものの、転瞬安堵の表情を浮かべる。
「何だ、何があった」
 馬超の問いかけに、家人の顔に疑問が浮かぶ。
さまを案じられてお戻りになったのでは、ないので?」
 さっと顔色を変える馬超に、家人は慌てて言葉を付け足した。
「医師殿がお見えになられたのですが、さまのおみ足の筋が、捩れたまま癒着してしまっていると仰られまして。無理にでも戻さねば今後歩くのに差支えがあると、ただ、かなり痛むからとのお話で」
 馬超は、背中越しに家人の言葉を聞きながら、廊下を駆け出した。

 玄関からのいる室までが、これほど遠いと思ったことはない。
 馬超が息急き切って扉に手をかけると、中から声にならない悲鳴が響いてきた。
 矢も盾もたまらず中に飛び込むと、が口に布を咥え、牀の足にしがみついているのが目に入った。
 額に浮いた脂汗がぎらぎらと鈍く光っている。
 苦痛を絵に描いたようなその顔に、馬超も腹の辺りに鈍い痛みを感じるほどだった。
「……我慢、なされよ」
 医師と思しき初老の男が、弟子に命じての足を抑えさせる。その足首をぐ、と伸ばすと、再びの顔に苦痛が刻まれる。
「止めろ!」
 思わず馬超が叫ぶと、医師や弟子、も一斉に馬超の方を向く。
 視線の威圧に後退りそうになるが、堪えての元に向かう。
 屈みこみ、の肩を抱くと、の目からぼろぼろと涙が零れた。
「痛いのか」
 頷き、子供のように眼をこするに、馬超はどうしようもなく憤るものを感じた。
 医師を振り仰ぎ、睨めつける。
「……これ程痛がっているものを、無理強いするのは如何なものか!」
 並みの兵士なら縮み上がる馬超の恫喝も、医師には通じなかった。ふん、と鼻であしらわれ、馬超の顔に怒気が走る。
 弟子達がおろおろとする中、医師はに静かに問いかけた。
「どうする、止めるかね」
 は目に涙を溜めて逡巡していたが、やがて意を決したように首を振った。
 馬超が驚き、を諌めようと口を開きかけるが、何と言ったものかわからない。
「将軍、あんたもわざわざお戻りになったのなら、少し治療を手伝ってもらえんかな。牀の足よりは、多少は役に立てるじゃろ」
 鎧を脱げと言われ、馬超はその意図を飲み込めず不満を露にする。
 医師はそれでも動じない。
「その娘さんの爪が、鎧で割れてもいいと言うなら着けているがいい」
 あっと声を立て、ようやく馬超は察した。
 が痛みを堪える為に、抱き締めて支えてやれということか。
 なるべく早く外さねばと焦ると、尚手間取る。馬超は、恐る恐る覗き込んでいた家人を呼びつけ、鎧を外させるのを手伝わせた。
 布服だけになると、改めての傍らに膝を着き、その身を抱き寄せる。
「痛ければ、俺にしがみ付け。遠慮はいらん」
 は馬超の目を見詰め、ごめんね、と呟くとおずおずとしがみ付いてきた。
 腕に抱くと、懐かしい体臭が鼻をくすぐる。
 痩せたな、と実感した。
「舌を噛まぬようにな」
 医師の言葉に強張る体を、解すように撫でてやる。少し緊張が和らいだのを感じ、場違いな愛しさがこみ上げた。
「……むっ」
 医師の掛け声に併せ、布を噛むの口から悲鳴が漏れる。鼓膜に響く悲痛な叫び声に、馬超は奥歯を噛み締めた。
 背に、の爪が食い込む。
 それより何より、の頬に伝う涙が己の首筋を濡らしていくのが辛かった。
 馬超はなるべくが楽になるように、腕の奥へと巻き締めた。
 苦痛の時間は、しばらく続いた。

 治療が終わり、の足には添え木が当てられ、厚くきつく白布が巻かれた。
「動かさんことじゃ。この足で相当うろついたじゃろう。それがいかんのじゃ」
 当のはぐったりとして牀に横たわっており、何故か馬超が医師の診断を聞かされていた。
「当分は、将軍にも控えてもらわねばならんぞ」
 何をだ、と素で聞き返す馬超以外は、皆一様に頬を染めて俯いた。
「足を動かしてはならんと言っておる。まぁ、動かさずに出来るものならばするといいじゃろう」
 未だ医師の言葉が理解できない馬超は、とりあえず神妙に頷いた。
 医師は、馬超の顔をしばらく見ていたが、まぁええわいと腰を上げた。
「今日明日は熱が出て痛むじゃろうから、冷やしてやることじゃな。何かあったら儂を呼ぶがええ」
 弟子を引き連れ帰って行く医師を見送ろうと、腰を浮かした馬超に医師はへろへろと手を振った。
「将軍、あんたは娘さんに着いていなされ。酷く捩じくれておったしな、あれは大の男でも辛かろうて」
 馬超は、素直に医師の好意に甘えることにした。
 拱手の礼で医師を送ると、ぴくりとも動かないの傍に腰を下ろす。
 額に浮いた汗を拭うと、は薄っすらと目を開けた。
 黒目がもどかしげにきょろ、と動き、馬超の姿を認めるなり、また涙を滲ませた。
「……うぁ、も、痛かったー……」
 ぐしぐしと目を擦っている。年上の女の仕草とは到底思えない。馬超は何をどうしたらいいのかと困り果て、思いつくままにの頭を撫でた。
 おとなしく頭を撫でられていたは、ふと馬超に顔を向けた。
「孟起、痛かった?」
 痛かったのはお前の方だろう、と馬超は眉を顰めたが、ふと気がつくと確かに背中がひりひりとする。の爪が食い込んだのだろうが、治療中はを気遣うあまり忘れていた。
「……大丈夫だ」
 気にするな、と頭を撫でると、の指が馬超の手に触れた。
「ごめんね」
 の手を覆うように握りこむ。
 小さな、薄い手だと思った。
 鍛えているだけあって、馬超の手は固く厚い皮で覆われており、今も肉刺がごつごつとしているのが自分でもよくわかった。
 馬超はの顔を改めて見詰めた。
 美しいとは言い難いが、愛嬌のある、愛らしい顔立ちをしていると思う。勿論、惚れた目には痘痕も笑窪などと言うから、馬超の贔屓目は否定できない。
 だが、惚れたのは他者ではなく馬超なのである。
 自分がいいと言うのだからいいのだ、と馬超は開き直った。
「……何?」
 気がつけばが馬超を見上げている。凝視していたのを悟られて、馬超は頬を染めた。
 ふと思い出し、再びを見下ろす。
 そもそも馬超が戻ってきたのは、の帰郷が一時的なもので、時を置けばまた呉に戻ると聞かされてのことだった。
 問い詰めてもいいのだが、弱りきったにそれをするのはどうにも躊躇われた。
「……早く、治してしまえ」
 涙で濡れる眦に唇を押し付け、囁く。手の中で、の指がぴくりと跳ねた。
 少しずつずらしていき、一度顔を上げ、思い切ったようにの口を吸った。
 甘い、と感じた。
 舌で感じる甘味とは違う、けれど甘いとしか表現しようがない。
 唇を押し当て、食むようにして感触を味わう。
 何時までもそうしていたい感慨に浸るが、そうもいかないことは重々承知の上だ。
 顔を上げると、の唇から熱い吐息が吐かれた。
 背筋がぞくりと震える。飢えていたことをまざまざと思い出した。
 ごくりと唾を飲み込み、の首筋に舌を這わす。ぴくっと跳ねる肌に煽られた。鼓動が早く高く鳴る。体の奥から熱が沸き立ち、馬超は牀に乗り上げてに覆い被さった。
「痛……」
 の眉が顰められ、馬超は我に返った。
 視線で辿れば、痛々しい足首の白布が目に飛び込んでくる。
 医師の言葉が何を指しているのか、何を我慢しろと言っていたのかやっとわかった。
「…………」
 絶句するしかない。
 我慢に我慢を重ね、ようやく腕に戻ってきた愛しい女を抱くことが出来ない。触れることが出来るだけに、蛇の生殺しとはこういうことか、と愕然として実感せしめられた。
「……すまん」
 歯噛みしつつもを気遣い、体を起こす。
 は馬超を見上げ、何か思案しているようだった。が、疲れ切っていたのか、言葉は紡がぬまま眠りに落ちてしまった。
 取り残された馬超は、何とも情けない面持ちでその寝顔を見詰めた。
 が悪いわけでもないし、かと言って己が悪いわけでもない。
 複雑な心境に駆られつつ、馬超は牀に寝転がった。
 物は考えようである。
 動かしてはならぬのなら、しばらく、少なくともこの怪我が治るまではを屋敷に留めておける。誰が何と言おうと、だ。
 いっそずっと怪我をしていればいい。
 惨いことを考えている自分に自己嫌悪するが、思考はすぐに切り替わり、を取り返しに来るだろう孫策や趙雲を、如何にして排除すべきかと思い悩み始めた。
 馬超は、馬岱が己の為に諸葛亮と渡り合い、を看護する権利を勝ち得ていたことを知らないでいる。

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