春花が持ってきてくれた茶で、水入りならぬお茶入りになった。
 第三者の登場で、劉備もさすがに人目のある場所で不貞腐れているのはまずいと思い直したらしい。起き上がるとにこにこして、春花が茶を淹れるのを待っている。
 春花は春花で、の隣でごろ寝していた劉備にびっくりしたようだ。まさか居るとも思ってなかったろうし、一国の主がこんな所でごろ寝しているのも想像外だったに違いない。
 それが証拠に、茶を淹れつつもの顔をちらちら見ている。
 何と応えていいかわからず、は再び試合会場に目を向けた。

「まさか、初っ端から当たっちまうとはね」
 ホウ統は眉間をこりこりと掻いた。
 魏延は不思議そうにホウ統を見ている。
 元々、大会そのものに参加するつもりではなかったのに、諸葛亮に言い篭められてしまった。普段であれば絶対にそんなことはさせなかっただろうが、無理を通した手前逆らい難かったのだ。
 試合開始の号令は既に掛かっている。
 見物客の好奇心に満ちた目は、ホウ統に要らぬ焦りを与えた。
 どんな戦の時でも、これほどの重圧を感じたことはない。何となれば、それはホウ統が皆の注目の外にいたからだ。
 作戦の立案をしようが奇襲の責任者になろうが、基本ホウ統は皆の視線を掻い潜っていた。気配を殺し、影を薄くして注目を避けてきた。
 だが、ここはいけない。
 闘技場ではどう足掻こうが存在を消すことは出来ない。
 何と言おうが一対一、注目される他ない。
 それが、ホウ統には意外に堪える。
 別に、何と言うこともないじゃあないか。
 自分にそう言い聞かせる。
 孤島で暮らしているわけでもなし、出会えば挨拶もされようし友と語り合いもする。人目につくこととて初めての経験ではない。
 だが、今この時の視線は、何故かホウ統の足を重くさせた。
 醜い男が、嫁を取ろうとてか。
 大会のお題目が重かった。
 そんなつもりでなくても、周囲の者はそう思うだろう。
 理由に気付けば、尚更足が重くなる。
 やれやれ、難儀だね。
 約束を忘れたわけではない。脳裏には、むっとしつつ『絶対勝て』と命じたの顔が焼きついている。
 汗が滲んだ。
 魏延が突然口を開いた。
「ホウ統、腹……痛ムノカ」
 一瞬虚を突かれ、ホウ統はぽかんと口を開いた。
「……いや、そんなこたぁないがね」
「ソウカ、ナラ、我ト戦ウ」
 わくわくとして両刃の長刀を振り回している。ホウ統と戦うのを待ち望んでいるとしか思えない。
 魏延には、この大会の趣旨などどうでもいいのだ。
 わかった瞬間、全身から力が抜けた。そも、誰の為のお膳立てだったと思っているのか。
「……まったく、仕方のない人だね……」
 ホウ統の杖では、この大会には不利だ。距離を保ちつつ、上手く無双の力で圧倒するしかない。
「いくよ」
 再び顔を上げたホウ統は、すっきりと落ち着いていた。
 魏延対ホウ統、瓦一枚差によりホウ統の辛勝。

 姜維は構えを取らない趙雲を、不思議そうに見上げた。
 何かの作戦かと思うから、自らの構えは解かない。趙雲との実力差は身に染みてわかっている。戦場ならば策を用いて対抗しうる手段は幾らでも講じられるだろう。
 だが、勝利する為の条件が幾つかあるとは言え、一対一の戦いでは姜維に不利だ。
 特に得物が同じだというのが痛い。大会用にと、槍は槍で同じ形に統一されているのだ。三つ又の槍を愛用している姜維にとっては、どうしても勝手が違う。
 用心に用心を重ねても少しも安心できない。
「姜維」
 趙雲が口を開く。目は、何処か遠くを見ている。
「お前はこの戦いに勝って何とする」
 訳のわからないことを聞く。
 何かの策かと一瞬考え込んだ姜維は、焦れた風を装って趙雲に踊りかかった。
 構えもしない趙雲の槍が閃き、姜維の突きを弾いた。そのまま交差した槍に添って、二人は背中合わせになる。
「……無論、私は殿と共に行きます……私の望みは、あの方を支えて差し上げることですから」
「そうか」
 ぞくん。
 姜維の背筋に、瞬間寒気が走った。
 肩越しに見えた趙雲の表情は常と変わらない。だが、その身から放たれる殺気は凄まじいまでに冷ややかだった。
 槍を弾いて距離を取る姜維に対し、趙雲はまるで姜維が居ないかの如く落ち着き払っていた。手にした槍を試すように幾度か旋回させると、沸き起こる風が風圧と化して観客の頬を冷たくした。
 どっと沸く観客を他所に、趙雲は酷く静かだった。
 対峙して初めて、この男の恐ろしさに気付くだろう。姜維もまた、趙雲を敵に回すことの恐怖を今初めて思い知らされていた。
 趙雲の槍がひた、と止まり、姜維に向けて突き出される。
 ただの、訓練用の木の槍だ。穂先も丸められ、突きの威力も和らげられているはずだ。
 だが姜維の背中には冷や汗が浮いている。つ、と走った汗の不快感に、姜維の眉間に皺が浮いた。
「ならば」
 趙雲の声は、やはり静かだった。静か過ぎて人の声にも思えない。
 ならば何かと問われても、思いつかない。強いて挙げるなら、鮮烈な悪意に声を与えればこうなるのではないかと思われた。
「お前を打ち倒そう」
 来る、と思った瞬間には、趙雲の顔が目の前にあった。
 槍で防御した箇所は勘に過ぎない。だが、的確に趙雲の突きを防いだ。
 勢いで後方に飛ばされる。
 着地した瞬間、姜維は更に後方に飛んだ。観客達が左右に割れ、その空いた場に姜維は降り
立った。
 姜維が一度足を着いた地点に、趙雲の槍の穂先がある。
 一度目は心臓、二度目に狙ったのは喉だ。
 ぞっとした。
 確かに胸には瓦が取り付けられている。しかし、喉にはない。
 趙雲は瓦を割るという面倒な手間を省きに掛かったのだ。気絶と言えば聞こえはいいが、試合を続けられなくなるように仕向けようとしたに違いない。
 殺そうと言うのではないだろう、けれど殺してもいいという意志を感じて、姜維は青褪めた。
 闘技場に戻らなければ。
 場外の制限時間を数え上げる声が響いている。
 しかし、闘技場の淵に立って姜維を見下ろす趙雲を、どうやって退かしたらいい。
 まるで獲物をいたぶるような凶悪めいた凍える目に、姜維は歯軋りした。
「二人とも、がーんば、れー!」
 突拍子もなく気の抜けた声援が飛んだ。
「しりゅー、ちょっとは笑いなさいよー!」
 さーびすさーびすぅー、と謎の言葉が続く。
 前方に、が笑って手を振っているのが見える。
 何かに気付いたように下を向き、苦笑しながら頭を掻いているから、誰かに頼まれでもしたのだろうか。
「とにかくー、二人とも頑張れー!」
 そう言うと、今度は違う闘技場の応援をし始めた。姜維と趙雲にしたのだから、他の者にもしないと駄目だと思ったのだろうか。何とも律儀な話だ。
「早く、上がって来るといい。時間切れになるぞ」
 声がけられて振り仰げば、そこにすっかり殺気の抜けた趙雲が居た。
 の効果は絶大だ。あの趙雲が、一瞬にして毒気を失くしている。
 ぽかんとしつつも、確かに趙雲の言う通り、早く上がらねば場外負けを喫する。片手を支えに飛び上がった。
 ぱしん。
 その手が振り払われる。
 背中を向けたままの趙雲が、振り向きもせずに槍を凪いだのだ。
 槍は的確に姜維の手を狙い、絶妙な呼吸で姜維を再び場外に叩き落した。
 背中から落ちるような無様は見せなかったものの、姜維は飛び起きると顔を真っ赤にして趙雲を睨めつけた。
「趙雲殿!」
「……姜伯約、時間切れ! よってこの勝負、趙子龍の勝ちとする!」
 姜維の怒鳴り声と、審判の宣告が重なる。
 振り返った趙雲の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
 姜維対趙雲、姜維の場外負けにより趙雲の勝利。

 趙雲の部下に再度懇願され、応援したもののブーイングを食らってしまった。
 誰に勝って欲しいと思っているのですかと問われれば、誰だろうと返すしかない。
 仕事の邪魔さえしてくれなければ誰でも良い。
 趙雲達を応援してしまったから、他の組も応援しなくてはならなくなった。そこらへんは公平に行わなければ駄目だろう。
 趙雲の部下達は不満そうな顔をしながら、趙将軍が出てきたらちゃんと応援して下さいと言い残して走って行ってしまった。
 対姜維戦を見に行ったのだろうが、彼らが戻る前に姜維の場外負けで試合が終わってしまった。
 いらんことを言いにこなければ最初から最後まで見れただろうに、よほど上司思いなのだろう。
 それにしても姜維は何をやっているのか。駆け引き下手では、戦の時に思いやられる。ただでさえそこら辺は馬超が足を引っ張っているのだから、姜維が頑張らなくては諸葛亮も安心できまい。
 口の中でぶつぶつ言っていると、背後から冷たい視線を感じた。
「……話した通りであろう?」
「相申し訳ありません、さまはどうも一つことに夢中になると、他が目に入らないというか何と言うかで……」
 はあぁ、と重苦しい溜息を吐かれ、の口元が強張る。
 いつの間に意気投合したのか、劉備と春花はお茶を啜りながら干菓子を齧っている。
「あ、ズルイ、私のは?」
 春花がぎろりと横目で睨みつけてくる。
「疾うにお出ししておりますよ、ご自分の後ろを御覧なさいませ」
 言われて振り返れば、の背後に茶碗が置かれている。
「何度お声掛けても振り向いても下さらないんですもの。春花はもう、呆れるやら劉備様に申し訳ないやらで」
 本当に申し訳ありません、などと母親のように劉備と話している。
 むっとしつつも茶碗を取る。
 ひんやりと冷たかった。

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